« 藤原北家・独占!摂関政治の始まり | トップページ | 毛利水軍VSポルトガル船~前代未聞の門司城の攻防 »

2009年8月20日 (木)

鍋島直茂の奇襲作戦~佐嘉城・今山の戦い

 

元亀元年(1570年)8月20日、大友宗麟の命により龍造寺隆信佐嘉城を囲んだ大友親貞の軍に、龍造寺配下の鍋島直茂が奇襲をかけて大友軍を撃破した今山の戦いがありました。

・・・・・・・・・

周防(山口県)の名門・大内氏なのどの介入もあり、様々に政情が変化した戦国時代の九州地方・・・そんな中、ここにきて「九州三強」と呼ばれはじめたのが、薩摩(さつま・鹿児島県)島津義久豊後(ぶんご・大分県)大友宗麟(そうりん)肥前(ひぜん・佐賀県)龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)・・・

しかし、鎌倉以来の豪族とは言え、もともと九州北部を支配していた少弐(しょうに)の配下であった龍造寺の(8月15日参照>>)、しかも分家の出身である隆信は、隣国の宗麟にとっては新興勢力です。

元亀元年(1570年)3月、「ここは一つ、これ以上勢力をつける前に叩いてやろう」と、隆信の本拠地・佐嘉(さが)城への侵攻を開始します。

・・・とは言え、日頃から、現地へ赴いて最前線に立つ事が少ない宗麟・・・今回も一族(甥とも)大友親貞(ちかさだ)を総大将に佐嘉城・攻略戦に向かわせます。

なんだかんだで、この時点で北九州では最大の勢力を持つ大友氏・・・地元はもちろん、進軍する先々で国人たちが味方につき、最終的に6万という大軍勢になって佐嘉城を囲みます。

一方、守る龍造寺は、わずか3000・・・男・隆信、最大のピンチです。

数にものを言わせて、佐賀平野を埋め尽くすがごとく城を囲み、圧力をかける大友勢ですが、これが、終始小競り合い程度で、なかなかズバッとした攻撃を仕掛けて来ない・・・。

城の北西10kmほどのところにある今山に本陣を置いた総大将の親貞・・・「これだけ囲んどいて、何をモタモタしてるんだ?」と思いきや、これが、どうやら占いによる行動だったらしい・・・

つまり、占いで、「まだ攻撃をしちゃいかん!」なる指示が出ていて、運気が好転するまで、ちゅうちょしていたのだとか・・・

現代人の我々にとっては、そんな迷信に頼らず、情報を収集して絶好の機会に撃って出るべき・・・と考えますが、以前、軍師のお仕事のページ(5月23日参照>>)でもご紹介させていただいたように、意外と戦国武将は縁起を担いだり、運に頼ったりしてます。

・・・とは言え、あまりの戦勝報告になさに、イラ立つ宗麟は、筑後福岡県南部)まで出張ってきて、総攻撃をうながすのに答えて、来たる8月20日に総攻撃を仕掛ける決意を固めた親貞は、その前日、戦勝祝いと称して酒宴を開きます。

「何やっとんだ!」
と、怒りたくもなりますが、親貞にしてみれは、それだけ、数のうえでも負けるはずのない城攻めだった・・・あるいは、これもゲンかつぎって事なのでしょう。

しかし、そんな大友勢の油断を見逃さなかったのが、龍造寺の重臣の鍋島直茂(信生)・・・彼は、隆信に、わずかな手勢での奇襲作戦を提案します。

Sagazyouimayamazucc
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

あまりの大胆な作戦に、最初は猛反対だった隆信でしたが、直茂・本人のヤル気、母・慶誾尼(けいぎんに)モーレツ説得(3月1日参照>>)などにより、この作戦の決行を許可します。

大友勢が宴会もたけなわの前夜、わずか500人の手勢を従えて、佐嘉城を出て、密かに、総大将・親貞のいる本陣へと向かいます。

そうです・・・総勢6万とは言え、広範囲に兵力を配置していたため、この時の本陣には、わずか数千の兵しかいない事も確認済み・・・

かくして、元亀元年(1570年)8月20日未明・・・本陣・今山の背後に身をひそめて機会を待っていた直茂の手勢は、一斉に鬨(ときの声を挙げ、前日の祝宴で、未だ爆睡中の大友勢に襲いかりました。

仕掛けられた側は、何がなんだかわからず、大混乱となる中、次々と兵を打ち破る直茂らは、とうとう総大将・親貞の首も討ち取ってしまいます。

こうなると、大軍は散り々々となり、我先にと戦線離脱していきます。

なんせ、先に書いた通り、6万というのは、途中から加わってきた国人衆を含んでの数・・・それも、寄らば大樹の陰とばかりに、とりあえず勢いのある大友に味方しておこうと言った、いわば烏合の衆で、心から大友に忠誠を誓った臣下の者ではありませんから、崩れるとなると早いです。

こうして、今山の戦いは、あっけなく龍造寺の勝利に終わります。

ただ、宗麟が出張ってきていた事もあり、この一戦だけで、大友勢が兵を退く事はなく、この後も、しばらくの間、佐嘉城の包囲は続きますが、結局、何をするという事もなく、半年後には、和議を結んでの撤退とあいなりました。

ちなみに、ご存知のように、肥前の熊とよばれた龍造寺隆信は、晩年、酒におぼれ家臣からの信頼を失い、島津との沖田畷(おきたなわて)の戦いで戦死(3月24日参照>>)・・・その後の龍造寺氏は一気に勢力を失い、今回の今山の戦いで大活躍した直茂がとって代わるかたちとなり、江戸時代を通じて、佐賀=鍋島藩という事になるのです(10月20日参照>>)

そんな龍造寺からの交代劇も含んだ鍋島の化け猫騒動については、9月6日のページでどうぞ>>
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 藤原北家・独占!摂関政治の始まり | トップページ | 毛利水軍VSポルトガル船~前代未聞の門司城の攻防 »

戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

茶々様 おはようございます。

龍造寺隆信はこののち肥前を統一、52歳で隠居したみたいですね。
「晩年、酒におぼれ」とありますが、隠居後になぜ酒におぼれたのかとても興味あります。
原因がわかれば教えてください。

投稿: 山根秀樹 | 2021年8月20日 (金) 09時56分

山根秀樹さん、こんばんは~

>「晩年、酒におぼれ」

そういうお話が残っている事は知ってますし、実際そうなのかも知れませんが、私個人としては、噂されるほどの溺れっぷりでは無かったように感じています。

と言うのも、もし、そこまで主君が堕落していたら、家臣団にも亀裂が入ったり、離脱者が数多く出て来て、軍団自体がグダグダ感ハンパ無いと思うのですが、あまり、そのようなお話は聞きません(もちろん、まったく無かったわけではないと思いますが…)

ルイスフロイスが見た沖田畷の戦いの少し前の龍造寺の軍団に対する感想によると、家臣団の士気も高く有能な軍団で「島津は負けるんじゃね?」みたいな事を書いてますし、沖田畷で大将の隆信が討ち取られた後も、逃げ出す将兵はほとんどおらず、あの四天王たちも、皆、忠誠を尽くしています。

ただ、むしろ完璧な軍隊だっただけに「負けるわけない」との判断による、少しの気の緩みや驕りがあったところに、島津が見事な奇襲作戦を実行して、まさかまさかの大将討死になってしまって、全軍が乱れて…みたいな感じで負けてしまったのでは?
と想像してます。

桶狭間の今川義元みたいに、負かるわけがない戦いに負けちゃったために、少々オーバー気味に後世に伝えられたのではないか?と…

あくまで、希望的観測も含む個人的な推理ですが…

投稿: 茶々 | 2021年8月21日 (土) 03時26分

茶々様 おはようございます。

早速ご返事いただきありがとうございます。
一代で北部九州を制覇し、将来の島津との対決を見据えていたでしょうから、酒におぼれる暇はなかったと思っていました。
ただ義元と同じような最期に感慨深いものがあります。

投稿: 山根秀樹 | 2021年8月21日 (土) 10時57分

山根秀樹さん、こんばんは~

確かに、隠居した以上、現役時代より道楽に走る事もあったでしょうし、自身の体力の衰えなども感じていたかも知れませんが…

現に、最期の戦いとなった沖田畷では、馬ではなく輿に乗ってたし(この点も義元と似てますね)
私としては、そこまで堕落してないように感じ、なんとなく、義元さんとかぶって見えます。

投稿: 茶々 | 2021年8月22日 (日) 03時59分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 鍋島直茂の奇襲作戦~佐嘉城・今山の戦い:

« 藤原北家・独占!摂関政治の始まり | トップページ | 毛利水軍VSポルトガル船~前代未聞の門司城の攻防 »