大胆・豪傑~友に好かれた後藤象二郎
明治三十年(1897年)8月4日、幕末から明治にかけて活躍した土佐藩出身の政治家・後藤象二郎が60歳でこの世を去りました。
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ホント、少ないですねぇ・・・この後藤象二郎(しょうじろう)さんのファンという方・・・
日本の歴史では、戦国時代とともに、その人気を誇る幕末~維新にかけて大活躍したにも関わらず、坂本龍馬や西郷隆盛といった志士たちや新撰組のメンバーの影に隠れて、なかなか陽のあたる場所へは立たせてもらえないキャラクターのようです。
幕末期においては、土佐藩士として土佐勤皇党を弾圧しただの、龍馬の考えた大政奉還(10月14日参照>>)の青写真=船中八策(せんちゅうはっさく)のアイデアを横取りしただのと言われ、さらに、その大政奉還を推し勧めたワリには、結局、倒幕へと傾き、土佐藩は、薩摩・長州に次ぐ3番目の貢献度となっています。
明治になってからは、参議の要職につくも、例の征韓論(10月24日参照>>)で、西郷・江藤らとともに下野し、板垣退助とともに自由党を結成した(10月18日参照>>)にも関わらず、政府の頼みで欧州に外遊したあげく政府に取り込まれる・・・
次に、藩閥政治打倒に旗を掲げたと思いきや、黒田内閣の逓信大臣となって入閣する・・・「いったい、どう、したいんだ?」と言いたくなるような、このどっちつかずな態度が、その人気に「待った!」をかけてしまうようです。
上記の通り、現在の歴史ファンからは、あまり快く思われていない後藤さんですが、どうやら、彼には、後世の人間にはわからない、とてつもない魅力があったようです。
それは、同時代に生き、彼に直接会った人物のほとんどが彼を好きになるという事実・・・これを、踏まえると、彼に対する見方が少し変わるかも知れません。
幼少の頃から吉田東洋の少林塾で学んだ彼は、その恩師である東洋を暗殺したのは勤皇党であると思い込んでいましたし、逆に、勤皇党のほうは、後藤が勤皇党の弾圧に加担し最終的に武市半平太(瑞山)を切腹に追い込んだ(5月11日参照>>)張本人であると信じていたのですが、その両者を和解させるべく、慶応三年(1867年)、長崎にて後藤と初めて会った龍馬も、一発で彼の魅力に取り付かれ、あの船中八策から大政奉還に至る一連の行動をともにしているのです。
刺客に襲われた英国公使・パークスをとっさの判断で救った時も、パークスは後藤を即座に気に入り、永久の親善を誓うとともに、パークスの話を聞いたビクトリア女王から勲剣を賜るという離れ業・・・パークスの通訳をやっていたアーネスト・サトウ(8月26日参照>>)も、「彼ほど理解あのある日本人はいない!」とベタ褒めです。
京都で、あの近藤勇と会った時などは、後藤に刀を向けた近藤に対して、「ボク、武士やけど、戦うの苦手やねん」と笑顔で話して、まずは、刀を納めさせ、その後、見事な話術を武器に、今後の親交を約束するまでに至ったと言います。
そんな象二郎の一番の魅力は、ここ一番の大勝負に懸ける度胸、大風呂敷とまで言われるほどの大胆な発想と行動力、不快をともなわない雄弁さにあるようです。
龍馬とともに海援隊を組織し、日清戦争の時に外相を務めた陸奥宗光(むつむねみつ)(8月24日参照>>)などは・・・
「彼は、明治の世の人ではなく、中国の混乱期である晋の末期が唐の末期に活躍すべき怪傑・・・それが、たまたま、明治の日本に現れた」
と、後藤が・・・というよりは、彼の豪快さを思う存分発揮できない時代のほうを憂うようなコメントを残しています。
それこそ、明治という時代ではなく、もう少し早い幕末か、果ては戦国の乱世に生まれていたとしたら、彼のそこはかとない魅力を、もっと感じられたのかも知れません。
一説には、彼の後藤家は、あの大坂夏の陣で鮮やかに散った後藤又兵衛(5月6日参照>>)の子孫であるという話もあり、もし、その話が本当であるのなら、もし象二郎が戦国に生まれていたら、きっと又兵衛のごとく豪快な武将になったに違いありません・・・と言いたいところですが、そういや・・・戦いが苦手なんを忘れてました~残念!
こうして、象二郎の人となりを見直してみると、少し思います。
豪快で大胆というのは、言い換えれば、細かい事にこだわらない性格という事になりますが、時には、その細かい事にこだわらない性格が、あっちについたり、こっちについたりという一貫性の無いように見える・・・象二郎にしてみれば、寄らば大樹の陰と、保身ばかりを考えて態度を変えているのではなく、ただ単に、過ぎた事にこだわらないだけだったのかも知れません。
なぜなら、かの江藤新平が佐賀の乱(4月13日参照>>)を起こして指名手配となった時、「人相書きを作りたいので、江藤の写真を持っているなら貸してくれ」と頼んできた警視庁に対しては・・・
「持ってるよ!友達やもん・・・けど、友達の写真を警察に渡す事なんかできん!どうしても欲しいんやったら、警視総監自らが頭下げに来い!」
と、一蹴したのだとか・・・。
ここには、強い者にへつらって身の安全を図ろうとする姿勢は見えません。
過ぎた事にこだわらず、見えない先の事など気にせずに、今、生きたいように生き、やりたいようにをやる・・・それこそが、周囲を惹きつけてやまない象二郎の魅力だったのかも知れません。
そして、そんな彼が、ただ一つこだわったのは、苦楽をともにした友との友情だったという事でしょう。
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コメント
大河ドラマ「龍馬伝」について。
最近はよく後藤象二郎(おじの吉田東洋とよく一緒になる)が登場します。でも、彼の「同僚的スタンス」にいる板垣退助がまだ登場していません。もし今後登場しても、昨年の「天地人」の加藤清正の様な存在(ドラマの上で)に、なるのではないかと感じます。
板垣は明治時代は政府高官で、大正時代は政府長老として重きを成した人なんですが…。
気がかりなのは、今月になってから内容・演出が、民放サスペンス的(BGMも)になってきました。
週刊誌で「龍馬伝健闘」とよく書かれます。毎週見ていますが、視聴率ほどの内容ではない感じがします。この調子では先が思いやられる…。
一見すると沖田総司みたいな岡田以蔵。
一見すると岡田以蔵みたいな岩崎弥太郎。
そうなると、岩崎弥太郎みたいな人は…?
投稿: えびすこ | 2010年3月23日 (火) 18時27分
えびすこさん、こんばんは~
個人的には、佐久間象山がいない事も気になります。
投稿: 茶々 | 2010年3月24日 (水) 01時31分
そうですね。佐久間象山も現時点では登場人物リストに入っていませんね。
勝海舟の縁戚なんですが。
ストーリーが地方である土佐メインだと、中央の江戸の(政治)動向が余談程度でしょうかね?
今年は桜田門外の変からちょうど150年ですが、安政の大獄の経緯をあまり取り上げていませんでしたね。
既に将軍も交代していますが、まだ触れていません。
投稿: えびすこ | 2010年3月24日 (水) 08時14分
えびすこさん、こんばんは~
佐久間象山とは、一度目の剣術修行の時に知り合ってるはずですから、現時点で出てないという事は、やっぱり出ないという事なのでしょうね。
個人的には、龍馬にとっての重要人物の1人だと思っていたので、ちょっと淋しいです。
投稿: 茶々 | 2010年3月24日 (水) 19時58分
24日の放送で船中八策の場面が出ました。坂本龍馬が私案を書いた書状を見せただけの短時間で終わりました。平たく言うと「上司に報告書を見せる」感じでした。あの内容を正確に把握できたんでしょうか?ちょっと引っかかります。
実際には内容を話して書記役が書き留めたらしいのですね(該当記事を見ました)。
投稿: えびすこ | 2010年11月 1日 (月) 10時41分
えびすこさん、こんにちは~
見ている側に対しても、もう少し、八策の内容の説明をしてほしかったような気分です。
「大政」は朝廷に「奉還」するけど、天皇を頂点に、その下に武士の代表者(藩主など)の議会を置いて政治するって所を強調していただきたかったような…
アホなので、あまりにさっさと進まれると、なかなか理解できなくて…(p_q*)
投稿: 茶々 | 2010年11月 1日 (月) 13時21分