関白・藤原基経と怪しすぎる天皇交代劇
仁和三年(887年)8月26日、第58代・光孝天皇が崩御されました。
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先日書かせていただいた【摂関政治の始まり】(8月19日参照>>)の続きとも言えるお話です。
藤原不比等(ふひと)の息子=4兄弟のうち、房前(ふささき)のひ孫である藤原冬継の息子・良房(よしふさ)が娘・明子(あきらけいこ)を第55代・文徳天皇の女御(奥さん)にし、二人の間にできた皇子を、生後わずか8ヶ月で皇太子にする事に成功!
その後、その皇子が9歳で第56代・清和天皇として即位する事で、最も権力の握れる外戚(がいせき・天皇の母親一家)をゲット!
その勢いのまま、臣下の者としては初めて摂政になり、その後は、その良房の養子・基経(もとつね)が、初の関白となり、摂関政治が始まる・・・てな、とこらへんまでお話させていただきましたが・・・
この基経さんが、最もラブラブだった天皇が本日の第58代・光孝天皇・・・あっ!ラブラブだったと言っても、男女の恋愛のようなラブラブではなく、お気に入りという意味ですヾ(;´Д`A誤解のないように・・・
基経は、光孝天皇が大好きで、まだ幼い頃から、ずっと見守り続けていたとの事ですが、ある時、父・良房主催の大宴会が催され、そこに、まだ時康親王と呼ばれていた光孝天皇も出席していたのですが・・・
途中、当時宴会には欠かすことのできない雉(きじ)の足が、主賓の良房の前に置かれていなかった事を、1人の配膳係が気づきます。
慌てた配膳係は、光孝天皇の前に置かれていた雉の足を取り、何食わぬ顔で、そっと良房の前に置き換えたのです。
それを見た光孝天皇・・・怒るどころか、逆に配膳係のミスが良房にバレないよう、そっと燈火を落としてあたりを暗くしたのだとか・・・この光景を目の当たりにした基経は、そのお人柄に感動!
また、先代の第57代・陽成(ようぜい)天皇の後継者を決める段階で、基経は、誰を指名しようかと、何人もの親王のもとを訪問しますが、どの親王もアタフタと大騒ぎして落ち着きがない・・・
そんな中、この光成天皇だけが、擦り切れた畳、ボロボロの簾(すだれ)の質素な場所でありながら、堂々とした態度で基経に対応した・・・それを見た基経は「これや!この人しかない!」と、次期天皇に指名したのだとか・・・
・・・と、そうなんです。
光孝天皇を、第58代の天皇に決めたのは基経・・・しかも、この光孝天皇は、残念ながら、その在位中、ほとんど基経にまかせっきりで、何をしたという特筆すべき出来事がないのですよ。
さらに、自らの甥っ子であるはずの前天皇・陽成天皇を廃したのも、基経・・・
そうなると・・・臭いますねぇ~
失礼ながら、上記の感動逸話も、「どこまで本当なんだろ?」と、つい、疑いの目を向けたくなります。
とにかく、お話の前に、あのややこしい例の関係図を・・・
誰の子供なのか?を知るためには、何代か前から書く必要アリと考えたら、以前の良房=摂政の時よりもさらに人数増えて、とんでもない事になってますが、とにかく、■色の部分あたりが、今回の関係者・・・自分でも、こんがらがってますので、もしかして間違いに気づかれましたら、速やかにお知らせくださいませ。(クリックして大きく見てね→)
・・・で、そもそもは、良房に男子がいなかった事で、その良房の兄・長良の息子である基経が、養子となったわけですが、彼には、実の妹がいまして、その人が、コマシの業平(在原業平・ありわらのなりひら)(5月28日参照>>)にコマされちゃったあの高子。
その高子が、清和天皇の女御となって生まれた皇子が、陽成天皇だったわけで、本来なら、この陽成天皇の外戚となった事で、基経は、父と同じような権力を維持する事ができ、天皇が幼少であるために政治的サポートをする摂政だけではなく、天皇が成人でもサポートする関白という座を手に入れる事ができたわけで、感謝感激のはずです。
ところが、この血縁関係にある陽成天皇との相性が、どうやら、あまり良くなかったようで・・・
9歳という若さで天皇に即位した陽成天皇・・・甥っ子の即位で、太政大臣にまで上りつめる基経でしたが、この天皇が元服するまでに成長した頃から、二人の関係は悪化してきます。
『愚管抄』によれば、この陽成天皇は「もののけによるわざわいがひどく、狂気のふるまいは言葉にできないほど・・・」だったのだそうです。
さらに、蛙を捕まえたり、蛇を捕まえたり、犬とサルを戦わせたりの悪行・・・って、コレ今なら確かに動物愛護協会から怒られますが、当時としては、どうなんでござんしょ?やっぱりいけない事だったんでしょうか?
またまたさらに、人を木に上らせて墜落死させて喜ぶ・・・って、さすがに、これはイカンな~とは思いつつも、
キタ━(゚∀゚)━!って感じですね。
第26代・継体天皇の正統性を強調するために、悪のレッテルを貼られた(自分が勝手に思ってるだけですが)武烈天皇の悪行と同じじゃないですか!(12月8日参照>>)
400年近く経って、まだ、こんな事やってるのか!と思うか、さすがは藤原氏!一族の伝統守るなぁ~と感心するか・・・てな、とこですが、とにかく、何の証拠もありませんんが、私としては、メッチャ怪しい気がします。
・・・で、結局、上記の奇行&乱行により、陽成天皇は、基経によって皇位を廃され、二条院に遷されます。
それも、「一緒に花見に行こうよ」と、基経のウソの誘いに騙されて内裏(だいり)から連れ出されたのだとか・・・
この後、82歳という長寿を真っ当される陽成天皇が、わずか17歳での退位・・・それも、自らが望んだ退位ではなかった事の理由は、なにやら勝者の都合で書き換えられてしまったような気がしてなりません。
そして、その後を継いだのは、失礼ながらコレといって、何もしなかった光孝天皇・・・この時55歳。
17歳の若者から55歳のアラ還に交代って・・・とても違和感のある交代劇です。
・・・で、結局、55歳という年齢で即位した光孝天皇は、子供のほとんどが、天皇家を継ぐ事はないだろうと、源氏とかの臣下になってしまっていたため、わざわざ、息子の1人を源氏姓から親王にして、次期天皇とし、仁和三年(887年)8月26日、58歳で崩御されます。
その次期天皇が、第59代・宇多天皇なのですが・・・
今度は、基経さん・・・またまた、この宇多天皇とモメますが・・・そのお話は7月19日のページでどうぞ>>
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コメント
こんにちは。
陽成院に光孝天皇、百人一首の世界~o(*^▽^*)o
って、恋の歌詠んでるほど心穏やかに過ごしたわけではなかったんですね( ̄Д ̄;;
投稿: おきよ | 2009年8月26日 (水) 16時22分
陽成天皇という人が、武列天皇の生まれ変わりのような人だった とは知りませんでした。
こういうのも、歴史は繰り返す と云うのでしょうか?、・ ・ ・ って、違いますよね。
記紀には繰り返しの記述 ( ~ 排仏派が仏像を堀に捨てる話し等)があって、私個人は、実はそのことに強い興味があります。
天武天皇の‘ヨシノ’を何回も繰り返す歌のように、古代から、繰り返しは吉祥だと捉えていた筈です。
やはり、悪の次は善がくる、という繰り返しの法による交替だということにしようとするが為の、陽成天皇のことは作り話しなのではないでしょうか。
投稿: 重用の節句を祝う | 2009年8月26日 (水) 17時38分
おきよさん、こんばんは~
私も、平安時代って、その名前の通り、のほほ~んとした時代だと思っていましたが、意外と、ドロドロした時代だったんですね~
これなら、はっきりと相手をやっつけて政権交代する戦国のほうが、スッキリしてますよね~。
投稿: 茶々 | 2009年8月26日 (水) 18時22分
重用の節句を祝うさん、こんばんは~
そう言えば、あの寛政の改革を行った老中・松平定信も、そのクリーンさを強調したいがために、前老中・田沼意次を悪の権化にしてしまっている気がするので、これは、やはり政権交代の定番なのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2009年8月26日 (水) 18時27分