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2009年9月24日 (木)

西南戦争~城山・最終決戦

 

明治十年(1877年)9月24日、城山での最終決戦が行われ、総指揮官である西郷隆盛が死亡・・・7ヶ月余りに渡った西南戦争が終結しました。

・・・・・・・・・・

いよいよ西南戦争も最終段階・・・これまで、ブログに書かせていただいたキーポイントとなった部分を、振り返る意味も込めて、リンク表示させていただくと・・・

Tabaruzaka900
田原坂激戦之図(熊本市立熊本博物館蔵)

そして、本日・・・と、ずいぶんと空いてしまいましたが、この間の薩摩軍は・・・

熊本城を放棄して、一旦、人吉(熊本県人吉市)にて反撃しようとしますが、その人吉も6月1日に政府軍に占領されて宮崎へと逃走して、今度は宮崎内を転戦しますが、7月24日に都城(みやこのじょう)が陥落し、続く7月30日には宮崎も陥落し、その次の高鍋も落とされ、どんどんと北へと追いやられます。

やがて、8月14日には、本営を置いていた延岡も政府軍に占領されてしまい、その翌日には延岡を奪回すべく、西郷隆盛自らが陣頭指揮に立って気勢を上げますが、残念ながら敗退・・・このあたりになると、もはや投降する者が後を絶たなくなり、わずか600名ほどになって、政府軍に囲まれてしまった薩摩軍は、鹿児島での再起を誓って、夜の山中へと散り散りに逃走したのです。

しばらく姿を消していた彼らが、鹿児島に現れるのは、半月後の9月1日・・・約200日ぶりに本拠地に戻った薩摩軍は、新政府軍に占拠されていた私学校を奪回して各地を転戦・・・再び、鹿児島の大部分を占領しますが、そのニュースを伝え聞いて、続々と鹿児島に到着する政府軍に圧され、徐々に行動範囲を狭められていき、とうとう、鹿児島市街地の中心に位置する標高107mの城山に籠ります。

あくまで、降伏を許さず、最後の最後まで徹底抗戦の構えの薩摩軍は、岩崎谷という場所に10個ほどの横穴を掘って、西郷以下幹部らは、その中にて指揮をとります。

9月10日に到着した政府軍の総指揮官・山県有朋(やまがたありとも)は、「1に包囲、2に攻撃」の方針のもと、城山の周囲に土塁を築き、堀をめぐらし、柵を構築し・・・まさにネズミ一匹逃さない体制で囲みます。

その数、約5万人。
籠る薩摩軍は372人・・・兵糧は約50日分。

緊張が走る中、総攻撃を9月24日の午前4時に決定した政府軍・・・一方の薩摩軍では、「潔く死なれてこそ西郷先生・・・」と決死の抗戦を訴える桐野利秋(きりのとしあき)に対して、辺見十郎太(へんみじゅうろうた)河野主一郎(こうのしゅいちろう)らの間では西郷の助命を希望する声もあがっていて、河野は、その思いを抱いたまま、9月23日、軍使として、政府軍の参軍・川村純義(かわむらすみよし)に対面します。

しかし川村の返答は・・・
「何か言いたい事があれば、本日午後5時までに回答せよ」というものでした。

降伏勧告です。

河野は、そのまま政府軍に留め置かれ、もう一人、河野とともに軍使として赴いた山野田一輔が、その返答を持ち帰り、西郷に伝えます。

西郷の答えは・・・
「回答の必要はない」

これにて、全員玉砕するまでの徹底抗戦が決定しました。

その日の夜・・・薩摩軍では、最後の宴が催されたと言います。

かくして明治十年(1877年)9月24日午前4時・・・3発の号砲とともに、一斉に銃を乱射しながら城山を駆け上がる政府軍兵士たち・・・

各所に設置されていた砦は次々と破られ、わずか2時間ほどで、残るは本営のある岩崎谷だけとなってしまいました。

全員での自刃を覚悟した西郷以下、約40名の幹部らは、横穴を出て、岩崎谷の砦に向かって歩きはじめます。

その時、敵側から放たれた銃弾が西郷の脇腹と股に命中・・・西郷は、その場に倒れて、もう、立ち上がる事ができません。

「もう、ここでよか」
そばにいた別府晋介(べっぷしんすけ)に向かってポツリと言って、その場で正座した西郷・・・

「ごめんなったもんし」
心を決めて、力いっぱい刀を振り下ろす別府・・・

西郷の死を見届けた別府も、まもなく、敵の銃弾に倒れます。

一方、何とか岩崎谷の砦にたどりついた幹部らは、ここで最後の抗戦におよびますが、、桐野をはじめ、次々と銃弾に倒れ、戦死しました。

総攻撃開始から約5時間・・・ここに、最大で最後の武士の反乱・西南戦争が終結しました。

そして、皆様ご存知のように、ここで西郷の首が確認されなかった事から、その後様々な憶測を呼ぶ事になります。

その後の、西郷さん関連の逸話については、コチラをどうぞ。

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コメント

最近、「NHK大河ドラマは番組内で、史実を元に構成したフィクション(ただし、全部がそうではない)である、と言うおことわりがないのはおかしい」と言う指摘がなぜかあります。長年見ている私は、改めて「おことわり」をする必要はないと思います。先日、「天地人」のある件(重要な場面)で問い合わせをしましたが、「NHK大河ドラマはフィクションなので、全部が事実ではなく…」と応対した人は言っていました。
長年見ている人は「フィクションで当たり前」と、思って見ていると思います。水戸黄門や大岡越前(もちろんこれらもフィクション)では、このような「おことわり」はなかったと思います。
(実話を基にしても)フィクションであると番組内で言うのは、ほとんどが現代ドラマです。NHK含めて時代劇ではあまり表示しません。
まさか大河ドラマの内容を、鵜呑みにしている人はいないと思うんですが。

投稿: えびすこ | 2009年9月24日 (木) 14時18分

えびすこさん、こんばんは~

中には、純粋すぎて、そのまま信じてしまう人がいらっしゃるのかも知れませんね。

私は、疑り深いので、報道番組でさえ信じてませんが・・・

ドキュメンタリーと称する物にも、意図的に視聴者をミスリードしようとする作為が見えますからね。

投稿: 茶々 | 2009年9月24日 (木) 18時12分

茶々さん、こんばんわです。
私は基本、戦国時代が好きなもので、幕末には疎いのであります。
西郷さんに関しては茶々さんの紹介にて知った次第です。
そんな私はバリバリの鹿児島出身(大阪在住)でして・・・
恥ずかしい限りです。
凄く心に染み入りました。

歴史は何も戦国時代だけではなく、いつの時代に関わらずヒト一人ひとりが作ってきたもの。
当たり前な事ですが、私を始め、ミーハー的偏りをしている者に忘れがちな事だと思います。

それを思った今日の出来事でした。

投稿: おふく | 2009年9月25日 (金) 00時20分

おふくさん、こんばんは~

いつの時代も、人は一所懸命に生きて時代を作って来たんだと思います。

なので、私は、歴史上の人物を、誰一人として嫌いにはなれないんです(*≧m≦*)

敵味方に分かれた両方の人を「好きだ」というと、時々、変に思われますが、そこは譲れませんww

投稿: 茶々 | 2009年9月25日 (金) 01時09分

茶々さん、こんにちわです☆

>敵味方に分かれた両方の人を「好きだ」という

私もそこは譲れませんに一票です(漢)
人にはなんらかの理由がある。
結果論だけで人は評価できない。
その人を知り、また背景(歴史)を知る事って本当に大切な事。そう私は思います。
茶々さんのページを拝見していて更にそう思います。
本日も勉強になりました!ありがとうございますvv

投稿: おふく | 2009年9月25日 (金) 14時16分

おふくさん、こんばんは~

こちらこそ、
いつも励みになるコメントありがとうございます。

投稿: 茶々 | 2009年9月25日 (金) 19時28分

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