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2009年9月 3日 (木)

西郷隆盛が星になった?…明治の火星大接近

 

明治十年(1877年)9月3日・・・っと、本日は、この日に何があったかは後半で・・・、その前にとりあえずは、コチラのお話から・・・

・・・・・・・・

明治十年(1877年)と言えば・・・そうです、1月30日に勃発した鹿児島の私学校の生徒たちによる政府火薬庫襲撃事件(1月30日参照>>)に端を発した、最終かつ最大の士族の反乱=西南戦争のあった年。

このブログでも、その1月30日から順を追って書かせていただいておりますが、一応、簡単に、流れをまとめさせていただきますと・・・<

・・・と、田原坂での敗戦をきっかけに劣勢に陥った薩摩軍は、熊本城を放棄した後、6月1には人吉8月14日には延岡を奪われ、翌・8月15日延岡奪回作戦に出るも敗退・・・結局、その翌日には、西郷隆盛によって薩摩軍の解散が布告され、多くの者が政府軍に投降する中、残った600人ほどが夜陰にまぎれて姿を消したところまで、お話させていただきました。

・・・で、姿を隠した後、山中を逃げまくった薩摩軍の生き残りが、こつ然と鹿児島に姿を現わすのが9月1日・・・政府軍が駐屯していた私学校を奪回し、徐々に鹿児島全土を占領すべく画策します。

そして、彼らが鹿児島に戻って来た事を知った政府軍が、その鹿児島に到着するのは9月10日・・・という事で、9月3日の段階では、実際には、以上のような状況だったわけですが・・・

とにもかくにも、明治の始めという時代・・・現在のように、最新のニュースがリアルタイムで全国に配信されるような事はありませんから、多くの一般市民は、九州での戦況が、今、どのような状態にあるのかを、はっきりとはわかっていませんでした。

ただ、田原坂での敗退や熊本城を政府が守りぬいた事などが徐々に伝わってきていて・・・
「なにやら西郷さんの分が悪いらしい」てな話が伝わったり、
逆に、「いや、今日、明日にも西郷軍が東京まで攻めて来る」てなウワサが流れたり、
果ては、「もう、負けが決まったので外国へ逃げた」
「いや、もう、西郷は、とっくに死んでて、今いるのは影武者だ」などという話まで出たりします。

現在と同様、なぜか庶民に人気があった西郷さん・・・遠い九州での戦況に一喜一憂していた人々が、8月の終り頃、南の方角=鹿児島の方角に異常に輝く大きな星を見つけます。

夕方の空に、赤く輝くその星を見つけた人々は・・・
「西郷さんが死んで星になったものなんじゃないか?」
「あれは西郷星だ!」
と、騒ぎはじめます。

そのうち、「千里鏡(望遠鏡)で見ると、西郷さんの顔が星の中に見える」なんて事もまことしやかに囁かれ、日暮れと同時に、町のあちこちに集まっては、物干し台などから、「西郷星はどこだ?」と、まるでイベントのように大盛り上がり・・・

Saigoubosi700a さらに、人々を驚かせたのは、赤く大きな星のそばに、もう一つ、黄色くで、少し小さな星が、西郷星につかず離れず、寄り添うように輝いていた事でした。

その二つ星は、日によって、くっついたり離れたり、とても、興味深い動きをします。

誰からともなく「あの星は、桐野利秋ではないか?」
「そうだ!桐野星だ!」
と、言いはじめます。

なかなかの有名人なので、ご存知の方も多いでしょうが、桐野は、西郷を尊敬してやまない人物・・・常にそばにいて、西郷のためになら死ねるし、西郷のためなら人も殺せるという人で、まさに、大きな赤い星を守り支える小さな黄色い星のイメージにぴったりだったのでしょうね。

・・・で、8月の終り頃から確認されはじめた二つの星は、実際の西郷さんのご命日である9月24日を過ぎても輝き続け、さらに、11月頃まで続いたのだとか・・・

特に、11月4日には、まるで、二つの星が一つになるかのごとく接近し、すでに、西郷・死亡のニュースを知っている人々を驚かせました。

・・・と、長々と書いてしまましたが、実は、これ、火星の大接近だったんです。

あまりの騒ぎに、当時、東京帝国大学の外国人教授だったピー・ウイー・ウイダルという人が「不思議な事ではないのです」と、火星の大接近を解説する新聞記事まで出ちゃってますので、まさに、事件だったんでしょうね。

もちろん、日本でも火星の大接近を知っている人は大勢いたでしょうが、まだ一般庶民には知られていない頃ですから・・・

・・・と、ここで、一応、火星の大接近について・・・

Kaseidaisekkincc

地球も火星も、ともに太陽の回りを回る太陽系の惑星なわけですが、地球が一年で太陽の回りを一周するのに対し、火星は1年10ヶ月で太陽の回りを一周します。

なので、だいたい2年2ヶ月に一度、地球が火星を追い抜く時が来て接近するわけですが、火星は、太陽の周りを、美しい円を描いて回っているわけではなく、少し楕円になっているため、地球が火星を追い抜く場所がどこかという事で、大接近となる時が15年~16年に一度来るのです。

・・・で、明治十年(1877年)9月3日が、この大接近で、最も接近した日だったんです。

この時、イタリアスキアバレリは火星の表面には運河のような線状の模様がある事を発見し、アメリカホールという人は2個の衛星を発見しています。

火星は、小さい星なので、大接近した時が、イロイロと観察するチャンスなんですね。

ところで、最近では2003年に話題になったのを覚えていらっしゃる方も多いでしょうが、実は、この明治十年(1877年)の時よりも、2003年のほうが、はるかに大接近だったんですよね。

大接近の中でも、やはり、その追い抜く位置によって、距離に差が出るのだそうで、この2003年の時と同じくらいの距離になったのは、過去では6万年前、未来では280年ほど先になるのだそうで、何だか気が遠くなりそうです。

ちなみに、2003年ほどではありませんが、次に大接近となるのは2018年の7月25日だそうで、ひょっとしたら、私たちも、西郷星を見た明治の人々の気分を味わえるかも知れませんね。

おっと、忘れるところでしたヽ(;´Д`ヽ)(ノ;´Д`)ノ

西郷星につかず離れずいた桐野星は、どうやら土星の事らしいです。

明治十年(1877年)の時には、7月28日と8月26日、そして11月4日の3回に渡って火星と土星の接近があったそうですよ。

それにしても、西郷さんが亡くなってから2ヶ月ほども、火星が輝き続けていたわけですから、大接近なるものがどんなものか知らず、「西郷さんの星だ」と信じ込んでいた人にとっては、少々不気味な輝きだったかも知れませんね。

*西南戦争関連ページ
●西郷隆盛に勝算はあったか?>>
●薩摩軍・鹿児島を出陣>>
●熊本城の攻防>>
●佐川官兵衛が討死>>
●田原坂が陥落>>
●熊本城・救出作戦>>
●城山の最終決戦>>
西南戦争が変えた戦い方と通信システム>>
●西郷隆盛と火星大接近>>
●大津事件・前編>>
●大津事件・後編>>
●大津事件のその後>>
●西郷隆盛生存説と銅像建立>>
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コメント

スミマセン。操作ミスで内容未記入で投稿してした。
あらためて。
縦横無尽のネタをカバーされていることに、凄く驚きと畏敬の念を持って読ませて頂いています。
その上、今回のような市井の人々のネタもカバーされていて、どのように膨大な資料を読みこなされているのてすか?
回答のしようがない質問ですみません(≧∇≦)b

投稿: ヒロシ | 2016年2月10日 (水) 19時31分

ヒロシさん、こんばんは~

アハッ!照れます(*´v゚*)ゞ
が、結局は、小学生の時からの歴史好きと本好きのまま、長く生きてるぶん本読んでるだけ…てな感じです。
…と言っても、まだ老婆では無いので、そこンとこはヨロシクですww
永遠の28歳にしとして下さい(笑)

投稿: 茶々 | 2016年2月11日 (木) 01時21分

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