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2009年9月 7日 (月)

石田三成はそんなに嫌われていたのかしら?

 

天下分け目の関ヶ原に向けて、ここンところ大変おもしろくなってきた大河ドラマ・天地人ですが、昨日は、第36回「史上最大の密約」・・・

実際には、あったか?なかったか?は微妙なところの直江兼続石田三成の密約ですが、ドラマとしてはあったほうが断然オモシロイので、そこは、思う存分、徳川家康を倒すシュミレーションで盛りあがっていただきましょう。

ただ、ドラマでは、殿=上杉景勝までもが、合戦必至の敵対心むき出しだったのがチョイと気になりますね~。

京都にいる時点で、ここまでヤル気満々なら、後々、会津征伐の途中から西へ戻る家康を追撃しない事(4月14日参照>>)の理由付けが大変なような気がしないではないのですが、そこは、やはり、造り手のかたの手腕で、それなりにうまく処理してくださる事でしょう。

ただ、先週の病身の前田利家VS徳川家康のカッコイイ場面で(第35回・参照>>)、息子・利長の同席をアピールしてくださったのは、てっきり徳川方へと寝返る時の心の描写を表現するための「フリ」だと思っていたんですが、いともたやすく仏壇の前で泣くだけで終ってしまいましたからねぇ・・・本当に放送時間が足りないのかも知れません。

三成を襲撃する福島正則らが(3月4日参照>>)、あれだけ盛り上がって集合していたにも関わらず、実際に襲撃する場面がなかったのも、残りの放送時間と番組予算の関係による大人の事情なのでしょう。

そんなこんなで、襲撃事件のターゲットとなってしまった三成クンは、居城の佐和山城で蟄居の身となり、そこを訪ねた兼続と、題名通りの「史上最大の密約」を交わすわけですが、三成の佐和山城での暮らしが、とても質素な事に驚くという有名な話は、実際には兼続ではなく、関ヶ原の後に佐和山城に乗り込んできた東軍の兵士たちの話・・・

豊臣秀吉の寵臣として、諸大名とのパイプラインの役割をはたしていた三成なら、各地からのワイロも集まり、さぞや贅沢な暮らしをしていたんだろう・・・と、想像していたところに、みすぼらしい調度品や、チリ一つなく整理整頓された城内を目の当たりにして、非常に驚いたわけです。

つまり、それだけ三成の評判が悪かった・・・そこンところは、ドラマと同じですね。

ただ、実際には、大谷吉継(9月15日参照>>)という小姓時代からの親友がいますが、今回の天地人では、この大谷クンの役割も、兼続がやってくれています(主役なので・・・)

Isidamitunari600a それにしても、どうして、そんなに評判が悪いのか?

もともと、合戦で命を賭けて挙げた武功で出世の道が開けた戦国時代・・・そんな腕自慢の武将たちにとっては、戦いにも参加せず、後方でぬくぬくしていながら、同じように出世する文治派の彼らが気に食わなかったわけです。

ただ、天下統一をして中央集権を進める秀吉にとっては、検地もできて年貢の徴収もうまく、兵站の処理もできる奉行としての三成ら文治派を重用するのは当然で、戦場の武功と同じように出世するのはしかたのない事ですが、武闘派からは嫌われるかも知れません。

また、ドラマで描かれているような、融通のきかない高飛車な態度の人であった事も確かなようです。

たとえば、ある年の10月頃、毛利輝元から秀吉へ桃が献上された時・・・輝元は、10月という季節外れのめずらしい桃を献上して「さぞや、喜んでくれるだろう」という思いだったのですが、三成は、それを突き返します。

「旬じゃない物を食べて、殿下が腹を壊したら大変!」って事のようで、ハウス栽培のない当時としては、正論っちゃぁ正論なんですが、杓子定規でなんとも・・・こんな事されちゃぁ、やられた側がイラッとする事は間違いないですわな。

・・・とは言え、私自身は、一般に言われているほど、三成は嫌われ者ではなかったのではないか?と思っています。

現在の印象の元となる様々なエピソードは、関ヶ原で勝利者となった徳川の言い分が大いに影響していて、それこそ、必要以上に三成の評判をおとしめているのではないかと・・・

そう思う根拠は、関ヶ原に集結する両軍勢の数です。

確かに、毛利や吉川は動かないし島津も参戦せず、小早川が寝返って、その周辺も一気に・・・と、なると、実際に合戦に参加した兵力は、家康の東軍は関ヶ原にやって来た兵力=8万~9万がそのまま兵力となりますが、西軍は開戦前は8万ちょっと言っても、結果的には3万5000程度だった事になり、現在では、以前から言われているような「拮抗した戦力ではなかった」とおっしゃる論客も、多くおられるようです。

しかし、おそらく、この数字には結果論が含まれているはずです。

合戦が始まってから、状況を見て参戦しなかった者もいるだろうし、状況を見て寝返った者もいるでしょう・・・最終的に東軍についた者が皆、最初から東軍につこうとは考えていなかったと思いますし、ヘタすりゃ、会津征伐の時点で、勢いで家康についた豊臣恩顧の武将の中にでも、もしも、西軍優勢なら寝返っていた者もいたかも知れません。

確かに、最初の8万以上の数字もアテにありませんが、この3万いくらという数字もアテにならないと思います。

そこで、考えなければならないのは、家康×三成の立場の違いです。

かの堺屋太一さんは、その著書の中で、当時、豊臣政権の五大老の筆頭だった家康と、4番め奉行の三成とでは、言わば「豊臣会社の中の、他を圧勝する大副社長と、一企画部長の戦いだった」と書いておられます。

石高をみても、家康=256万石、三成=19万4000石・・・
年齢も家康=59歳、三成=41歳・・。

この差のわりには、寝返り組を含むと言えど、関ヶ原という戦場に8万以上の西軍を集めたのは、大したモンなのでは?

少なくとも、関ヶ原当時の感覚では、天下分け目の戦いではなく、豊臣政権内の派閥争いの形をとっていたわけですから、これはひとえに三成の人望・・・とまではいかなくても、「お前には誰もついて来ない!」と、タヌキジジイに叱責されるほど嫌われてはいなかったのではないでしょうか?

まだ秀吉が生きていた頃・・・殿下のご機嫌をそこねて、取り潰しになりそうになったのを、三成の奔走によって無事切り抜ける事ができた大名や、三成の口添えによって加増された大名も少なくなかったそうで、そんな彼らは、三成に好感を持っていたに違いありません。

また、先ほどの輝元との桃の一件に関しても、あのような高飛車は、人を選ばず、全員に対して、同じ態度をとっていたわけで、相手を見て態度を変える事はありませんでした。

杓子定規で融通がきかないのも、私利私欲ではなく、すべて豊臣のためにやっている事というのは、皆が感じ取っていたはずです。

そんな三成は、エラそうな態度はともかく、「豊臣の事を思う信用のおける人物」と思われていた事は確かでしょう。

以前も、三成の最期のページに書かせていただきましたが(10月1日参照>>)・・・

合戦で負けたのに自刃せずに逃亡した事をバカにした本多正純「その昔、源頼朝公は、その命残して源氏の世を開いた」と言ったという有名なエピソードがあります。

これを・・・
「命を惜しむ武士として恥ずべき行為」ととるか、
「最後の最後まであきらめない不屈の精神」ととるかは、受け手側の自由といったところでしょう。

少なくとも、恥ずべき行為ととったのは、勝者である徳川が大半だったでしょうからね。
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

そうですね、昨日までの「天地人」を見た印象からも、嫌われ者はむしろ家康の方ですよね。
それと、こちらの記事を読ませて頂いて初めて知ったのですが、逃亡した三成が‘頼朝も~~’と言った、という、・・・・・
私は、家康が〔東鑑〕を愛読していたと聞いたことがあります、又、後世の吉宗がそれを範にしたという、質素な暮らし、というのも家康の十八番だと思っていましたが、
頼朝、質素 ー ー それを先にやっていたのが、家康よりも若かった三成だったのですね。
戦をしあう仲 というのは、実は互いを最も理解しあえる仲でもあった、ということでしょうか。

投稿: 重用の節句を祝う | 2009年9月 7日 (月) 10時41分

昨日は北政所・おね(ねね)さんの命日だったんですね。昨日の天地人では髪を短く(未亡人なので)してましたね。
後の時代の人物で「石田三成に似ている人物」として柳沢吉保、田沼意次などがいますね。イメージと「実像との乖離」と言う意味でも。
家康側近の本多正信も、石田三成に近いと言われます。(某週刊誌の「戦国キーマン特集」より)本多正信は石高が意外に少なく(2万石程度)、むしろ息子の正純が欲を出しすぎて「自滅」しましたね。ただ、三成(兼続もそうだが)にとって不幸だったのは、「最初の主君」がもう少し生きていれば、自身の命運と情勢が変わった事と、「家中で先輩に恵まれなかった事」ですね。この2人は「うるさい先輩」が少なかったから、若くして出世できたのですが。そう考えると大久保彦左衛門は幸運だったかもしれません。青年~中年期に(親族含め)重鎮が健在でした。

先日掲載の参考項目を確認いたしました。ありがとうございます。いろいろと項目を見ております。長々と書いて失礼しました。

投稿: えびすこ | 2009年9月 7日 (月) 11時41分

初めまして、いつも楽しく拝見しています。
私も三成は、当時今のイメージほど嫌われてなかったと思います!
関ヶ原の時点では、秀頼を悪者にするのは無理があるので三成一人に責任をかぶせる形になったんじゃないかと。
後世に真田信繁が有名になり毛利勝永が知られないのと同じように、勝者である徳川の思惑が感じ取れる気がします。
長々と書きましたが、これからも楽しい記事をお願いいたします。

投稿: maabou | 2009年9月 7日 (月) 11時54分

重用の節句を祝うさん、こんにちは~

以前、心理学にハマッていた時に、先生から小耳に挟んだ話ですが、心理学の世界では、「ムシズが走るほどキライな人は自分の鏡」だという考えがあるのだそうです。

「ムシズが走るほどキライ」「同じ空気を吸うのもイヤ」って人が、職場にいたら「その人は自分と同じ性格だから自分だと思って対処すればうまくいく」のだそうです。

心底キライな人というのは、自分がやりたくてもやれない事をやっていたり、自分がこうはなりたくないって事をしている人・・・つまり、一歩間違えば自分だという事らしいです。

長々と書いてしまいましたが、やっぱりふたりは似てるんだと思います。

投稿: 茶々 | 2009年9月 7日 (月) 12時22分

えびすこさん、こんにちは~

やっぱり上司って大事なんだなと思いますね~
秀吉が、もう少し若かったら・・・
残念です。

ところで、以前の記事も見ていただいたとのこと、ありがとうございます。

もはや、自分でも管理できないほどのページ数になってしまい、もし、どこか間違った部分を発見されましたら、ぜひともお知らせください・・・よろしくお願いしますo(_ _)o

投稿: 茶々 | 2009年9月 7日 (月) 12時28分

maabouさん、こんにちは~

ホントですね~
毛利勝永さん・・・武功を挙げながら秀頼の介錯をしたかも知れないという事は、戦場に出つつ最後まで総大将を守っていたという事ですから、もう少し評価されてもいいと思いますが、おっしゃる通り、「真田日本一の兵」ばっかりが踊ってますね。

やはり、勝者の意図なんでしょうか。

投稿: 茶々 | 2009年9月 7日 (月) 12時44分

余談ですが、NHK大河で石田三成を演じた俳優(子役は含まない)では、小栗旬君が最年少らしいです。12月で27才。
10年ほど前は「NHK大河ドラマに若手をもっと起用してほしい」と言う意見が多かったのですが、今では「ベテランをもう少し起用してほしい」と、願うファンもいますね。
主役に限ると、その時代の若手俳優(現在の「大物俳優」もその中にいます)が起用される傾向です。40歳以上の俳優の主役起用は少ないですね。最近は30代俳優の主役起用も少ないです。
30代俳優は男女含めて、意外と「見逃される」のでしょうか?

投稿: えびすこ | 2009年9月 7日 (月) 14時52分

いや~私は三成好きですよ!(個人的意見)
なぜこんなにもイメージが悪いのかの方が不思議ですよね。

大副社長と、一企画部長というより、独立起業の新社長(家康)と老舗の若旦那を支える秘書(三成)ではないかと思います。

だってやっぱり家康が豊臣潰そうとしてるのは見え見えだったんじゃないんですかねえ?
むしろ豊臣政権時代にとった行動としてはどー考えても三成が正義に見えてしまいます。

先日長浜を訪れましたが、この地では未だに愛されてる武将なのだと嬉しく思いました。


投稿: ざぶとんうさぎ | 2009年9月 7日 (月) 18時04分

えびすこさん、こんばんは~

やっぱ、NHKと言えど視聴率が気になるところでしょう。

考えて見れば、その人の生涯を描くわけですから、けっこう、いろんな年齢からチョイスできますもんね。

投稿: 茶々 | 2009年9月 7日 (月) 18時28分

ざぶとんうさぎさん、こんばんは~

そうですね、
「地元では大人気」という人が意外に多いですね。

やっぱり、歴史は勝者が書くという事でしょうね。

投稿: 茶々 | 2009年9月 7日 (月) 18時31分

こんばんは。とても詳しい解説、なるほどなぁと感心しております。
ドラマの描き方によって、三成も印象が随分変わりますね。
確かに情には疎いところがありそうですが、私利私欲を捨てひたすら秀吉に仕え、意外とやさしさも持っていて。。
それにしても家康の陰険ぶりは、観てて憎らしいほどですが、松方弘樹が楽しんで憎まれ者を演じている様は、ついおかしくなっちゃいます(笑)

投稿: まっちゃん | 2009年9月 7日 (月) 19時05分

歴史の中では敗者ほど‘いい人’だったり、正しかったり、少なくとも私利私欲に走る傍若無人な人は実はいないんじゃないかと思います。勝者にとって「正義だった」と世間に納得させるため負かした相手を徹底的に悪くこき下ろす・・・いつも時代もそうなんだろうなぁと最近思ったのはイラクの処刑されたフセインの対するアメリカ(というかブッシュの)態度を見た時。歴史って敗者に注目してみると結構面白いかも。

投稿: Hiromin | 2009年9月 7日 (月) 21時01分

まっちゃんさん、こんばんは~

ホントに・・・
松方さん、めっちゃ楽しそうに悪役を演じておられます。

投稿: 茶々 | 2009年9月 7日 (月) 22時57分

Hirominさん、こんばんは~

敗者側の言い分は、勝者によって抹消される事が多々あり、少ない史料から読み取っていくのは難しいでしょうが、たいへんオモシロイと思います。

投稿: 茶々 | 2009年9月 7日 (月) 23時00分

利長…ちょっとだけど出ましたね。途中の地図のシーンで前田家が既に黒く(家康方)なってたので「ああもう完全にスルーか」と諦めてたのでラストにちょっとだけど登場してくれてうれしかったです(笑)もっとひどい扱い受けるかと思ってましたから。 三成は評価つけにくいですからね。もう少し評価していい気もするけど、高すぎるかもしれない…もう少し資料があればいいですけど。三成だけじゃなく歴史上の人物すべてにあてはまることですが。 でもこういうことをあれこれ推測したりすることが歴史の面白さですね! 

投稿: ryou | 2009年9月 8日 (火) 00時18分

はじめまして。
三成で検索してたどり着きました。私も以前から、そんなに嫌われていなかったのでは?と思っていましたので、いちいちうなづけるところがあって、たいへん面白く拝見いたしました。
たしかに検地やそのほかでいろいろと助けられた大名らが好意をもっていたのは確かでしょう。敗戦後三成の子供達が匿われたり、娘の1人が東北の大名の正妻となるなど(のちに徳川の姫にその座をゆずりましたが、跡継ぎは産んだ子がなったんでした。)相当な好意かとおもいます。徳川新政権を横目に西軍の敗将三成の娘を妻にしたのですから。
三成の私利私欲でない一貫した態度を、立場によっては嫌うものがいたけれど、たしかに融通が聞かない=ぶれない基準を持つということで信頼があったのではというのは納得です。

徳川におもねる必要のあるやからが貶めたか、自らの立場を正当化する必要のあったものらが貶めたのであろうと思いますね。

こちらをよんで、なんだかすっきりしました。もうすこし家康も三成も深い大きな人物として対決させて欲しいと思っておりましたので。

大河、今月は関が原一色ですが、またこちらの記事楽しみにお待ちしております。ながなが失礼いたしました。

投稿: saku | 2009年9月 8日 (火) 09時10分

ryouさん、こんにちは~

>途中の地図のシーンで前田家が既に黒く(家康方)なってた・・・

さすが!チェックされてたんですね。
あの時点で、あの二人で、白黒つけるのもなんだかおかしな話ですが、とりあえず、あのままスルーという最悪の状態でなくて良かったです。

おそらく、理数系の好きなかたには、理解できないオモシロさかも知れませんが、歴史は答えが出ないからおもしろいんですよね。

投稿: 茶々 | 2009年9月 8日 (火) 09時43分

sakuさん、はじめまして、

そうですよね、
横柄な態度も、相手によって変えられたら、それこそ、腹立ちますが、全員にそうなら、むしろさっぱりしますし、逆に信用できます。

あの水戸黄門が、「三成を見直そうキャンペーン」をやるまでは、やっぱり、徳川の敵として、イイコトは皆、抹消されてきたんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2009年9月 8日 (火) 09時48分

今夜の「歴史秘話ヒストリア」は石田三成です。領地・佐和山では21世紀の今でも人気があります。コミックやゲームの影響でこの数年は再評価されている印象です。これを受けてか?NHK大河ドラマでも、最近はあまり「悪びれた人物」ではありませんね。
来年の配役は萩原聖人さんですが、どういう石田三成になるでしょうか?萩原さんの年齢がほぼ関が原の戦い時点の年齢ですね。

投稿: えびすこ | 2010年7月28日 (水) 17時16分

えびすこさん、こんにちは~

昨年の佐和山城跡は、老若男女、何もない城山のワリには、けっこう賑わっていました。

来年もカッコ良く描いていただきたいと思います。

投稿: 茶々 | 2010年7月28日 (水) 18時04分

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