« 未盗掘で発見された藤ノ木古墳~その被葬者は? | トップページ | 関ヶ原敗戦での毛利の転落と先の読めない天地人 »

2009年9月27日 (日)

毛利元就の吉川&小早川乗っ取り作戦

 

天文十九年(1550年)9月27日、毛利元就吉川興経・父子を殺害しました。

・・・・・・・・・・

これまで、何度か書かせていただいておりますが、後々、西国の雄となる毛利も、毛利元就(もうりもとなり)が家督を継いだ頃は、安芸(広島県)郡山城にわずかの家臣をかかえるだけの国人(半士半農の地侍)にすぎなかったわけで、その当時は、毛利の北=山陰の出雲(島根県)には尼子氏、西=周防(山口県)には大内氏、南=豊後(大分県)には大友氏・・・と、強大な勢力を誇る名門に挟まれ、身動き取れない状態だったわけです。

もちろん、それは毛利だけに限らず、大きな国に挟まれた小国は、その都度、あっちについたり、こっちについたりしながら、生き残るだけで精一杯・・・そんな状況の中から、毛利が一つ飛びぬけて、いや、最終的にすべてを手に入れるほどの大国になったのは、これ、ひとえに元就の謀略による領地拡大作戦のたまものです。

皆さんも、元就の『三矢(さんし)の訓(おし)え』の逸話(11月25日参照>>)などは、よくご存知でしょうが、その元就が、戦場で大暴れする武勇伝は、あまり聞かれた事がないのではないでしょうか?

彼は、たとえ合戦はしても、自らが戦場を駆け巡って武功を挙げるタイプではなく、緻密な情報活動から謀略&計略を張りめぐらしてのし上がっていくタイプの人なのです。

・・・と、ここで、一つ付け加えておきますが、これ、決して元就さんの悪口ではありません。

負ければ即・死亡の戦国時代で、コスイと言われようが、ズルイと罵られようが、勝たなければ生きぬいていけないわけですから、戦国武将に対する謀略家・策士・悪人・鬼などという代名詞は、褒め言葉だと思っています。

ましてや、尼子・大内・大友といったズバ抜けてデカイ名門に対して、武力で対抗できない小国なら、策略で対抗する以外に方法はないわけですから・・・。

Mourimotonari600 そんな元就が、山陰・山陽に大きく根を張るきっかけとなったのは、次男・元春(もとはる)と三男・隆景(たかかげ)・・・元春が山陰の名族・吉川(きっかわ)に、隆景が瀬戸内の水軍を持つ小早川(こばやかわ)に、それぞれ養子に入って、その足がかりとしたわけです。

この両家は、双方に「川」の字がつく事で、その後「毛利の両川りょうせん)と呼ばれ、早くに亡くなった長男・隆元の息子・輝元を支えて、毛利の躍進に一役も二役も買う事になるのです。

・・・で、本日は、その次男・三男の他家への養子の話なのですが・・・

一応、史料などによれば、この二つの養子縁組は、両家の側から、「後継ぎがいないので・・・」と頼まれ、「そんなに言うなら・・・」と元就が承知した形になってますが、血で血を洗う戦国に「そんなワキャないだろ!」と、怪しい香りがプンプン・・・

この養子縁組・・・いや、はっきりと、他家の乗っ取りと言っちゃいましょう!
これこそ、元就の謀略のなせるワザなのです。

まずは、三男の隆景の小早川入り・・・小早川家は、安芸安直・沼田本荘・竹原両荘一帯の地頭を務めた家柄で、それらの領地を二つに割って、本家の沼田(ぬた)小早川と分家の竹原小早川の二家に分かれていました。

・・・で、そんな竹原小早川の当主・興景(おきかげ)病死し、後継ぎがいなかったため天文十三年(1544年)、12歳の隆景が養子となって後を継ぎますが、とりあえず、この養子縁組は、亡き興景さんの奥さんが元就の姪であった事もあって、何となく、「それもアリかな?」という雰囲気で、さしてモメる事もなかったようなのですが、問題は、その6年後の本家=沼田小早川との養子縁組です。

この沼田小早川家の当主だった正平(まさひらは、隆景が竹原を継ぐ前年の天文十二年(1543年)、大内氏の傘下となって尼子氏の月山富田城を攻撃した戦いで戦死してしまっていたのですが、この沼田小早川家には繁平(しげひら)という後継者がいたのです。

・・・にも関わらず、「繁平は当主にふさわしくない」として、天文十九年(1550年)に、繁平に剃髪をさせて仏門に入れ、竹原を継いでいた隆景に沼田も継がせてしまうのです。

この時、当主にふさわしくない理由として繁平が視力に障害を持っていたからとされていますが、そのワリには家臣の猛反発に遭い、敵対する家臣をすべて殺害しての養子縁組となっています。

こうして沼田と竹原の両小早川家が一つになり、それをまとめる隆景・・・これは怪しいです。

そして、さらに怪しい次男・元春と吉川家の養子縁組・・・この吉川家も、藤原南家の流れを汲む安芸山形郡の地頭を務めた家柄で、かの応仁の乱の時には、東軍の細川勝元の配下として参戦し、当時の当主だった経元(つねもと)「鬼吉川(←さっきの褒め言葉でっせ)と称されるほどの大活躍をしています。

そんな吉川家でしたが、やはりこの頃は毛利と同様に大国に挟まれていて、この時の当主・吉川興経(おきつね)は、その時々の情勢に応じて、尼子についたり、大内についたり・・・特に、マズかったのは、先ほどの沼田小早川の正平が戦死した月山富田城攻めの時、興経が、重要な局面で大内から尼子に寝返ったらしく、大内側では「正平の死の原因を作ったのは興経」と噂されていたのだそうで、そんな優柔不断な態度に不安を抱いた家臣が「興経を隠居させて元春を養子にして後を継いでもらいたい」と元就に言ってきたのだと・・・

まぁ、以前書かせていただいたように、もともとは毛利と吉川は、嫁にもろたりもらわれたりの関係にあって(7月10日参照>>)、元就の妻が興経の叔母さんという事で、可能性がゼロではありませんが、やはり「そんなウマイ話が・・・」と思ってしまいますね。

だって、興経には千法師という子供がいるわけですから、幼いとは言え、後継者がいるのであれば、家臣なら千法師を擁立して興経を隠居させるでしょうからね~。

しかし、天文十七年(1548年)、元就は、元春の養子縁組を成立させ、天文十九年(1550年)には強制的に興経を隠居させ、妻子も幽閉してしまったのです。

「そんな無茶なぁ!」と、納得いかない興経が不穏な気配を見せている・・・いや、これも、元就の流した噂の可能性大でしょう。

なんせ、興経は、わざわざ元就に手紙を送って、それを否定しているのですから・・・。

しかし、天文十九年(1550年)9月27日、新しき当主への謀反の疑いありとして、元就は、自らの配下の熊谷信直(くまがいのぶなお)らに命じて、興経の館を襲撃させ、興経・千法師の父子もろとも殺害してしまうのです。

こうして、元就は大きな合戦をする事なく、毛利の両川を手に入れました。

この頃は、すでに尼子氏を離れ、大内氏をバックにしていた元就は、両川を得た事でステップアップ・・・さらには、その大内氏(4月3日参照>>)や尼子氏(11月28日参照>>)まで滅亡させて、最終的に中国地方の覇者となるわけです。
 .

あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 未盗掘で発見された藤ノ木古墳~その被葬者は? | トップページ | 関ヶ原敗戦での毛利の転落と先の読めない天地人 »

戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

今年の「天地人」に織田信長役で登場した吉川晃司さんが、この吉川家の末裔だそうです。
国民新党幹部の亀井静香・郁夫兄弟、亀井久興・亜紀子父娘の4氏は毛利に仕えた亀井家の末裔だそう(だから現在中国地方に地盤がある)です。この両亀井家は先祖が兄弟、との事です。
12年前の「毛利元就」は見ていましたが、あまり記憶にありません。視聴率では健闘したんですが。
あの作品は終盤でいろいろな批判(どこが批判されたか未だに不明)があって、(私が思うに)この件がその後の大河ドラマの視聴率が低迷した基点となった。
余談ですが2000年の「葵 徳川三代」は、「常連」のジェームス三木さんの脚本だったのに、視聴率が予想に反し?低迷してこの作品を最後に、事実上大河脚本を退いています。この作品の後、若手の脚本家がだんだん出てきていますね。

投稿: えびすこ | 2009年9月27日 (日) 08時51分

えびすこさん、こんにちは~

さすがに吉川晃司は水に強そうです(強いのは小早川のほうかぁ・・)

「毛利元就」「葵三代」・・・
この頃は、忙しさがピークの頃で、テレビを見る余裕がありませんでした(´・ω・`)ショボーン

投稿: 茶々 | 2009年9月27日 (日) 15時59分

こんにちわ~!
今日は毛利元就。
最高ですね。戦国時代 謀将と言われた武将は星の数ほど?いますが私の中ではTOP3に入っています。毛利元就、斉藤道山、最上義光・・・謀将・・・良い響き!

投稿: DAI | 2009年9月27日 (日) 20時20分

DAIさん、こんばんは~

生き馬の目を抜く戦国時代・・・正直者では生き抜いていけません。

謀将は褒め言葉だと思います。

投稿: 茶々 | 2009年9月27日 (日) 21時23分

はじめまして!毎日楽しみに拝見させて頂いてます。
大好きな信長と龍馬を合わせてシンリュウとさせて頂いてます。これからもたまにコメントさせて下さいね。
私も、大河の毛利元就を思い出しました。あの大河も個性的な方ばかりでした。あの尼子経久は当初は萬屋錦之助がやる予定だったのを体調不良で緒方拳に変わったのを覚えてます。凄く良い演技でした。また昨年の大河で好演した松坂慶子の演技も覚えてます。確か元就の継母だったと思います。
この時の大河は一年を通して観てました。
それにしても、元就の時に中国一帯を制した毛利が、関ヶ原でなんであんな優柔不断な事をしたのか不思議です。
上杉と言い、毛利と言い積極的に家康を攻めていたら、その後歴史は変わったでしょうね。でも、それは、たらればですね。
もし、あの世がからこの世を見れたら、謙信も元就も何て思ったでしょうね。

投稿: シンリュウ | 2009年9月27日 (日) 22時39分

追伸
「毛利元就」と「葵徳川三代」は全話収録DVDが出ました。
伊勢湾台風が東海地方を襲撃して50年が経過しました。
最近は関東地方に台風が上陸しないため、悪天候で交通網がマヒする事が少ない反面、システム不備や停電や信号故障で運休がなぜか多いです。

投稿: えびすこ | 2009年9月27日 (日) 22時49分

シンリュウさん、こんにちは~

毛利には毛利の勝算があったのでしょうね。

ただ、広家と徳川の密約は、密約なので、くわしい事がわからなくて当然・・・優柔不断な態度は、なにか理由があるのかも知れません。

こっちとしては、いろいろ考えられるところが、これまたオモシロいんですが・・・

投稿: 茶々 | 2009年9月28日 (月) 17時11分

えびすこさん、こんにちは~

関東は運休が多いんですか?
知りませんでした(*´v`*)゜

投稿: 茶々 | 2009年9月28日 (月) 17時13分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 毛利元就の吉川&小早川乗っ取り作戦:

« 未盗掘で発見された藤ノ木古墳~その被葬者は? | トップページ | 関ヶ原敗戦での毛利の転落と先の読めない天地人 »