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2009年9月 4日 (金)

日露戦争・初めての大野戦~遼陽会戦

 

明治三十七年(1904年)9月4日、日露戦争において、日本軍が遼陽入城を果たしました。

・・・・・・・・・

これまでの日露戦争の経緯について、
くわしくは、コチラ↓のリンクから…

・‥…━━━☆

この年の2月に、日本側の宣戦布告によって始まった日露戦争・・・(2月10日参照>>)

2月の開戦後まもなく、仁川(じんせん)沖海戦(2月9日参照>>)に勝利して朝鮮半島に上陸した日本軍・第1軍は、5月には鴨緑江(おうりょくこう)を越えて満州へと進出しました。

*黄海海戦でご紹介した地図ですが、位置関係を知るために・・・
Nitirotizucc
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

ここから北にある遼陽(りょうよう)には、ロシア満州軍の司令部があり、満州に展開する以上、その遼陽での決戦は避けられないと判断した日本軍は、まずは、第1軍を北へと進撃させます。

一方、同じく5月に遼東半島の中央部分にある塩大澳(えんだいおう)に上陸した第2軍は、遼東半島を南下・・・5月26日には、旅順(りょじゅん)の北側に位置する金州(きんしゅう)と南山(なんざん)を陥落させて半島を分断し、旅順を孤立させました。

しかし、その旅順には、未だ4万4000とも言われるロシアの守備軍がいますから、このまま2軍だけで、旅順を陥落させる事はおそらく不可能・・・しかも、この時期は、開戦当初から、この旅順に停泊しているロシア艦隊を撃破すべく展開していた日本海軍の連合艦隊も、なかなかの苦戦を強いられ、旅順の攻略は陸軍の手にゆだねられる方向へと進みつつある時期でした。

そうなると、陸軍でも、旅順攻略のための新たな第3軍を編制する必要があり・・・って事で、ともかく、第2軍はこのまま南へは向かわず、北東へと進路を変え、第1軍と合流して、ともに遼陽攻略をめざす事になりました。

・・・とは言え、この間に、海上では、先日書かせていただいたロシア艦隊に連合艦隊が大勝利を収める黄海海戦(8月10日参照>>)が展開される事になるのですが・・・。

そんな8月、こちらの陸戦部隊でも、第1軍と第2軍に加え、新たに姫路第10師団を中心に編制された第4軍が合流し、遼陽を攻略をめざして、徐々に包囲を狭めていく中、やがて訪れた8月24日、いよいよ遼陽に向けて本格的な進撃を開始します。

日本側の作戦は、第2軍と第4軍が正面からの攻撃・・・そして第1軍が迂回して側面からの攻撃という物でした。

一方のロシア軍は、この遼陽は、あくまで突出した最前線という事で、最初のうちは遼陽での決戦に消極的だったのですが、ここに来て、本国から大量の援軍が派遣されてきた事もあって、遼陽司令部を率いるクロパトキン大将も、決戦を決意・・・

こうして始まった遼陽会戦ですが、2日後の26日、迂回部隊が想定位置に到着したところで、正面の部隊からロシア軍主力に向けて攻撃が開始されます。

ところが、ロシア軍は、あっさりと撤退・・・ほぼ無抵抗のまま、日本軍は遼陽のすぐ手前にまでやってきます。

実は、これはロシア側の作戦・・・ロシアは遼陽の手前に堅固な守備陣地を構築しており、「決戦はここで・・・」という事だったようです。

・・・よって、ここでの戦いは激戦となります。

歩兵部隊による接近戦が繰り返され、一進一退の戦闘・・・やがて、日本軍の弾薬が底をつきはじめ、兵士の疲れもピークに達し、窮地に立たされた日本軍が「もはや限界か・・・」と、やや、あきらめムードになった時・・・

なぜか、ロシア軍が撤退を開始・・・理由は明白ではありませんが、一進一退の激戦になっていたという事は、日本側だけでなくロシア側にも、それ相当のダメージがあったという事でしょう。

とにもかくにも、クロパトキン大将が、遼陽を放棄し、さらに北に位置する奉天(ほうてん)での決戦に切り替えてくれた事で、日本軍は救われた形となりました。

かくして明治三十七年(1904年)9月4日日本軍は遼陽入城を果たしたのです。

一方、同じ8月から同時進行で行われていた旅順攻略・・・そのために新しく編制された第3軍の司令官は、ご存知、乃木希典(のぎまれすけ)大将です。

日露戦争のキーポイントともなる旅順での激戦は、1月2日のページでどうぞ>>。
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コメント

茶々様、おはようございます!!
ページを開いたとたん「わぁ~☆」という声が思わず出ました。
早速、感想へ「良いです!」へ投票させていただきました!
以前のデザインも見易いと思っておりましたが、こちらのデザインもはっきりしていて、眼にも心にも良いかと☆

今日は何の日?
は本当に大好きで、見ハマッております♪
オールジャンル、人生(お話)色々・・・。
これからも色々なお話、楽しみにしております!!

投稿: おふく | 2009年9月 4日 (金) 11時12分

おふくさん、早々のご感想、ありがとうございます

シンプルなほうが見やすいかな?とは思うのですが、自分で作るなら個性的なのが良いかと・・・

ちょど季節も秋なので、以前「かぐや姫」のところで描いたイラストをもとに作ってみました。

投稿: 茶々 | 2009年9月 4日 (金) 11時42分

わぁ~、すごく素敵なページに模様替えなさいましたねぇ。いつも何気なく見てとくに背景に気を配らなかったけど、今回の背景、季節感もあるし、ロマンチックだし、癒されますよ。  日露戦争は極東のちっぽけな国、日本が白人の大国ロシアに勝利した歴史上非常に大きな意味がありましたよね(いいとか、悪いとかでなく)なぜそんなことができたのか不思議だったんですが、じっくり勉強させてもらえて感謝です。疲労困憊、ギリギリのタイミングで終結させたと思うのですが、このあと日比谷焼打ち事件があって、大衆っていつの時代も変わらないんだなぁと思います。

投稿: Hiromin | 2009年9月 4日 (金) 20時57分

Hirominさんこんばんは~

なんだか、ロシアのほうが余裕があるように感じますが、勝ちは勝ちですもんね。

大国の圧力に苦しんでいた国の人々から見れば、この頃の日本はヒーローだったようですね。

投稿: 茶々 | 2009年9月 4日 (金) 23時12分

日露戦争は、満州・朝鮮の支配をめぐる日露の戦争ではないですか? この勝利で、朝鮮を植民地化し、中国への侵略を進めたのではないですか?

投稿: | 2009年11月28日 (土) 10時54分

こんにちは~
この記事の冒頭にリンクしてある「日露戦争・勃発」のページは読んでいただきましたでしょうか?

そこで、私なりの見解を少しは書いておりますが、そこでも書いたように、日露戦争は、そもそも、日清戦争後の各国の思惑が交錯し、日本とロシアのみの問題でもなく、多くの国がからんでの勃発ですから、一国の状況を以ってその原因を判断できるものではありませんし、結果が勃発当初に求めていた物と同じという事でもないと考えます。

右と左では考え方が違い、今以って決着がつかないものと判断します。

投稿: 茶々 | 2009年11月28日 (土) 11時25分

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