« 討死上等!関ヶ原に散った猛将・島左近 | トップページ | 12年なのに「前九年の役」&5年なのに「後三年の役」? »

2009年9月16日 (水)

直江兼続・苦戦~長谷堂の戦い

 

慶長五年(1600年)9月16日、最上領に侵攻した上杉家の執政・直江兼続が、長谷堂城に総攻撃を開始しました。

・・・・・・・・・・・

「上杉に謀反アリ」のイチャモンをつけて、「会津征伐」と称して上杉にケンカを売っておきながら、畿内での石田三成の挙兵によって、サラリとUターンしちゃった徳川家康さん(7月25日参照>>)・・・

「背を向けた相手を攻撃するのは、義に反する」と、追撃を許可しなかった主君・上杉景勝(かげかつ)に従い、泣く泣く、家康との一戦を諦めた直江兼続(かねつぐ)は、そのウップンを晴らすかのように、隣国・最上義光(もがみよしあき)の領地へと侵攻します。

先日の大河ドラマでは「最上が攻めて来た!」と、あたかも、上杉が被害者のようになってましたが、この最上領は、もともと上杉が手に入れたい場所・・・

豊臣秀吉の置き土産となった越後から会津へのお引越しで与えられた領地は、真ん中で分断された形になっていて何かと不便でしたが、この最上の土地が手に入れば、その悩みも解決しますし、万が一、関ヶ原で家康が大勝して、その勢いで再び「会津征伐」を再開したとしても、後方の宿敵=最上がいなければ、挟み撃ちされる心配もありません。

なんせ、この時は、まだ誰も、あの天下分け目の戦いが、わずか一日で決着するとは思ってもいませんでしたから、兼続には、充分な時間があるはずでした。

そんなこんなで、慶長五年(1600年)9月9日に、居城・米沢城を出陣した兼続は、最上配下の支城を次々と落とし、長谷堂城へと迫ります・・・と、先日はここまでお話させていただきました(9月9日参照>>)

長谷堂城は、山形城の南西7kmに位置する小高い丘のうえにあり、その丘が天然の要害となっている最上の支城の中でも、最も堅固な城でした。

9月15日・・・西では、関ヶ原の合戦があったその日に、長谷堂城へ到着した兼続は、城から1,2km離れた菅沢山に本陣を構えました・・・その数、約1万8000!

迎え撃つ長谷堂城には、城将の志村光安(あきやす)以下、わずか1000名!

Hasedoufuzinzucc
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

ここが落とされたなら、もはや山形城は風前の灯火・・・とばかりに、義光は、息子・義康(よしやす)北目城に派遣して、あの伊達政宗に救援を要請します。

これまで、東北の覇権を巡って、過去には、散々争ってきた最上と伊達ですが、なんだかんだで、政宗の母は、義光の妹・・・しかも、最上が倒れた後には、上杉は伊達の領地へと侵攻するに違いありませんし、家康の手前も、ここは最上を助けたほうが、政宗にとってもよろしい・・・

しかし、先日の家康のUターンで、後ろ盾を失った政宗は、落としたばかりの白石城(7月25日参照>>)を上杉に返還し、和睦を結んだばかりです。

そこで、政宗は自らは動かず、叔父・留守政景(るすまさかげ)3000の兵をつけて山形に派遣しました。

かくして慶長五年(1600年)9月16日長谷堂城への総攻撃を開始する兼続・・・しかし、城門はピッタリと閉ざされ、徹底抗戦の構えの光安は、上杉勢を容易に近づけさせません。

その日の夜の事・・・今度は、最上勢が夜襲をかけます。

この時、菅沢山の上に陣を敷いていた兼続の主力部隊でしたが、春日元忠だけは、その麓に陣を構えていたのです。

少ない兵なれど、地の利がある光安は、そこを狙います。

ふいを突かれた元忠はあわてて山の上の本陣に敗走・・・

その後も、兼続は連日の攻撃を仕掛け、外堀のあたりまでは侵攻するのですが、そこまで来ると山上からの鉄砲の集中放火を浴び、苦戦に次ぐ苦戦を強いられてしまいます。

この結果にいらだつ兼続は、将兵に、周辺の田んぼの苅田を命じて、最上勢を挑発します。

ちなみに、この苅田・・・なんだか、米泥棒のようでセコイ気がしますが、「刈り働き」と呼ばれる、れっきとした作戦の一つです。

収穫間際の刈り働きは、相手の兵糧をピンチにさせるだけでなく、略奪した稲は、自分とこの兵糧となって一石二鳥・・・(って結局泥棒かい!)

また、季節によっては、稲や麦が、まだ、実っていない段階で襲う事にもなりますが、この場合は、自分ところは、ともかく、相手の兵糧は減らせるわけですから、それでも充分効果アリ、これを「青田刈り」と呼びます。
(出世しそうな新人兵士を、他人より先にスカウトする事じゃないですww)

もちろん、「そうはさせるか!」と、敵がおびき出されてくれれば、襲う側としては思う壷・・・そこで、ガツンとやっちゃえるわけです。

ところが、どっこい、今回ばかりは、そんな兼続の上をいく武将が最上におりました。

山形城から、救援に駆けつけたばかりの鮭延秀綱(さけのべひでつな)(6月21日参照>>)でした。

まずは、わずか100ほどの人数で、おびき出されたふりをして、苅田を阻止するために城外へ撃って出ます。

「そら、来た!」とばかりに、上杉勢が襲ってきたら、すぐに兵を退いて、大手門あたりへ誘い込む・・・そこには、約300挺の鉄砲隊を潜ませておいて、追ってきた上杉勢に一斉に銃弾を浴びせかけます。

この作戦で、30余名の上杉勢が命を落しますが、最上勢は1兵の損失もなく無事にに帰還・・・お見事でした。

その後も、連日の攻撃に、最上勢は、ある程度打撃を受けるものの、どれも戦況を左右する戦いには至らず、そうこうしている中、24日(29日とも)には、周囲を偵察していた一隊が、敵に遭遇して、そのまま合戦になだれ込みました。

この一隊には、あの前田慶次郎や、新影流の始祖・上泉信綱の孫の上泉泰綱(かみいずみやすつな)もいましたが、気づいたときには、すでに周囲を囲まれてしまって、絶体絶命・・・。

何とか前線に立って10騎ほどを討ち取ったところで、急を聞いた兼続は、慌てて400の兵を現地に向かわせますが、奮戦空しく、泰綱は、ここで命を落としてしまいました(9月29日参照>>)

途中からは、かの伊達の援軍も到着し、最上の士気はますます高くなります。

兼続は、他の最上の支城と同様に、この長谷堂城も、簡単に落せると踏んでいたようですが、その思惑通にはいかなかったようです。

そんなこんなの9月30日・・・さらに、上杉にとって悪い知らせが舞いこんできます。

そうです。

あの関ヶ原で、三成率いる西軍が敗れた事・・・

たとえ、この戦いで上杉が最上に勝ったとしても、天下が家康のものとなれば、何の実りもありません。

動揺する兵士たち・・・なんせ、上杉軍は1万8000という大軍、こうなったら、これを速やかに撤退させなければなりません。

このブログでたびたびお話しているように、撤退が進軍よりもはるかに難しい事は、孫子(そんし)の昔からの定番・・・

ここまで、あまりいいとこのなかった兼続さん、この撤退劇で、その名を残す事になるのですが、そのお話は、撤退戦が行われる10月1日へどうぞ>>
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 討死上等!関ヶ原に散った猛将・島左近 | トップページ | 12年なのに「前九年の役」&5年なのに「後三年の役」? »

家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

ふぅ~、好きな武将の奮戦を呼んでるだけで手に汗を握ってしまうヽ(;´Д`ヽ)(ノ;´Д`)ノ
今日は豪華な出演者ですね!直江兼続・前田慶次郎・伊達政宗・最上義光ect,ect
私、歴史が大好きなんですが関ヶ原の勝敗の結果を聞いた上杉勢の心境を思うと・・・また必死に守っていた最上勢の心境を思うと・・・、歴史 最高ですね!

投稿: DAI | 2009年9月16日 (水) 12時05分

DAIさん、こんばんは~

>好きな武将の奮戦を呼んでるだけで手に汗を握ってしまう

ホントです。
命のやり取りを「ワクワク」と表現するのは不謹慎かも知れませんが、やっぱり興奮してしまいますね~

投稿: 茶々 | 2009年9月16日 (水) 20時15分

こんばんはー

今日は出羽合戦ですね。
ちょうど大河とクロスオーバーするみたいですね!

それにしても、秀吉の上杉・伊達・最上の配置は絶妙といいますか、互いにうまく牽制するようになっていますね。
晩年の秀吉も意外とボケてなかったのかな?
それとも、三成あたりの献策でしょうか?

閑話休題、長谷堂の撤退戦における兼続サンの名采配楽しみにしています(*^_^*)

投稿: maabou | 2009年9月16日 (水) 21時06分

maabouさん、こんばんは~

>秀吉の上杉・伊達・最上の配置は絶妙・・・

そうなんですよね~

蒲生氏郷の死と言い、何となく上杉の会津転封は臭うんですが、またいずれ書かせていただきたいと思っております。

大河ドラマは、ちょうど、来週はこのあたりでしょうか・・・

投稿: 茶々 | 2009年9月17日 (木) 01時39分

もしも、13日の放送で出てきた「徳川軍撃退の奇襲」を、実際にやっていたら歴史はどうなっていたか?すんなり「幕府発足」とは行かないかも。実際には徳川軍が来なかったので、上杉軍が「待ちぼうけ」しました。
先日ご指摘の大河ドラマの「年齢のギャップ」。
これを解消する方法があります。
主要配役の場合で長命の人物に限りますが、配役を青年壮年期・老年期(いわゆる「おしん」方式)と分ける事を提案します。20代の若い俳優に老けメイクをしても、どうしても「肌の張り」が違う(だから最近30代で死んだ男性の主人公が多いのかな?)から。ただし、原則として(子役を除き)「1人1役」の大河ですから難しい事を承知の上で。もしそれができれば、ベテランにも顔を立てられる。

投稿: えびすこ | 2009年9月17日 (木) 10時23分

えびすこさん、こんにちは~

ドラマでは自信満々で、家康が命乞いするシーンまで想像してた兼続さんですが、長谷堂の戦いを見る限り、最上も伊達もなかなかの智将・・・意外と苦戦してたかも知れませんね。

途中から妻夫木くんや小栗くんが出なくなると、女性の視聴者がガタッと減るかも・・・

投稿: 茶々 | 2009年9月17日 (木) 17時21分

酒田市より初めまして、長谷堂城跡の頂上から眺める山形花火大会もまた格別かもしれませんね。

投稿: 雪ん子keikai★月 | 2017年8月13日 (日) 17時54分

雪ん子keikai★月さん、こんばんは~

そうなんですか?
コチラは大阪ですが、生駒山から見るPL花火も良いですよ。
ちょっと距離はありますが…

投稿: 茶々 | 2017年8月14日 (月) 01時17分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 直江兼続・苦戦~長谷堂の戦い:

« 討死上等!関ヶ原に散った猛将・島左近 | トップページ | 12年なのに「前九年の役」&5年なのに「後三年の役」? »