鎌倉幕府・震撼~比企能員の乱
建仁三年(1203年)9月2日、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の嫁の実家である比企氏が、頼家の母の実家である北条氏によって滅ぼされる比企能員の乱がありました。
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本日の比企能員の乱については、先日の源頼家(よりいえ)さんのご命日に、少し書かせてはいただきましたが、やっぱり外せない鎌倉幕府の一大事件という事で、内容かぶりつつも、今日も書かせていただきます。
比企能員(ひきよしかず)は、その出自は明らかでないものの、幼い時に、叔母である比企禅尼に引き取られて養育され、その比企禅尼が源頼朝の乳母だった事から、あの伊豆での挙兵(8月17日参照>>)の間もなくから、ずっとそばにいて頼朝を支え、藤原氏を滅亡させた奥州遠征(8月10日参照>>)でも、片翼の大軍を任されるほどの有能な側近でした。
頼朝の死後、2代目将軍を継いだ頼家のもとで、13人の御家人による合議制による体制が敷かれる事になりますが(4月12日参照>>)、能員は、その13人のメンバーにも入っていました。
しかし、その13人の中の1人であり、頼朝・頼家父子からの信頼も篤かった梶原景時が非業の死(1月20日参照>>)を遂げた頃から、徐々に世代交代の波が押し寄せます。
もちろん、それは、確執や争いからだけでなく、年齢というものもあります。
三浦義澄(よしずみ)や安達盛長、千葉常胤(つねたね)など、頼朝とともに戦って源氏の世を勝ち取った第一世代が、その年齢もあって相次いで亡くなり、幕府内の序列というものが大きく変わろうとしていたのです。
そんな中、年齢のわりに元気ハツラツなのは、頼朝の嫁・政子の父・北条時政・・・気を使わねばならない老臣たちがいなくなってきて、息子の義時(よしとき・政子の弟)とともに、まさにその権力を一手に引き受けようとしていましたが、彼らのライバルとなったのが能員です。
なんせ、能員は、頼朝が流人の時代からのおつきあいですし、彼の娘・若狭局(わかさのつぼね)は、2代将軍・頼家の側室となって一幡(いちまん)という男の子ももうけていました。
しかも、頼家はその若狭局にベタ惚れ・・・なにかと実家を引き立てます。
これは、いけません!
確かに、頼家も時政にとっては孫ではありますが、このままでは、その一幡くんが次期将軍に・・・そんな事になったら、将軍の外戚(母方の実家)として、ますます比企氏の力が・・・
ところが、そんなこんなの建仁三年(1203年)、8月に入って、頼家が病に倒れ、一時は重体という事態となってしまいますが、逆に時政は、これ幸いと、かの合議制をうまく利用して将軍の権力を2分化する作戦に出ます。
それは、総守護職と関東28ヶ国の地頭職を頼家の子・一幡に・・・、関西38ヶ国の地頭職を頼家の弟・千幡(せんまん)に相続させるという案でした。
これで、頼家にもしもの事があったとしても、千幡の外戚(千幡の母は政子ですから)として時政も腕をふるう事ができます。
しかし、比企氏へのイケズとしか思えないこの案のゴリ押しに、怒り心頭なのは能員・・・そこで、能員は若狭局を通じて頼家に、「将軍が病気なのをええ事に、時政父子が千幡を担ぎ出して将軍職を奪おうとしてまっせ」と告げたのです。
この話に、病気とは思えないほどの怒りをあらわにする頼家・・・早速、枕元に能員を呼び寄せて、北条討伐の密議をこらしますが、これを障子の影から家政婦のように「見ちゃった・・・」のは、市原・・・いや、政子です。
かくして建仁三年(1203年)9月2日・・・政子の使いから、急を知らせる書状を受け取った時政の行動は素早い!
早速、政所(まんどころ・政務を取り仕切る所)の長官だった大江広元の承諾を得て、「将軍が病気なのをええ事に、その命令やと偽って、叛逆を企ててるので、ともに出陣せぃや!」と、天野遠景(とうかげ)と仁田忠常(にったただつね)に命じます。
・・・と、この時、遠景が、「あんなジイサンに軍隊出す必要ないやろ!呼び出して殺ってまおうぜ!」と進言・・・まもなく、工藤五郎という男が使いとなって、「薬師如来の供養をするので、ウチに来てね(≧∇≦)」と、能員を北条邸へと誘います。
誘いを受けた比企邸では、一族・親類が、「行くのなら、甲冑に身を包んで、兵を引き連れて行くべき!」と提案しますが、将軍との密議がバレてるとは思わない能員は、「いやいや、武装していったら、かえって怪しまれるやろ・・・」と、平服のまま、数人の郎党を連れただけの状態で北条邸へと向かいます。
迎える時政は、自ら甲冑に身を固め、弓の名手を左右の小門に控えさせ、先ほどの遠景と忠常を脇戸の影に潜ませます。
やがて、そうとは知らずにやって来た能員が、惣門をくぐり、馬から下りた、その時!
遠景と忠常が飛び出し、左右から能員の腕を押さえ、有無を言わさず首を取ってしまいました。
慌てた郎党は、われ先にと比企邸に逃げ帰り、異変を知った比企一族は、とりあえず一幡を奉じて小御所に立て籠もります。
これに対して、時政は、幕府御家人を総動員しての大軍勢で小御所を取り囲み、すかさず攻撃開始!
守る比企氏は、能員の息子たちはもちろん、娘婿の笠原親景や中山為重なども馳せ参じ、小勢ながらも大奮戦しますが、いかんせん多勢に無勢・・・やがて親景が討たれ、為重が負傷する中、最期を悟った能員の嫡男・比企時員(ときかず)は、わずか6歳の一幡を抱きかかえ、燃え盛る炎に身を投じました。
こうして、比企氏は、わずか一日の変事によって滅亡する事となったのです。
その後、病が癒えた将軍・頼家の運命は、そのご命日に書かせていただいた通り(7月18日参照>>)・・・第3代の将軍は、先の争いで一幡のライバルとなった千幡が継ぎます・・・ご存知、源実朝(さねとも)です。
・・・とは言え、上記の出来事は、北条家の正史『吾妻鏡』に書かれている事で、実際のところは、この騒動のおおもとである頼家と能員の密議でさえ、本当にあったのか?どうなのか?・・・なんせ、すべてが北条氏の言い分ですから・・・。
しかし、細かな描写はともかく、ここで、比企氏という一族が、滅亡してしまう事は、おそらく事実・・・時政の呼びかけに応じて、小御所を囲んだ御家人の中には、未だ現役で頑張る第一世代の生き残り、和田義盛と畠山重忠もいました。
かの頼朝と苦労をともにして、やっと得た源氏の世・・・身体をはって山を駆け下り、命を賭けて瀬戸内を渡り、夢見た未来は、同志が同志を討つ、こんな世界だったのでしょうか?
そして、そんな彼らも、やがて、北条氏の画策によって、今日の比企氏と同じ運命をたどる事など、みじんも思っていなかったに違いありません。
・2年後の6月22日【武蔵二俣川の合戦】>>
・10年後の5月2日【和田義盛の乱】>>
彼ら老臣の死によって、もはや北条を押える者はいなくなりました。
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