ポーツマス条約の調印と日比谷焼き討ち事件
明治三十八年(1905年)9月5日、日本とロシアの間で日露講和条約=ポーツマス条約が締結し、日露戦争が終結しました。
・・・・・・・・・
「今日は何の日?」という事で、年ではなく日づけで気まぐれに記事を書くもんだから、昨日も日露、今日も日露の話題となると、あたかも次の日に起こった出来事のようで非常にややこしい・・・スンマセンm(_ _)m
・・・って事で、一応、すでにブログに書いている日露戦争に関係する記事を出来事が起こった順に並べますと・・・
明治三十七年(1904年)
●2月 9日:旅順・仁川沖海戦>>
●2月10日:日露戦争勃発>>
●3月27日:旅順港閉塞作戦>>
●8月10日:黄海海戦>>
●9月 4日:遼陽・入城>>
明治三十八年(1905年)
●1月 2日:旅順・陥落>>
●3月10日:奉天・占領>>
●5月27日:日本海海戦>>
・・・と、まだ、ブログに書いていない事もありつつも、一応、戦況を左右する大きな出来事は、だいたい出ているものと思いますが、こうして見ると、確かに、日本が勝利している感じではありますが、奉天(ほうてん)が占領されようが、バルチック艦隊が壊滅しようが、未だ、ロシアの皇帝・ニコライ2世は戦争を終らせる気は、まったくありませんでした。
なんせロシアは大国・・・日本とドンパチやってるのは、東の端のほうなので、まだまだ西には、たくさんの兵力を温存したまま、しかも、シベリア鉄道が全線開通したばかりで、その兵力&物資を、どんどんと東へと送り込める状態にあったわけですから・・・。
一方、ギリギリの状態になっていたのは日本のほうです。
上記の出来事を一つ一つ見ていただければ一目瞭然ですが、勝利に酔いしれるような勝ちは海戦のみで、陸戦はどれも、多大な犠牲を払っての紙一重の勝利・・・もはや、物資も兵力も崩壊寸前の危機にさらされて、むしろ、戦争を終結させたいのは日本のほう・・・。
ただ、この頃のロシアは、国内に爆弾を抱えていました。
この年の1月には、“血の日曜日”と呼ばれる軍隊が反発する一般民衆へ発砲する事件が起こっていましたし、6月にも、戦艦・ポチョムキンが叛乱を起すという事件が起こっていて、いずれも、この後のロシア革命への波を感じさせる事件です。
そこで、日本海海戦から10日後の6月6日、ルーズベルト大統領のメッセージを持ったアメリカ大使が、直接、ニコライ2世に拝謁して、日本との講和交渉を呼びかけたのです。
重い腰をあげたロシア、その代表は非戦派のウィッテ・・・一方、日本の代表は小村寿太郎外相・・・
8月5日、ふたりは、大統領専用ヨット・メイフラワー号の船上で、初めて顔を合わせます。
しかし、この時、ウィッテは、皇帝から「領土の割譲と賠償金の支払いには、絶対に応じるな」という使命を課せられていました・・・なんせ、皇帝は未だ、「このまま戦争を続けて長期化させれば、絶対に負ける事はない」と思ってましたから、かなり強気です。
・・・で、話し合いの末に迎えた明治三十八年(1905年)9月5日、ポーツマス海軍工廠(こうしょう)で開催された会議にて、講和条約が調印されたのです。
その主な条件は・・・
- 韓国における日本の優越的地位の承認
- 北緯50゜以南の樺太を日本へ永遠譲渡
- 両軍の満州・撤退
- 清国の承認下での満州鉄道の日本への譲渡
- ロシア沿岸の漁業権を日本へ許与
確かに、ロシア本土の領地の割譲も、賠償金の支払いも入ってません。
しかし、戦争の実情を知っていた内閣・軍部・元老・・・そして、もちろん明治天皇にとっては、まったく以って納得のいく条件でした。
ロシア本土は未だに無傷・・・かたや日本は虫の息・・・
この状態で、ロシアという大国に勝ったという名誉を得ただけでも、大きな成果です。
しかし、納得がいかなかったのは、勝利の成果に期待していた日本の一般庶民・・・彼らが、期待していたのは、やはり領土の割譲と賠償金の支払い。
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戊辰戦争 | 日清戦争 | 日露戦争 |
動員兵力 死者 負傷者 |
12万人 約3600人 3800人 |
12万人 1万3309人 |
108万人 約12万人 17万人 |
戦費 | 約2億円 | 約15億円 |
(国史大辞典ほか)
日露戦争よりも犠牲が少なかった10年前の日清戦争では、台湾を獲得し、当時の清国の国家予算の3年半分に相当する巨額の賠償金を得ていたわけですから、これだけ大きな犠牲が払われたなら、それ相当の見返りを期待していたわけで、その二つが含まれない講和は、あってはならない物だったのです。
・・・で、ポーツマス条約が調印されたその日から、各地で騒動が発生する事になるのですが、中でも、東京・日比谷公園で開催された講和反対国民大会・・・
●内閣と全権(交渉した小村の事)の謝罪
●条約の破棄
●再度の抗戦で敵を粉砕 ・・・を求めて開催されたこの大会では、暴徒と化した参加者が政府系新聞社や内務省に乱入・・・さらに、交番や電車まで焼き討ちされ、死者も出る大惨事となりました
・・・世に言う日比谷焼き討ち事件です。
本来なら、国を挙げて祝うべき勝利の日に、このような騒動が起こった事は、その後の日本の運命を暗示しているかのようですが、欧米列強の支配に苦しんでいた有色人種に、この時の日本勝利のニュースが、一筋の希望を与えた事だけは、少し誇りに思います。
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コメント
東郷平八郎で思い出しました。意外に感じる事ですが、東郷平八郎が明治維新の時に、土方歳三の軍と戦った事をご存知でしょうか?
あまり知られていない事なので、「幕末ファン」でも知らないと思います。
今月、「歴史秘話ヒストリア」で明治時代の勝海舟を取り上げる予定です。最近はそれが楽しみです。
「明治(前半)=文明開化」と言うイメージです。政府内情は混沌としていた様です。政治的に安定したのは「内閣制度」ができた中期以降の方ですね。最近気がついたのですが、日本の元号で「19・20・21年」の時期は国内が混乱するらしい(仮説)ですね。戦国時代なら「天正」や「慶長」もそうです。
投稿: えびすこ | 2009年9月 5日 (土) 12時52分
えびすこさん、こんにちは~
幕末の東郷さんについては、未だ若いので、主役というほどの活躍ではないため、本文には登場してませんが、薩英戦争のページで、その初陣の話とか、宮古湾海戦のページで春日に乗船していた事などをコメントでお知らせしています。
よかったら「幕末維新の年表」から行ってみてくださいね。
投稿: 茶々 | 2009年9月 5日 (土) 13時22分
19050905はポーツマス条約調印の日ですから、19050527の日本海海戦に勝るとも劣らない世界史的一日だったわけです。非キリスト教徒のアジア人が白人国を陸海の近代戦で初めて打ち破って有利な講和を結んだのですから。白人の侵略を打ち破ったという意味では、鄭成功の台湾征服によるオランダ追放や第一次エチオピア・イタリア戦争によるイタリアの敗退も重要だと考えています。
投稿: ニッポンマル | 2009年9月 7日 (月) 10時15分
ニッポンマルさん、こんにちは~
以前もどこかで書きましたが、最近のトルコでのインタビューで、人気のサッカー選手を抑えて「好きな日本人」のベストテン上位に、東郷平八郎が食い込んでいました。
欧米の脅威にさらされた国から見れば、やはりヒーローなのですね。
投稿: 茶々 | 2009年9月 7日 (月) 11時55分