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2009年9月30日 (水)

信長・歓喜!華麗なる鉄甲船の登場

 

天正六年(1578年)9月30日、に入港していた鉄甲船の観艦式が開催されました。

・・・・・・・

伊勢から熊野浦を越え、丹和沖での海戦(7月14日参照>>)を経て大坂湾の港へ、去る7月14日に堂々の入港を果たした7隻の大安宅船(おおあたけぶね)・・・戦国から江戸初期にかけて造られた最強の軍船=安宅船のうち、1000石以上の大きさの物を大安宅船と呼びますが、この時の記録では、滝川一益(かずます)が建造した1隻を「白舟」と記しているところから、九鬼嘉隆(くきよしたか)が建造した残りの6隻…もしくは6隻のうちのいくつかが、黒光りの威風を放つ鉄甲船であったと思われます(そこらへん少し曖昧ですm(_ _)m)

この鉄甲船を、色とりどりの幟(のぼり)や指物(さしもの)で飾りつけ、関白・近衛前久(このえさきひさ)をはじめとする公家や有力大名、堺のお金持ちに宣教師までを招待して、大々的に開催された華麗なる観艦式・・・

Odanobunaga400a この日の織田信長は、自らの発想の豊かさと、それを実現できる力を持つ事を内外に見せつけ、大いに気を吐いた事でしょう。

そもそもは、室町幕府第15代将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たした後、天下統一をもくろむ信長に対して危機感を抱いた義昭の声かけによって敷かれた信長包囲網・・・

比叡山延暦寺をバックに持つ越前(福井県)朝倉義景近江(滋賀県)浅井長政、戦国屈指の大物・甲斐(山梨県)武田信玄越後(新潟県)上杉謙信、そして、大坂・石山本願寺に拠点を置く第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)全国の本願寺信徒に同調を呼びかけ挙兵・・・まさに、周囲敵ばかりの状態となった信長。

そんな中、天正四年(1576年)5月の天王寺合戦(5月3日参照>>)で痛い目を見た信長は、石山本願寺の周囲に砦を築いて完全包囲・・・籠城する本願寺側の補給路を断ちます。

しかし、ここで西国の雄・毛利輝元が参戦・・・海路から本願寺への兵糧補給を目指し、一族の小早川水軍、配下の村上水軍を率い、さらに紀州(和歌山県)雑賀(さいが・さいか)水軍を加えた船団が、兵糧を満載した船とともに大坂湾に進入します。

もちろん、それを阻止すべく立ちはだかるのは、沼田氏真鍋氏など和泉河内(大阪府)摂津(兵庫県)の水軍で構成された織田水軍・・・第一次木津川口海戦の勃発です(7月13日参照>>)

しかし、ここで、陸戦に勝るとも劣らない艦隊編制での陣形による連携プレーで、翻弄されまくり、見事な負け戦となってしまった織田軍・・・。

手痛い敗北を喰らった信長は、未だ建築中の安土城九鬼水軍の嘉隆を呼び、鉄甲船の建造を命じたのです。

九鬼一族は、南北朝時代から、伊勢志摩から熊野灘を活動範囲とする海賊でしたが、すでに嘉隆の時代には、その海賊稼業にも陰りが見え始めていた頃・・・ちょうど、その時、かの顕如の呼びかけに答えて一向一揆が勃発した伊勢長島にやって来た信長の傘下となり、その長島一向一揆(9月29日参照>>)で海上から見事にバックアップした事で、信長からの信頼を得ていたのでした。

ところで、今回の鉄甲船・・・水軍に関してはプロの嘉隆ですが、この鉄甲船というアイデアはおそらく信長本人の発想でしょう。

確かに、前回の木津川口海戦では、村上水軍の放つ焙烙(ほうろく)という手投げ弾のような武器で、木製の軍船がことごとく燃やされて混乱状態に陥ったため、どうにもならない船いくさとなってしまったわけですが、「それなら、燃えない鉄で造っちゃえ!」という発想は、プロにはできません。

たとえ思いついたとしても、上司に提案すれば「何を考えとるんだ!」と、怒られそうな発想です。

なぜなら、そんな重い船体では速く走行する事ができず小回りもきかない、第一、塩分を含んだ海水にさらされた鉄は、すぐに錆び、あっという間に使い物にならなくなるのは目に見えています。

殿様の出す大金を使って、そんなもったいないシロモノ・・・プロなら、もっと機能的で使い勝手が良く、長持ちする有意義な物を造るでしょう。

そうです、今回、おそらく、ものすごい金額になるであろう鉄甲船を考えたのが、その大枚な金額を自らが支払う本人だから実現できたと思うのです。

信長にとって、鉄甲船は、小回りをきかして速く走る必要はないのです。

そこにいて、敵の船団の進入を阻止する事だけ・・・相手を蹴散らして制海権を握れば2度目は使えなくても良いのです。

一度きりの作戦に、膨大な金額を惜しみなく使えるのは、このアイデアが信長のものであったからに他ならないと思うのです(←個人の感想です)

なんせ信長は、数年前にも、大軍を率いて琵琶湖を渡るためだけに大船を建造(7月3日参照>>)していますし・・・

実際に、この鉄甲船は、この後の海戦一回こっきりで、2度と歴史には登場しませんしね。

この14年後に、豊臣秀吉朝鮮出兵で、再び鉄を装甲した大安宅船が登場しますが、それらは、すべて新しく建造された物なのです。

もちろん、その信長の突飛なアイデアを現実の物とした嘉隆の手腕も大したものですが・・・。

加重して転覆しやすくなる船体をいかにして安定させるか?
損なわれる機動力をいかに最小限にするか?

伊勢大湊(おおみなと)という最先端の職人集団をかかえる嘉隆も、おそらく彼らとの試行錯誤のうえ、完成に漕ぎつけた事でしょう。

かくして天正六年(1578年)9月30日、この日の観艦式で、鉄甲船を目の当たりにしたイエズス会士・オルガンチノは、フロイスへの報告書に・・・

「堺で見てきたけど、ポルトガルの船にも匹敵するような大きさと華麗さにびっくりしたわ。
きっと、あれを大坂港の河口に置いとして、石山本願寺への兵糧の運び込みを阻止しよっちゅーんやろな。
船には3門の大砲と、数えきれんくらいの精巧な長銃が搭載されてるんやけど、いったいどこから入手したんやろ?
僕の知ってるのでは、日本では大友君が持ってるヤツしかないはずなんやけど・・・」

と、驚きを隠せないようです。

そう、以前、耳川の戦い(11月11日参照>>)を書かせていただいた時に登場した大友の最新兵器・国崩(くにくずし)・・・これは、大友宗麟ポルトガル人からプレゼントされた佛狼機(ふらんき)ですが、それこそ、キリシタン大名として宣教師たちを支援し、外国と深い関係を築いていた宗麟だからこそ手に入れられたシロモノ・・・

耳川の戦いは、この鉄甲船完成の同じ年の11月ですが、もちろん、それ以前に、信長の耳に入っているでしょうから、その存在を知っていたであろう事はわかりますが、すでに、この時点で、国産品を造るほどになっていたとは、オルガンチノでなくとも驚きです。

どうやら、信長は、けっこう早くから、かの秀吉に命じて、近江の国友(くにとも)の鍛冶職人に造らせたようですが、『国友鉄砲記』という書物には、大砲の試作品を見た信長が、「三国無双の宝器を得た」と大いに喜んだと書かれているそうです。

戦国という敵味方入り乱れる時代の、信長の情報網のスゴさと、行動に移す事への素早さには感服しますね~

もちろん、わずかの情報だけと短い時間で、国産品を造ってしまう職人さんの技術にも閉口ですが・・・

こうして、皆々様の知るところとなった世紀の軍船=鉄甲船・・・この最新の武器を以って、再び、石山本願寺の補給路を断とうとする信長・・・第二次木津川口の海戦はいかに?

・・・と、そのお話は、やはり、海戦の展開される11月6日【信長VS石山本願寺~第二次木津川口海戦】でどうぞ>>
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

おはようございます。
ついこの間、国友鉄砲の資料館に行ったのですが、こういう話の資料が展示されていたかどうか、記憶にないです(;д;)資料館小さかったから、すべては展示できないのかもしれませんけど、ちょっと物足らなかったので残念でした。
>わずかの情報だけと短い時間で、国産品を造ってしまう職人さんの技術にも閉口です・・・
信長さんの発想のユニークさも素晴らしいですが、その発想を短期に実現してしまう昔の技術者たちに驚きと敬意を表したいですo(_ _)oペコッ

投稿: おきよ | 2009年9月30日 (水) 08時44分

おきよさん、お早うございます

ホントですよね~
鉄砲だって、アッいう間に国産品を造り、アッという間に本家より性能の良い物を造ってしまうんですもんね~

感服です!

投稿: 茶々 | 2009年9月30日 (水) 09時33分

茶々さん
こんばんは!

信長は本当に凄いですね。信長の既存にとらわれない考え方、決断力、行動力は現在の経営者にも、必要だと思います。信長の人気が高いのも皆さん憧れの気持ちがあるんでしょうね。

茶々さんのブログを読んでいてつくづく思うのは歴史は勝者が作るのですね。
信長に関しても、きっと秀吉や家康の脚色があるんでしょうね。茶々さんのブログで比叡山の焼き討ちも後世に伝えられるような大虐殺では無いようですよね?ねねに送った手紙も優しかったですよね。信長の本来の姿ってすごく知りたいですよ!
実際の信長に会いたかったですね!!

本日の話から逸脱し申し訳ありません。

投稿: シンリュウ | 2009年9月30日 (水) 22時34分

今日は鉄甲船ですねヽ(´▽`)/
マンガや資料などでその姿を見るたびにワクワクしてしまいます。当時の人の発想としては考えられないものを考え出した信長!それを作った鍛冶職人の技術力!そこまでは歴史好きの人間なら知っていたと思うんですが海賊大名の九鬼嘉隆はどう思っていたんでしょうかね?船は漁師・海賊にとって神聖な物・・・それが使い捨ての物・・・しかしそれを受け入れ勝利した九鬼水軍にも頭が下がります。

投稿: DAI | 2009年9月30日 (水) 22時57分

シンリュウさん、こんばんは~

残虐性などは、時代によって価値観が違うし、人によって受け止め方もまちまちですが、信長のスゴさの中で最も揺るぎない部分は、人材登用だと思います。

これだけは、間違いなくすごいと思います。

組織が大きくなればなるほど、社長は末端の社員には目がいかず、数字による成績だけで、その人の価値を決めてしまいがちですが、信長は、1人1人の特性を見抜いて適材適所に配置してますもんね。

投稿: 茶々 | 2009年9月30日 (水) 22時58分

DAIさん、こんばんは~

>船は漁師・海賊にとって神聖な物・・・

確かにそうですね~
プロとしては、葛藤があったのかも知れませんね。

自分の理想とは違う物を、注文主の発注通りに造る事に、自らの気持ちを押し殺して挑んだか?

逆に、まったく新しい発想で、今までになかった物を造る事にワクワクしたのか?
本人のみぞ知るって感じですね。

投稿: 茶々 | 2009年9月30日 (水) 23時09分

度々登場してすいません。
信長の人を見る目は天下一品ですね。他の武将には見られませんね。
もし、信長が他の武将と同じように譜代しか取り立てなければ、秀吉、光秀、氏郷、一益などは居なかった事になり、そうしたら、信長の躍進もなく、家康も今川でくすぶっていたかもしれませんね。本当に信長は異端児だったと思います。でも、信長の人材登用が本能寺を呼んだんかも思います。譜代だけだったら、きっと謀反を起こす必要な理由ないので本能寺も無かったかも知れません。
このようなことを考えると、信長は天から戦国を統一するために授けられて、その使命が終わったら天に召された武将のような気がします。

投稿: シンリュウ | 2009年10月 1日 (木) 00時41分

シンリュウさん、お早うございます

確かに・・・
信長の見事な人材登用がなければ本能寺の変は起こらなかったけれど、信長が天下を手にする事もなかったわけで・・・

歴史っておもしろいですね~

PS:HNを変えました~今後ともよろしくお願いします

投稿: 茶々 | 2009年10月 1日 (木) 09時51分

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