未盗掘で発見された藤ノ木古墳~その被葬者は?
昭和六十年(1985年)9月25日、奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳で石室等が発掘された事で、本日9月25日は『藤ノ木古墳記念日』という記念日なのだそうです。
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つい先日書かせていただいた江戸の名大工・中井正清(9月21日参照>>)・・・彼の出身地である西里(にしさと)が、奈良の法隆寺の西大門出てすぐの西隣にある事を書かせていただきましたが、その道をさらに西に進んで、民家と畑の合間にポツンと見えてくるのが藤ノ木古墳です。
右の写真は、私が訪れた3年前のものですが、ご覧になっての通り、この時は、近所の奥様に「これが、藤ノ木古墳ですか?」と聞いてしまったくらい、雑草生え放題で、説明書きも何もない状態でした。
その後、昨年の3月に、車椅子で石室内に入れるバリアフリー設計で整備されたようで、wikiなどにはキレイな写真が載せられていてうれしい限りですが、その時の私の驚きは、「あの有名な藤ノ木古墳が・・・何の整備もされていない」事の驚きだったわけです。
・・・で、この藤ノ木古墳が、なぜ、そんなに有名なのか?
それは、この古墳の石棺が未盗掘のまま発見されたからです。
あの有名な高松塚古墳も、美しい壁画が残っていた事で一躍脚光を浴びましたが、やはり、鎌倉時代に盗掘された跡があり、おそらく朱雀が描かれていたであろう南側の壁は壊され、石棺の中も荒らされていました。
未盗掘という事は、埋葬された時の状態のままなわけで、当時の埋葬の儀礼を解明するうえで、とても貴重な史料なわけです。
発掘後すぐに行われた第一次調査では、全長約14mの横穴式石室と、くりぬき式家型石棺が検出され、石棺と奥壁との間に、銅に金メッキをほどこした馬具や武具、土器などが出土しましたが、何と言っても藤ノ木古墳を有名にしたのは、昭和六十三年(1988年)に行われた第二次調査です。
この時、最新技術とも言えるファイバースコープを使って、石棺内を調査・・・翌日の新聞の一面には、「金銅の冠・刀剣・玉 見えた」「輝く大量の副葬品」という見出しが躍り、まさに、高松塚以来のフィーバーを巻き起こしました。
ただ、高松塚の壁画と違って、ファイバースコープの映像は、なんだかモヤモヤで、素人目には、何が映っているのかよくわからず、何であんなにデカデカと報道されたのか?と少し疑問にも思ったりもしましたが、「最新技術のファイバースコープのカラー映像」というのが、テレビ向き、新聞向きのいい材料だったんでしょうね。
もちろん、ファイバースコープの映像はともかくも、貴重な発見には変わりないわけで、その後も続けられた調査で、石棺内では、北側に20歳前後の男性と、南側に20~40歳とみられる男性二人の被葬者が確認され、金銅製の靴やガラス玉で装飾された太刀、被葬者を覆う布などが、埋葬当時の状態のまま見つかっています。
そんな藤ノ木古墳・・・石棺内の調査は、その昭和六十三年に終えましたが、出土した多くの品々の調査が今なお続いており、イロイロ話題をふりまいてくれています。
もちろん、その被埋葬者が誰であるのかは未だ不明なわけですが、やはり、そこが一番興味のあるところ・・・
実は、この藤ノ木古墳の石棺内からは大量のベニバナの花粉が見つかっていたのですが、当初、その花粉は、被葬者を覆う布の染料に使用されたと見られていました。
しかし、その量がハンパなく多い事に疑問を抱いていた金原正明・奈良教育大准教授の研究によって、その花粉がほぼ100%の花粉である事が判明・・・逆に染料として使用すれば、花粉はほとんど残らない事が証明されて、この石棺内のベニバナは、染料に用いられたのではなく、生花が使用された可能性が高くなったのです。
つまり、現在の私たちが葬儀の時に、生の菊の花で飾るように、生のベニバナで埋葬者を埋め尽くしたという事です。
・・・という事は、ベニバナの咲く季節=夏に埋葬された事になります。
そこで、奈良芸術短大の前園実知雄教授は、被葬者は用明二年(587年)6月5日に亡くなった穴穂部皇子(あなほべのおうじ)ではないか?と推測します。
この穴穂部皇子は、第31代・用明(ようめい)天皇が亡くなった時、その後継者を巡って、後の推古天皇である額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)&蘇我馬子(そがのうまこ)と対立して殺され(6月7日参照>>)、果ては、そんな穴穂部皇子のバックについていた物部守屋(もののべのもりや)との「蘇我VS物部の大抗争」(7月7日参照>>)へと発展するきっかけとなった人物です。
そうなると、もう一人の被葬者は、穴穂部皇子が殺された翌日に、やはり殺された親戚筋の宅部皇子(やかべのおうじ)の可能性が高い事になりますが、それを裏付けるお話も・・・
この藤ノ木古墳内で発掘されている副葬品の中には製作ミスの物が混ざっていたりして、かなり、やっつけで、急遽副葬品を製作した感があります。
さらに、石棺内の被葬者の骨がくっついていた・・・つまり、当時は、亡くなってから一定の期間喪に服してから埋葬するはずが、骨がくっつくほど、死の直後に埋葬されているなど、急な死であり、急な埋葬であった事がうかがえ、その点でも、穴穂部皇子の可能性が高いのだとか・・・
ただ、石棺に入れられたベニバナが生花ではなく、保存用のドライフラワーだった可能性も捨てきれず、そうなると、季節は関係なくなります。
また、今年になって、被葬者の1人・・・南側の人物は女性という説も登場しています。
もともと、骨の鑑定から、男性とされた南側の人物ですが、北側の人物が20歳前後の男性とされたのに対し、南側は20~40歳の男性と見られる・・・つまり、その残っている骨の状態があまりよろしくなく、極めて鑑定し難い状態なのです。
そこで、奈良芸術短大の玉城一枝・非常勤講師は、身に着けていた装飾品に注目し、当時の埴輪や記紀に見られる手玉・足玉など、女性が身に着けていた可能性が高い装飾品を身に着けている南側の被葬者は女性ではないか?と・・・
もちろん、そうなると、北側のもう一人が穴穂部皇子・・・というのも、根本から見直す事になります。
「なんや、結局ワカランのかいな!」
なんて、言わないでくださいね(。>0<。)
こうして、いろいろな、ヒントをいただきながら、あーだこーだと推理していく事が楽しいのです。
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コメント
私は、法隆寺横の西里という所を通って、発掘中のブルーシートが掛かっている藤ノ木古墳まで行ったことがあります。
被葬者は一体誰なのか、ということを想ってみることは本当に楽しいことで、邪馬台国論争も、そういうことと同じなのですが、あまり 沢山のことが明確にならない方が、愉しみは深いもの ・ ・ ・ です。
昨今は、聖徳太子はいなかった~伝説の人 だと専らに云われていますし、如何に法隆寺の目と鼻の先にある古墳といえども、太子と関連のある誰かを候補に挙げることは、無用、ということになるのでしょうね。
投稿: 重用の節句を祝う | 2009年9月25日 (金) 10時35分
重用の節句を祝うさん、こんにちは~
たとえ聖徳太子と呼ばれる人がいなくても、斑鳩という場所に宮を建てた誰かは存在するのですから・・・
その時代は、未だ明日香が中心だった時代ですから、その時代にここまで近くに埋葬したのには、それなりのワケがあるような気がします。
投稿: 茶々 | 2009年9月25日 (金) 14時12分
「天地人」のスタジオ収録が今日で終りました。妻夫木さんは1年間主役として務めました。加藤清史郎君も「飛び飛び」ですが、この1年間収録に参加しました。加藤君は27日から与六改め息子の竹松として登場します。
できれば喜平次役の溝口君も景勝の息子・玉丸として、最終回だけでも登場してほしい(できたかも?)です。
「古墳の記念日」があるとは知りませんでした。制定が20数年前ですから歴史関係では新しい記念日ですね。
投稿: えびすこ | 2009年9月25日 (金) 16時29分
えびすこさん、こんばんは~
最終回が楽しみですね(*^m^)
投稿: 茶々 | 2009年9月25日 (金) 19時23分
今回と推古天皇の回を読んで山岸諒子の「日出ずる処の天子」を懐かしく思い出しました。被葬者の一人が女性・・・穴穂部皇子や宅部皇子とかかわりの深い女性、乳母や仲良しの采女だったりして。そんな風に想像するのもまた楽しいです。奈良県の遺跡って当時のまんま、いじらないでそのままにしているところが当時を偲ぶことができて好きです。石舞台古墳は昔行った時、スピーカーからやかましく解説が流れていたのに閉口したけど、今もそうなのかな。
投稿: Hiromin | 2009年9月26日 (土) 21時00分
Hirominさん、こんばんは~
石舞台には、何度か行きましたが、スピーカーでの解説には気づきませんでした。
気づいてないという事は、その時はやってなかったって事なんでしょうかねぇ???( ̄○ ̄;)!
いずれにしても、その場に立って、いにしえの出来事に思いを馳せるのは、至福のひとときですね~
石舞台周辺は、ちょうど彼岸花が真っ盛り~~また、ウズウズしてきます~
投稿: 茶々 | 2009年9月26日 (土) 22時51分