関ヶ原敗戦での毛利の転落と先の読めない天地人
慶長六年(1601年)9月28日、毛利輝元が長男・秀就を、江戸へ人質として差し出しました。
・・・・・・・・・
この時、わずか7歳だった秀就(ひでなり)は、その後の10年間を江戸で過ごし、慶長十六年(1611年)に弟・就隆(なりたか)と交代する形で、やっと、本拠地の周防(山口県)に戻ります。
この人質・・・慶長六年(1601年)という年数を見ておわかりの通り、あの関ヶ原の合戦での敗戦後、徳川家への服従の意味が込められた江戸入りなわけですが、ちょうど、昨日の大河ドラマ・天地人で、関ヶ原の敗戦後の毛利家の処分についてやってましたが、ドラマでは中尾さんが血走った目をむいただけで終ってしまったので、本日は、「合戦前にはどのような密約が交わされていたのか?」「その密約を、どんな形で家康が破ったのか?」を、お話させていただきたいと思います。
・‥…━━━☆
このブログでも何度か書かせていただいているように、この関ヶ原合戦では、毛利輝元は西軍の総大将という立場で、一方、東軍との密約を交わしていたのは吉川広家です(7月15日参照>>)。
彼らは、ともに、あの毛利元就(もとなり)の孫・・・輝元は、元就の長男・隆元の息子で、広家は元就の次男・吉川元春の息子です。
もともと輝元という人は、豊臣秀吉が存命中の頃から、徳川家康とは親密にしていて、秀吉亡き後に、なんとなくきな臭い空気がくすぶり始めた頃などは、わざわざ「今後、何があっても、お互い裏表なく、兄弟のようにやっていこうや」てな誓紙を交わしたりなんかしてました。
一方の広家は、とにかく安国寺恵瓊(あんこくじえけい)がキライ・・・まぁ、この恵瓊という人は、秀吉の天下取りの第一歩となった中国大返しの時に、毛利側の交渉人でありながら、途中から秀吉べったりになった人(9月23日参照>>)ですから、広家にとって気に喰わないのは当然と言えば当然だったわけです。
その恵瓊が、はなから石田三成ベッタリだった事もあって、広家の心の内は早いうちから東軍に味方するつもりでいましたが、事もあろうにその恵瓊に乗せられて輝元が西軍の総大将になっちゃったものだから、広家ビックリです。
合戦前から怪しい動きをする恵瓊を警戒した広家は、やはり同じく輝元の大坂城入城に反対姿勢をとる毛利家臣の益田元祥(もとよし)や熊谷元直らとともに、輝元の入城前から、家康の近侍の榊原康政(さかきばらやすまさ)宛てに「恵瓊と輝元とはかかわりはない」旨の手紙を送ったりなんかしてましたが、もはや、入城しちゃった以上、更なる対処が必要です。
そこで、家康の信頼も厚く、また豊臣恩顧で、しかも広家も親交している黒田長政に間に入ってもらい、家康に「輝元は三成側について徳川に敵対しようとしているわけではおませんねん」と、なんだかんだと書き綴った弁明の手紙を出します。
・・・で、その返答は・・・
「君の言うてる事はようくわかったで。輝元とは前から、兄弟のように仲良うしょーなって約束してたのに、おかしいなぁって思ててん・・・君の説明で理解したわ」
と、なかなか好感触。
そして、それに添えられていた長政の手紙には・・・
「家康さんも、アレは恵瓊が勝手にやってる事で、輝元の真意やなって事わかってはるみたいや。
こうなったら、輝元にも、よ~言うてきかして家康はんベッタリになる事や。
まぁ、そのダンドリはワシがやったるけど、勝敗が決まってからではどうもならんさかいに、開戦までにやる事やっとかんとアカンやろな。
くわしくは、この手紙を持っていった使者に言うとくさかいに、よぉ、話聞いたって」
・・・で、その使者がたずさえていた条件というのが、毛利の不戦・・・その日から、約1ヶ月間、徳川との裏工作に奔走する広家でしたが、そんな彼のところに、徳川方の起請文が届いたのは、なんと、関ヶ原の前日=慶長五年(1600年)9月14日でした。
そこには、合戦に参加しなければ、戦後の毛利の処遇は、すべて従来通りで、領国も安堵する事が書かれていたのです。
しかし、広家は、一抹の不安を覚えます。
なぜなら、その起請文の署名は、本多忠勝と井伊直政の連署・・・家康の名前がありません。
できれば、家康の名の入ったお墨付きが欲しかった・・・とは言え、徳川の重臣ふたりの、それも血判の入った起請文に納得した広家は、翌日の関ヶ原当日、ご存知のように、布陣した南宮山からビクとも動かず、合戦には不参加の姿勢をとりました(9月15日参照>>)。
この時、広家の後方に陣取り、大坂城に留まった輝元の名代として毛利軍を率いていたのは、輝元の従兄弟で養子の毛利秀元(11月7日参照>>)・・・どうやら、彼には、徳川との密約は知らされていなかったようです。
大将とは言え、秀元は、未だ22歳・・・合戦の主導権は、12歳年上の広家が握っていたらしく、密約の相談には一切関わっていなかったのだとか・・・。
また、大坂城の輝元にも知らされていなかったようです。
さすがに、こんな重要事項なのだから輝元に言わないわけはないだろうという見かたもありますが、上記の通り、正式な起請文を受け取ったのが、合戦の前日なのだとしたら、それを知らせる余裕がなかった可能性が高く、この時、密約を承知していたのは、広家と老臣の福原広俊だけだったとされています。
かくして、関ヶ原での西軍は総崩れとなり、夕方にはやむなく撤退する毛利軍・・・広家と広俊は、その日のうちに家康のもとへ戦勝を祝う使者を送り、秀元には、服従の証として人質を差し出すように勧めますが、秀元は納得せず、大坂城へと向かい、輝元に、「ここ大坂城にて家康と再度戦おう」と持ちかけます。
しかし、輝元は、もう、戦う気はゼロ・・・頭を丸めて家康に服従する意志を固めていたのです。
実は、合戦のわずか2日後の17日付けで、輝元には、長政からの「吉川君から、不戦を条件に毛利の安泰をお願いすると言われてた事は、家康さんも充分ご存知やから、今回の輝元には何の処分もないさかいに、今後は、忠節に励んでね」という手紙が届いていたのです。
輝元も大いに喜んで、即刻「ありがとう、手紙見て安心したわ」と返事を送り、22日には「大坂城の西の丸、明け渡しまっせ」の誓紙も送っていたのです。
これには相手の長政も、輝元宛てに「毛利の安全を保証する」内容の正式な起請文を25日付けで届けています。
しかし、「安心した」と書いて送った輝元も、心の底では、未だ安心してはいませんでした。
そう、「安全を保証する」と言ってるのは長政であって、徳川の誰でもないのですから・・・。
長政の起請文と同じ25日・・・輝元は西の丸の明け渡しの起請文を書くのと同時に、広家に、井伊直政からの直接の安全保障を取り付けるよう努力するように言い渡しています。
しかし、広家が、そんな努力をする時間はありませんでした。
家康は、輝元の西の丸明け渡しの起請文を見るなり、即座に明け渡しを要求・・・2日後の27日には、輝元が去った西の丸に入ってしまいました。
そして、10月に入ってまもなく、広家は、長政からのとんでもない書状を受け取る事になります。
そこには・・・
- 輝元は三成に味方して西の丸に入って采配を振ってた事が、後々になってわかってきた・・・困るなぁ、毛利の領地は没収されるやろなぁ。
- 君の働きは、皆、よう知ってるで、中国地方のうち、1ヶ所か2ヶ所を君に与えるべく井伊さんが家康さんに働きかけてるさかい安心しぃ。
- せやよって、井伊さんから呼ばれたら3~4人の供を連れて会いに行きや、武装なんかしたらあかんで~
「え゙ぇ゙~(〃゚д゚;A A゚Å゚;)ゝ ゚+:.」
そうです。
輝元が大坂城の西の丸にいて、一応、西軍の味方として動いていた事は、アチラさんも百も承知のはず・・・それを、知らなかった事にして・・・新たに発覚した事にして、以前からの約束をなかった事にしようとしているのです。
さすがに、広家も呆然・・・しかし、落ち込んでる暇はありません。
広家は、長政に・・・福島正則に・・・何とか、毛利の家名を残してくれるよう涙涙の手紙を書き綴ります。
もう、こうなったら、情に訴えるしかありません。
「意外な処置に混乱してます。
僕への事はうれしいですけど、何とか毛利の家名を残してくださるようお願いします。
自分だけ領地をもろて、収まるわけがありません。
輝元は、今後も、家康さんに刃向かう事なく、忠節を尽くします。
いや、もし、万が一の時は、僕が輝元の首を取って差し出しますさかいに・・・」
長政も正則も、もとは豊臣恩顧・・・さすがに、この涙の手紙は心を動かしたようで、10月10日、毛利に対して誓紙が送られます。
そこには、周防・長門の2国を安堵する事、輝元・父子の身の安全を保証する事が書かれてありました。
敗戦の翌日から、輝元&広家が待ちに待っていた、正真正銘の家康の名の入った誓紙でした。
こうして、112万石から36万9千石・・・3分の一以下という、とんでもない減封となってしまいましたが、何とか家名だけは存続した毛利家でした。
・‥…━━━☆
それにしても、今回の天地人・・・ホント、先が読めません。
上杉家が主役ですから、さすがに毛利の戦後処置はナレーションで仕方ないとしても、まさか、長谷堂の撤退がほぼナレーションでスルーされるとは思ってもみませんでした。
そりゃ、前田慶次郎が登場しないわけです・・・あんなに早くちゃ出る間ありません。
(ひょっとしたら、兼続の周辺にいた誰かが慶次郎という設定なのかも・・・)
個人的には、武将としての直江兼続の一番カッコイイところだと思うんですが、どうやら、今回の作り手の皆様は、合戦で武功を挙げる事が、カッコイイ事とは思っていらっしゃらないようです。
なんだか、45分間のうちのほとんどを三成の思い出話で終ったみたいな回でしたね。
まぁ、題名は三成の遺言なので、題名どおりですが・・・
しかも、豊臣恩顧でありながら東軍に降った福島正則と小早川秀秋が、エライ反省の弁をのべ、兼続は亡き三成に「お前の思いは受け継ぐ」みたいな事誓ってましたが・・・
歴史上では、この先、上杉は家康に服従し、あの大坂冬の陣の鴫野(しぎの)今福の合戦(11月26日参照>>)では先頭に立って大活躍し、その武功を褒めた家康に「あんなの子供のケンカみたいなもんでしたよ」と言ってみせた有名な逸話がありますが、これだけ「三成=正義」「豊臣=大事」を強調してしまって、そこんとこは、どのように処理するのでしょう?
これは、批判ではなく、逆に、見ものという意味です。
この先、どのように展開させるのか、とても楽しみにしています。
.
「 家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事
- 関ヶ原の戦い~福島正則の誓紙と上ヶ根の戦い(2024.08.20)
- 逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア(2023.11.25)
- 徳川家康の血脈を紀州と水戸につないだ側室・養珠院お万の方(2023.08.22)
- 徳川家康の寵愛を受けて松平忠輝を産んだ側室~茶阿局(2023.06.12)
- 加賀百万石の基礎を築いた前田家家老・村井長頼(2022.10.26)
「大河ドラマ・時代劇」カテゴリの記事
- 大河ドラマ「光る君へ」第1回~5回の感想(2024.02.05)
- 年始のごあいさつ~今年は『光る君へ』ですね!(2024.01.01)
- 大河ドラマ「どうする家康」最終回を見ての感想まとめ(2023.12.18)
- 大河ドラマ「どうする家康」の3~6回の感想(2023.02.13)
- 大河ドラマ「どうする家康」の1・2回の感想(2023.01.20)
コメント
おはようございます。
家康さんと黒田さん、亡き元就さんもびっくりの謀略振りですね~( ̄Д ̄;;
天地人はすっかり録画で見ることに決めてしまった我が家ですが、「今回は長谷堂城の撤退、絶対見せ場だよ」と家族に宣伝してしまいました。まさかのナレーションスルー、今から見て確認しますわ(;ω;)
茶々さんの仰るとおり、まさに見ものですね。最後には納得、出来るといいなあ...
投稿: おきよ | 2009年9月28日 (月) 10時45分
いやぁ…空弁当の代償がこれでは毛利家の人が末代まで東国に足を向けて寝たくなるのも分かりますねw
ところで黒田長政さん…西国の大名の寝返り工作に関ヶ原での奮戦にと必死に頑張った…頑張ったんです。
しかし父の如水に、家康との対面の時の話をして、
いやぁ…内府から泣きながら握手を求められて私は感激しましたよ(はぁと
とウキウキ気分で報告すると、
「なぜ反対の手で家康を刺さないのか!」とか怒鳴られたりするのが黒田長政。
そりゃないぜセニョール…(;∀;)
投稿: 維新入道 | 2009年9月28日 (月) 11時53分
おきよさん、こんにちは~
ホント、納得できるといいですね~
家康が会津征伐にやって来るとヤル気満々の上杉家・・・兼続はともかく、景勝まで、あんなにヤル気満々に描いてどうするんだろう?と思っていたら、まさかの「追撃は義に反する」の一言でおわっちゃいましたからね~
とても気になります~
投稿: 茶々 | 2009年9月28日 (月) 17時32分
維新入道さん、こんにちは~
>なぜ反対の手で・・・
そのエピソードは、九州の関ヶ原が一段落した頃に書かせていただくつもりだったんですが、先に出ちゃいましたね~(汗)
毛利の怨みは、幕末まで消える事なく、「リメンバー・セキガハラ」は、あの高杉晋作が四境戦争でスローガンに使いました・・・そんな事も含めて、また、いずれ書かせていただきますね。
投稿: 茶々 | 2009年9月28日 (月) 17時37分
今回も楽しく読ませて頂きました。毛利と徳川の密約は知りませんでした。目が点の心境です。やはり、家康は古狸ですね。関ヶ原の時には家康に対抗出来る武将はもう誰も居ないということですね。利家が亡くなった時点でに、天下は家康の方に傾いたんですね。関ヶ原は歴史の必然ですかね。
利家もそうですが、蒲生氏郷か豊臣秀長がもう少し生きていたら、面白かったですね。
それにしても、島津は凄いですね。確か西軍で領地が減らなかったのは島津だけですよね。
島津のしたたかさが出てますね。
何か、明治維新の時も長州と薩摩は同じような構図の気がします。
投稿: シンリュウ | 2009年9月28日 (月) 23時48分
シンリュウさん、こんばんは~
やっぱ、秀長の死は大きいですよね~
氏郷の死に関しては、個人的に思うところがあるので、また、そのご命日にでも書かせていただきますね。
島津は、やはり戦後の交渉のウマさでしょう。
それと、遠方だったラッキーも相まって、粘り勝ちといった感じでしょうか。
それもまた書かせていただくつもりです。
投稿: 茶々 | 2009年9月29日 (火) 02時06分
来年の「江 姫たちの戦国」では正反対の解釈で「関が原」を扱うと思います。東軍の武将の戦いの前の決起について取り上げてほしいです。東軍のある人物がこの戦いでカギになっているんですが、去年の番組は触れていませんでした。
実は私は、あと3年か4年たったら大河ドラマを見るのを、止めようかどうしようか悩んでいるんですよ。2013年が50周年ですが、その前後(12年と14年)の主人公とと時代と内容によっては検討するかも。
投稿: えびすこ | 2010年5月31日 (月) 11時01分
えびすこさん、こんばんは~
関ヶ原はメンバーが多いですからね。
誰にスポットを当てるかで、様々なおもしろいドラマができそうです。
>実は私は、あと3年か4年たったら・・・
今日一日の事にアタフタ・・・先の事には頭が回らないでいる私です( ̄○ ̄;)!
投稿: 茶々 | 2010年5月31日 (月) 19時40分