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2009年9月17日 (木)

12年なのに「前九年の役」&5年なのに「後三年の役」?

 

康平五年(1062年)9月17日・・・この日の安倍貞任(さだとう)の死によって、東北の雄・安倍一族が滅亡し、12年続いた『前九年の役』が終了した事は一昨年の9月17日に書かせていただきました(2007年9月17日参照>>)

・・・とは言え、12年間に渡った戦いを、わずか1ページに集約できるわけもなく、まだまだ、書き足りない事山のごとしなんですが、本日は、とりあえず、以前から気になっていた事を書かせていただきます。

それは、この『前九年の役』と、この20年後に起こる『後三年の役』・・・後三の役については11月14日参照>>

先に書きましたように、『前九年の役』は12年『後三年の役』は5年間に渡る戦いなのに、なんで「前九年」と「後三年」なのか?

そもそも、その後につく「役(えき)」って何?・・・いや、役=戦役で、結局は戦争・合戦を意味してるのはわかってますが、なんで、この二つの戦いだけ「役」って呼ぶのか?

どうでもいい事ではありますが、気になった事は解決しておくに越した事はないので、チョイと調べてみました。

・‥…━━━☆

・・・で、合戦の事を「役」という言い方・・・これは、そもそも、明治維新となって、江戸時代の武士とは違う西洋式の軍隊が発足する中で、陸軍参謀本部が、今後の作戦を考えるにあたって、これまで国内で行われた戦史をまとめる時に、それらの戦いの名称を「関ヶ原の役」「桶狭間の役」「大坂の役」といった具合に、「役」という呼び方で統一したのだそうです。

Hasimotohoudaiba2cc そう言えば、以前、訪れた橋本砲台場跡の石碑にも「戊辰役」と書かれてましたし、戦争経験者のお年寄りなんかは、今も「関ヶ原の役」っておっしゃいますよね。

つまり、これは昔の言い方・・・

ちなみに、旧日本軍は、日露戦争の事も「明治三十八年戦役」と表記するのだそうです。

・・・で、その影響で、明治の頃の大学の国史(日本史)の教科書用として発行された『稿本国史眼(こうほんこくしがん)が、「前九年の役」「後三年の役」と表記した事で、それが基準となって、その後、小学生用の国史教科書なども、「役」と表記するようになったのだとか・・・。

しかし、この当時は、上記のように、すべての戦いが「役」だったので、なんとなく納得できますが、現在では「関ヶ原の合戦」あるいは「関ヶ原の戦い」などと呼び、他の合戦も皆、その呼び方なのに、なぜ、「前九年の役」と「後三年の役」だけが、そのままなのか?

それは、この二つの戦いには、他の合戦とは違う特徴があったからだと考えられています。

まずは、上記の通り、長期に渡って戦闘状態が続いた事、さらに、範囲が広大であった事、そして、何より、誰と誰がという個人の武将同志の戦いではなく、朝廷が介入し、朝廷対○○という戦いになった事で、多くの兵が全国から動員され、より、大きな戦争、大きな軍役をイメージさせる「役」という言葉が、この戦いにだけ残ったのであろう・・・という事らしいです。

確かに、あれだけ戦乱が続いた戦国時代でも、「前九年の役」「後三年の役」のような戦いはなかったかも知れません。

あの石山合戦が11年・・・加賀の一向一揆に至っては、100年間戦い続けますが、いずれも相手は朝廷ではありませんし、加賀の一向一揆は、富樫を倒して始まり、上杉&朝倉との小競り合いを繰り返し、最終的に織田信長が引導を渡すという風に、次々と相手が変わってますからね。

・‥…━━━☆

そして、もう一つの疑問・・・12年間なのに「九年」、5年間なのに「三年」・・・

これは、もともと、「前九年の役」は、その年数から「十二年合戦」という名前で呼ばれていたのですが、鎌倉時代の中期頃から、その後に起こる「後三年の役」とごっちゃになってしまい、いつしか、両方の戦いを含めた全体の戦いの事を「十二年合戦」と呼ぶようになってしまっていたのです。

そこで、先の安倍氏滅亡の戦いと、後の奥州藤原氏が誕生する戦いを区別するために、12年から3年を引いて、先の安倍氏滅亡の戦いを「前九年の合戦」と呼ぶようになったのです。

では、なぜ、3年引くのか?

それは、現在は、「後三年の役」が、源義家陸奥守兼鎮守府将軍として陸奥(青森県)に赴任した永保三年(1083年)から清原家衡(いえひら)を倒した寛治元年(1087年)の5年間と考えられていますが、その名前がつけられた当時は、義家が清原氏の内紛に積極的に参入した応徳三年(1086年)から、戦いを終えて京の都に凱旋する寛治二年(1088年)までが、それであると考えられていたため、3年・・・つまり「後三年」となり、先のように12年から3年を引いちゃったというわけです。

最初に間違えて、ひっくるめて12年にしてしまった事と、3年をそのひっくるめたままの年数から引いちゃった二重の間違いから、12年なのに「前九年」、5年なのに「後三年」と名付けられ、そのままの名称で呼ばれ続けているわけです。

よく、「歴史は変わる」「歴史は日々新しくなる」と言われますが、実際には過去にすでに起こっている出来事が変わるはずはないわけで、それは、何か新しい発見があるか、認識の違い、考え方の変化によって新しい考えか生まれ、それが定説となるわけですが、たとえ、考え方が変わっても、名称は最初についた呼び名だっていうのを、改めて認識させられました。

まぁ、覚える側としては、ころころ名称が変化しても、ややこしいので、そのままでもいいんですけどね。
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平安時代」カテゴリの記事

コメント

こんにちわ~

名前やらなんやら変わりますよね、歴史は。そこがめんどくさいとこです。新しい発見があっても、縄文時代の区分のようにくっつけ方式で済めば混乱しませんが…前期の前に早期・更に草早期、後期の後に晩期…奇妙ですけど合理的。
ただ土器や建物は、教わった時期により「式」が付いたり付かなかったりで紛らわしい。どっちでもええやん、そんな細いの!と思いました。雑な生活なんで、何でも通じればいいじゃん、と思うほうなので。よく細い友人に怒られます(笑)
あと、ふと思いだしたのですが、既に1作目から30年が経過してるガンダム、あれも長い歴史があるせいか名称が変わります。主に後付けで。
「○○戦争」だったのがいつの間にか「○○戦役」や「○○抗争」になっていたり、なぜかコロコロ変わります。しかしこのコラムの話みたいに、もしかして後で規模や性格で基準を変えているのかもしれませんね。
更に戦争の名称もですが、出て来るロボ(モビルスーツ)の名前や設定までいつの間にか変えてるんですよね、後付で。オリジナルビデオでサイドストーリーをボコボコ出してるせいもありますが、一番はスポンサーのバンダイがプラモを売る為に勝手に?話を付け足しているため…。後から後から出て来ます。
なので、ガンダムフリークの私ですら知らない話や設定がわんさかあります。
さすがにええ加減にせい!と思います。
バンダイはガンダムでもって居るような会社なので、まあむべなるかなとは思いますが。ガンダム事業部の制服が、ガンダムに出てくる地球連邦軍の制服らしいというくらいの会社です…(笑)

投稿: おみ | 2009年9月17日 (木) 08時44分

おみさん、こんにちは~

ウルトラマンの故郷も、いつのまにやら、「光の国」から「ウルトラの星」に変わっていました。

でも、変わらないものもあります。
幅が広い=Wide(ワイド)をWhite(ホワイト)と聞き間違えたために、和名が「白サイ」となってしまった白サイは、白くなくてもずっと白サイ・・・なので、12年で「前九年の役」もアリなんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2009年9月17日 (木) 10時42分

『前九年の役』・『後三年の役』の前と後は、前半後半の意味だったんですね。
名前に歴史ありといったところでしょうか。(ちがうかw)

変わるものといえば、
最近、『シロクマ』を『ホッキョクグマ』と言うようになったのは、ナゼなんでしょうね。
和名なのはわかるのですが、『シロクマ』に馴染んでいるので、少々混乱します。

投稿: ことかね | 2009年9月17日 (木) 13時18分

ことかねさん、こんにちは~

私も、シロクマのほうの名前に馴染みがあります。

なぜなんでしょうね?

シロクマだと、アイスと間違ったりエアコンと間違ったりするからでしょうか?(違うか~ww)

投稿: 茶々 | 2009年9月17日 (木) 17時09分

昔、「炎立つ」でやっていましたね。当時小学生であまり記憶していませんが、確か「3部構成」でしたね。
余談ですが、NHK大河で「殿様」(戦国時代なら「国主」、「国主」は独立した大名で「城主」の上になる。江戸時代で言う「藩主」)が、主人公と言うのは山内一豊(+千代さん)が最後です。直江兼続は「一国一城の殿様」ですが、「国主」ではありません。自分が独立した大名=主君ではない(上杉家の家老)ので。
最近、「最高権力者どころか、組織のトップが主人公にならない」と言う、批判的な指摘をどう思いますか?この所は、「トップの妻」の女性がよく主人公になるので、不公平はないと思います。むしろ01年以降に、短命の主人公が多い事にやや疑問を感じる私。
昔、北政所も主人公になっているんですから。

投稿: えびすこ | 2009年9月17日 (木) 17時43分

えびすこさん、こんばんは~

私は、単純なので、大河の主人公は、別にどんな人がなってもかまわないと思ってます。

なんなら、加賀の一向一揆や山城の国一揆を扱って一般市民を主人公にしてほしいくらいですが、それだと一生分の記録が残っていないため、「大河」という部分で成立しないのでしょうね。

主人公に国主が多いのは、その生涯のが比較的知りやすいからなのでしょう。

一昨年の山本勘助も前半生が謎なので、大人になってから始まりましたが、前半生が謎の場合は、それで何とか描けますが、最期が謎の人は描きようないですもんね。

投稿: 茶々 | 2009年9月17日 (木) 18時19分

こんばんはー

今日は前九年ですね!
奥州藤原氏は超メジャーですが、その祖である経清は認知度はイマイチでしょうか?
また、前九年・後三年は源氏が奥州に地盤を築いた戦いとしても有名ですね!

奥州藤原氏と源氏の因縁はここから始まったんですねえ。
また詳しい話を書かれる日がくる事を楽しみに待ってます(^o^)

投稿: maabou | 2009年9月17日 (木) 20時46分

maabouさん、こんばんは~

そう言えば、源頼朝の奥州征伐は、この時の怨み・・・なんて話もあるようですもんね。

投稿: 茶々 | 2009年9月17日 (木) 23時38分

はじめまして
いつも楽しく読ませていただいています。

私は熊本(熊本城近く)に住んでいます。
西南戦争の戦地跡なんて石碑がたっていたりしますが、
西南戦争ではなく普通に西南の役です。

だから、役という言い方にはほとんど抵抗はなかったのですが、
今日言われてなるほどそうだったのかと改めて思いました。


投稿: miki | 2009年9月18日 (金) 17時46分

mikiさん、こんばんは~

熊本城・・・築城400年で盛り上がっているようで、行ってみたい~

そう言えば、なぜか石碑には「役」で書かれている事が多い気がしますね。

石碑が建てられた時代によるのか、戦史からみる正式名称は、今でも「役」なのか?

それにも興味津々ですね。

投稿: 茶々 | 2009年9月18日 (金) 19時06分

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