ハンディを克服して大友氏を支えた立花道雪
天正十三年(1585年)9月11日、大友宗麟に仕えた名将・立花道雪が、龍造寺氏配下の柳川城攻めの途中、高良山の陣中で病死しました。
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立花道雪(たちばなどうせつ)は、大友氏の一族・戸次(べっき)氏の13代目だった豊後(大分県)鎧ヶ嶽(よろいがだけ)城主・戸次親家(べっきちかいえ)の息子で、幼名は八幡丸と言いました。
ちなみに、立花道雪という名前・・・立花という姓は、大友氏から毛利氏へと寝返った立花鑑載(あきとし)を自刃に追い込み(5月3日参照>>)、立花城を落とした功績から、後に道雪が、立花城主となった時に、立花の名跡を継いで名乗ったもの。
道雪の名は、主君の大友宗麟(そうりん)が出家する時に、自らも、ともに出家して道雪と名乗ったもので、本名は戸次鑑連(べっきあきつら)と言います。
でも、ややこしいので、今日は立花道雪の名で通させていただきます。
・・・で、少年・道雪の初陣は、まだ元服も済ませていなかった14歳の頃・・・病気がちだった父に代わって、老臣・3名とともに2000の兵を率いて、周防(山口県)の名門・大内義隆を相手に、見事な勝利を収めました。
才気あふれる勇敢なわが子に大喜びし、戸次氏の将来を託して父は亡くなりますが、そんな前途洋洋&将来有望だった道雪に、まもなく人生の転機が訪れます。
『大友興廢記(おおともこうはいき)』によれば、ある時、道雪が、大木の下で昼寝しながら涼んでいると、突然!閃光が走ります。
慌てて、枕元にあった千鳥の太刀を抜き、その者を斬りますが、その直後から道雪の足は動かなくなり、以降、千鳥の太刀は『雷斬(らいきり)』と呼ばれた・・・とあります。
つまり、道雪が、雷の中にいた雷神を斬ったと・・・もちろん、これは、道雪の勇敢さをアピールする書き方で、実のところ、雷に打たれて半身不随になってしまったという事です。
この後、道雪は、出陣も乗り物=輿(こし)に乗ってするしかなくなりました。
しかし、彼はめげません・・・というより、むしろ、そのハンディこそが、彼をさらに強くしたようです。
自らの手足となってくれる配下の者を、誰よりも愛し、誰よりも信じ、誰よりもうまく使いこなす見事な指揮官となるのです。
『常山紀談(じょうざんきだん)』には、道雪の残した言葉として、こんな言葉があります。
「勇将の下に弱卒なし」=「兵に弱い者はおらん、もし、弱いと思われる者がおるんやったら、それは、その大将が悪いんや」と・・・
さらに続けて・・・
「俺の配下にも、そのさらに配下にも、弱いヤツはおらん!
もし、他んとこにおって、“俺って弱いんちゃうん?”と思てるヤツおったら、俺んとこへ来い!
みちがえるくらいに強したんでぇ」と・・・
合戦の前には、下っ端の者とも、気軽に話しかけ、酒を酌み交わし・・・
「合戦の時に挙げる武功には、運不運っちゅーのがある。
お前が、強いって事は、俺が一番よ~ぉ知ってるねんから、変に手柄たてようと思て、抜け駆けなんかして、討死するなよ。
それは、忠義とは言わへんで」
んも~、優秀な上司に、こんな事言われて、ついて行かない部下はいません。
道雪のまわりには、常に100人ばかりの長い刀を持った若者が徒歩で周囲を固めていました。
定衆(じょうしゅう)と呼ばれる彼らは、いざ、合戦が始まると、そのうちの幾人かが、道雪の乗る輿の担ぎ手となり、さらに、敵が迫ってくると、道雪が三尺(約1m)ほどの棒にて、輿を叩いて拍子を取りながら、大声で指示を出し、敵陣に突っ込ませたりもしました。
そうなんです・・・道雪は、輿だからと言って、後方の座って指示を出すだけではなく、自ら、戦いの中に乗り込んで行ったのです。
そんな戦いの最中、多人数で担ぐ輿ですから、当然、乱れる事がありますが、そんな時は、その持っている棒で、容赦なく担ぎ手をポカリ!
「オイオイ!輿を担がされて、敵の中に突っ込まされて、オマケに棒で打たれるなんて・・・やってられねぇよ!」・・・と、思いきや、これが、皆、「愛のムチ」と受け止めていたのだと・・・
つまり、それだけ、家臣の心をつかんでいた・・・「この人のためなら、何だってやってやる!」と思わせる事ができていたって事のようなのです。
そんな担ぎ手には・・・
「ホンマにヤバイと思た時は、俺を、敵の真っ只中に担ぎ入れて、お前らは逃げろ」とも言ってたそうですから、そりゃ、命預けます!って言いたくもなりますわな。
現に、輿には、いざという時のために、常に二尺七寸(約82cm)の刀と、鉄砲・一挺も置いてあったのだとか・・・。
さらに、こんな事もありました。
ある時、家臣の1人が、道雪の側女に手をつけてしまいます。
事が発覚した以上、もはや、その命はないものと覚悟を決めるその家臣・・・
ところが道雪は、
「若い者が色恋に走るのは当然やないかい!
そんな、しょーもない事で、主君と呼ばれる者が部下を殺したら、部下は主君を信用できんようになる・・・法を犯したわけやないねんから、ほっとけ、ほっとけ」
と、笑ってすましたのだそうです。
ちなみに、その話を直接の上司から伝え聞いたその家臣は、後に、島津との合戦の中で道雪が窮地にたった時、「今こそ、報いる時!」とばかりに、敵の中に突入して命果てたのだとか・・・
ほんまかいな?と疑いたくなるほど良い事づくめの道雪さんですが・・・まだ、あります。
今度は、部下ではなく、主君・宗麟に対してのお話・・・
道雪は、宗麟よりも14歳年上だったのですが、その宗麟が30歳で北九州6ヶ国の守護と日向(宮崎県)の一部と伊予(愛媛県)の一部を手に入れた、まさに絶頂期・・・ちょっと、レールを踏み外します。
いわゆる天狗になる・・・というヤツ。
昼間っから酒を飲み、女をはべらせ、重臣が面会を求めても、部屋から出て来ない・・・当然の事ながら、内政も家臣に任せっぱなしだし、注意しようにも、その部屋から出て来ないんじゃ、できやしない。
・・・で、一計を案じた道雪・・・京都から、飛びっきり美人ダンサーを集団で呼んで、朝から晩まで休みなく躍らせます。
あの女好きの宗麟が、都一の人気アイドル集団に食いつかないわけがありません。
「ちょっと、覗いたれ」と、部屋を出た瞬間・・・
「国のため、家臣のため、そして、自分自身のために・・・やめとくなはれ!」と一喝!
宗麟、シュ~ン(´・ω・`)
まぁ、宗麟がおとなしくなるのは、怒られた時だけで、また、ほとぼりが冷めると、なんやかんやとやり出すんですが、道雪は、そのたんびに、諭していたのだそうです。
やがて訪れた、あの耳川の合戦・・・
実は、道雪は、この合戦にも反対していたらしいのですが、この合戦は、すでに立花城主になった後の事・・・耳川の合戦は、南側、薩摩(鹿児島県)の島津との戦いで、道雪が任されていた立花城は、毛利と取ったり取られたりの北の守りの要・・・
て、事で、結局、宗麟は戦いに突き進み、道雪は、従軍しなかったわけですが、ご存知のように、宗麟は大敗してしまいます(11月11日、11月12日参照>>)。
大友氏のターニングポイントとも言えるこの合戦の後も見捨てる事なく、大友家一筋を貫いた道雪。
やがて、天正十二年(1584年)に起きた沖田畷の戦い(3月24日参照>>)で、龍造寺隆信が戦死した事をチャンスととらえ、
当時は龍造寺の物となっていた筑後(福岡県)の奪回を目指して出陣しますが、その途中で発病・・・天正十三年(1585年)9月11日、3ヶ月の闘病空しく、北野・高良山の陣中で70歳(73歳とも)の生涯を閉じました。
この後、大友氏が坂道を転げ落ちるように衰退していくのは、皆様、すでにご承知の通りです。
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コメント
毎日、楽しく拝見しております。私の活力になっていますので大変でしょうが頑張ってください。
今日は「道雪」ファンの私としては嬉しい記事です。良い上司には良い部下が・・・いや、良い上司だからこそ部下が成長し命を賭けて働くことができたのでしょう。まるで楽天イーグルスの名称 野村 克也監督みたいですね!明日の記事も期待しています!
投稿: DAI | 2009年9月11日 (金) 13時32分
「名将に名参謀あり」。最近は「戦国の参謀」が見直されていますね。ある意味で「女傑」と言われるまつさんや千代さん、今年のお船さんもそれに入るかも。
「NHK大河ドラマがあと10年続く」と言う前提で聞きます。「平成生まれ初の大河主役」は誰だと思いますか?
平成生まれの主役。ちなみに朝ドラで今期初めて登場しました。
昨日紹介した本は「戦国武女子」でした。今月出た様です。
投稿: えびすこ | 2009年9月11日 (金) 16時01分
DAIさん、こんばんは~
こちらこそ、活力になるようなコメントありがとうございますo(_ _)o
元気が出ました!
投稿: 茶々 | 2009年9月11日 (金) 22時30分
えびすこさん、こんばんは~
>「平成生まれ初の大河主役」・・・
誰でしょうね~
平成生まれと聞けば、今のところ、私は「Hey! Say! JUMP」しか思いつかないので、予想不可能ですね~
スイマセンm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2009年9月11日 (金) 22時35分
こんばんはー
でました!道雪さん!!
立花道雪・宗茂ファンにとっては堪りません!
この二人がもっと一般にも知られてほしいと思うのは私だけでしょうか?
特に宗茂の一生は大河ドラマ向けだと思うのですが・・・
何せ、関ヶ原で改易されて旧領を復活させたのは宗茂だけですから!
おっと、今日は道雪さんで宗茂じゃなかったですね。
失礼しました^^
投稿: maabou | 2009年9月11日 (金) 23時07分
maabouさん、こんばんは~
確かに、宗茂さんもいいですね~
宗茂さんについては、柳川城開城の11月3日の昨年の記事にて、褒めまくっているので、また、よかったら読んでみてください。
投稿: 茶々 | 2009年9月12日 (土) 01時53分
茶々さんお久しぶりです。維新でございます(キラッ)小学生の頃に遠足で初めて登った山が立花山の私にとっては立花道雪さんは親しみを感じる戦国武将の一人です。現在立花城は石垣の跡しか残っていないみたいですが、道雪、統虎、名将二人の居城跡だと思うとまた感慨も一塩です。また立花山に登って市内の景色を一望しながら今度は当時の二人の気持ちと想いを重ね合わせてみたいと考えております。
投稿: 維新入道 | 2009年9月14日 (月) 04時31分
維新入道さん、こんばんは~
>小学生の頃に遠足で初めて登った・・・
そうですか・・・そんなに近くに・・・
石垣のみのお城は、「全盛の頃の姿を見てみたい」と思う気持ちもありながらも、それはそれで赴きがあり、様々な想像を掻き立てられる良いものですね~。
投稿: 茶々 | 2009年9月14日 (月) 18時12分