関ヶ原の前にやったるで!直江兼続・最上に侵攻
慶長五年(1600年)9月9日、上杉景勝配下の直江兼続が、最上領へと侵攻すべく、居城・米沢城を出陣しました。
・・・・・・・・・・・
会津の上杉景勝(かげかつ)の上洛拒否(4月1日参照>>)と、上杉家の執政・直江兼続(かねつぐ)のケンカ売りまくり手紙=直江状(4月14日参照>>)に、会津征伐を決意し、伏見城を出陣した徳川家康・・・
迎え撃つ上杉も、前線となる白河(福島県)付近に土塁や掘を構築し、領内32ヶ所の支城に城代を配置して臨戦態勢のヤル気満々・・・さらに、兼続は弟・大国実頼(おおくにさねより)を通じて、家臣を越後に派遣し、領民による一揆を扇動させて、現・領主の掘秀治(ひではる)を牽制します(7月22日参照>>)。
しかし、その間に留守になった伏見城を石田三成が攻撃(7月19日参照>>)した事から、家康は会津征伐を中止し、急遽、上方へと転進します(7月25日参照>>)。
・・・と、これで、いよいよ関ヶ原の幕開けとなるわけですが、おそらく、来週の「天地人」では、このあたりをやるのではないかと思われます。
・・・で、本来なら、西へと戻る家康を追撃すべきところなのですが・・・というより、兼続は追撃するつもりだったわけですが、肝心の景勝が「謙信公は敵の背後を襲う事はしなかった」とか何とか言って、かたくなに追撃を許さず、すでにほとんどの事をやりたい放題にやってた兼続も、さすがに、これだけはっきりした主君の命令には逆らえず、泣く泣く諦めます。
・・・で、その代わりと言っちゃぁなんですが、かねてより欲しくてたまらなかった隣国・最上領への侵攻を考えます。
・・・と言うのも、家康は会津征伐に先駆けて、東北の武将たちに協力を要請・・・すでに書かせていただいたように、あの伊達政宗もヤル気満々で、もう、すでに出陣しちゃってました(7月25日参照>>)。
ところが、その家康の転進で、状況が一変したわけです。
会津征伐のために、最上義光(よしあき)の居城・山形城に集結していた南部利直・戸沢政盛・秋田実季(さねすえ)といった東北の大名たちは、会津征伐が中止になって、家康が西へと戻った事で、当然の事ながら、皆、それぞれの居城に帰ってしまいます。
あのハリキリボーイだった政宗も、家康の援護なしでの会津侵攻は不可能と考え、奪ったばかりの白石城を撤退し、停戦を申し入れます。
もちろん、上杉側は、最上への攻撃に集中するためにも、「喜んで!」と、すんなりと和睦が決定・・・なので、義光は、単独で120万石の会津相手に戦わなくてはならなくなったわけです。
8月18日・・・義光は、嫡子・義康(よしやす)を人質に差出し、ほとんど無条件降伏といえる条件での講和を持ちかけますが、兼続はこれを一蹴します。
「兼続ヒドイ・・・講和したれよ」
と、思ってしまいますが、実は、これも、本当に義光が降伏しようとしていたかどうかは微妙です・・・ひょっとしたら、上方の情勢が、どのように展開するか、見極めるための、義光の時間稼ぎだったかも知れません。
ここは、武将同士の駆け引き&腹の探りあい・・・で、結局、半月近くたっても人質を出す気配がない事で、9月3日、兼続は、諸将に最上攻めの準備を命じました。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
かくして慶長五年(1600年)9月9日、兼続は、2万4000余りの兵を率いて、居城・米沢城を出陣します。
同時に、与板衆の木村親盛(ちかもり)と中山城代の横田旨俊(むねとし)率いる別働隊が高島城を出陣・・・兼続の本隊は畑谷(はたや)城へ、別働隊は上山(かみのやま)城へと向かいます。
比較的守りが手薄の周囲の支城から落としていき、徐々に、義光のいる山形城への包囲を狭めていく作戦です。
一方、今は亡き豊臣秀吉の変な転封命令で、分断された形になっている現在の上杉領・・・あっちの庄内側からは、酒田城主・志駄義秀(しだよしひで)が最上川に沿って、尾浦(おうら)城主・下吉忠(しもよしただ)が六十里街道を越えて、それぞれ最上領へと攻め込みます。
9月13日・・・迫り来る上杉軍を前に、わずか350の兵の畑谷城・・・たまらず、義光は、城将の江口光清(あききよ)に撤退命令を出しますが、光清は聞き入れず、籠城作戦を決行します。
そこで、兼続が、城の南側に位置する片倉山を占拠して、一方の向かい側に鉄砲隊を配置し、両方からの同時攻撃を仕掛けると、さすがに、多勢の猛攻にはひとたまりもなく、光清以下、城兵はことごとく討死し、まもなく畑谷城は落城しました。
その後も、谷地(やち)城・寒河江(さがえ)城・白岩城などを次々と落とし、またたく間に最上領内の西半分の城を手に入れた上杉軍・・・いよいよ、西では関ヶ原の合戦が行われる事になる運命の9月15日、最上の支城の中では最も堅固な要害・長谷堂城へと迫るのです。
ただし、一方の上山城へと向かった別働隊2000余りは、城兵と伏兵の挟み撃ちに遭って苦戦し、16日には、親盛が討死し、旨俊が中山城へと逃げ帰ったため、こちらは惨敗となりました。
果たして、大河ドラマのように、兼続と三成の密約はあったのか?
いや、京都にいた時点での約束はなかったとしても、三成が毛利輝元に総大将を頼んでから関ヶ原まで、約2ヶ月あるのですから、充分連絡は取れますし、『続武者物語』には、兼続に宛てた6月20日付けの三成の書状が存在した事が書かれているし、『上杉軍記』にも密約をほのめかす文章が書かれている・・・(これが密約ありの根拠となってるわけですが・・・)
ただし、いずれも、まさか関ヶ原が、わずか半日で決着がつくとは想像できなかったわけで、兼続も、このまま長谷堂城の戦いへと突入していく事になります・・・続きは、長谷堂城への総攻撃が開始される9月16日へどうぞ>>。
追記:判官びいきのワタクシ・・・このページを書きながら、今日は兼続が主役のはずなのに、ちょっとだけ江口さんを応援してしまいました~兼続ファンのかた、スンマセンo(_ _)o
だって、2万に350はかわいそ過ぎる・・・(;д;)
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コメント
関ヶ原の戦いで真田兄弟は、敵・味方に分かれて対峙しています。実は「お家存続」の手段です。
この兄弟はきれいに性格が正反対の様です。
つまり、わかりやすく言えば。
「草食系男子」の兄・信幸(当時)
「肉食系男子」の弟・幸村
でも、信幸の「助命嘆願」で、幸村は打首にされなかったんです。これは忘れてはいけません。
「天地人」では信幸(でも、江戸時代は「信之」に改名しているので、弟とは気が合わなかった可能性あり?)はまだ登場していません。
ただ、天正期の「第1次上田城攻め」の時は、兄弟で徳川軍を向こうに回して奮闘しています。この戦いに青年時代の大久保彦左衛門が、「徳川軍小隊長」として参戦しています。
「三河物語」の後日談として、「我が軍の兵は情けない」と嘆いています。三河武士をも恐れる真田軍の大奮闘でした。
投稿: えびすこ | 2009年9月 9日 (水) 15時57分
えびすこさん、こんばんは~
そうですね、
「犬伏の別れ」については7月21日に、信幸さんについては7月25日・・・まぁ、このページは小松姫が主役なんですが
(*゚ー゚*)私なりの見解を書かせていただいています。
あと、神川の戦いについては、二年前の古い記事でお恥ずかしいですが・・・いずれも、左サイドバーの「真田幸村と大坂の陣の年表」か、「関ヶ原の合戦の年表」から行ってみてくださるとありがたいです。
投稿: 茶々 | 2009年9月 9日 (水) 18時55分
こんばんはー
今年の大河は評判も良さそうで、毎週楽しみにしています。
現代の「愛」を全面に押し立ててチョットどうかな?
と思う所もないわけでは無いですが、比較的無名だった兼続サンに
スポットを当てたのは良かったんじゃないでしょうか。
いよいよ関ヶ原みたいですが、今日のテーマである最上攻めを
どのように描いてくれるか今から楽しみにしています。
いつも長々と書いて申し訳ございません。
投稿: maabou | 2009年9月 9日 (水) 22時20分
maabouさん、こんばんは~
福島正則がブッ飛んで・・・
猿飛佐助が出てきて・・・
一時はどうなる事かと思いましたが、ここに来ておもしろくなってきました。
ホントに楽しみです。
投稿: 茶々 | 2009年9月 9日 (水) 22時58分
こんにちは。
毎日「今日は何の日かな?」と楽しみに伺っております。
最上義光ですが、確か「よしあき」と読むのだったと思います。
山形市の記念館でも「よしあき」となっていました。
投稿: komao | 2009年9月11日 (金) 15時50分
komaoさん、ありがとうございます~
ご指摘の通り「あき」です・・・
記念館どころか、このブログの他のページでも「あき」と自分で書いとりますです(*゚ー゚*)
お騒がせしました~うっかりミスでおます
投稿: 茶々 | 2009年9月11日 (金) 22時13分