岩見重太郎=薄田隼人~天橋立の仇討ち
天正十八年(1590年)9月20日、日本三景の一つ・天橋立で岩見重太郎の大仇討ちがありました。
・・・・・・・・・・
この日、天橋立(あまのはしだて)は、大変な見物客で賑わっていました。
丹後(京都府北部)宮津城主・中村一氏(かずうじ)が、恒例の軍馬調練を行うというのです・・・が、実は見物人は、それを見に来たのではありません。
諸国武者修行でその名を馳せた噂の剣豪・岩見重太郎(じゅうたろう)が、本日、ここで、父の仇討ちをするという事を聞き伝えて集まった人たちなのです。
重太郎の父・重左衛門(じゅうざえもん)は、あの毛利家傘下の小早川家の剣術指南役をめぐって広瀬軍蔵(ぐんぞう)という人物と試合をしますが、試合に負けた軍蔵が、そのはらいせに仲間二人とともに重左衛門を闇討ちにして逃亡していたのです。
その後、偶然、この地にいた時、もともと指南役を争うほどの腕前の持ち主だった重蔵の剣に惚れた城主・一氏が、彼を指南役として召抱えていたのでした。
一方、重太郎は、父・重左衛門、兄・重蔵、妹・辻の恨みを晴らすべく、諸国をめぐりながら、軍蔵と、その仲間である大川八右衛門(やえもん)、鳴尾大学(なるおだいがく)の3名を探し続け、ここ宮津で見つけたのです。
・・・とは言え、最初は、重太郎が小早川家から受けた仇討免状を提示して仇討ちを願い出ても、もはや、かわいい家臣となった軍蔵らをかばって、なかなかOKサインを出さなかった一氏・・・ここに来てやっと許しが出たのです。
家老の福原一平太が、重太郎を呼び寄せて言います。
「来る9月20日に、軍馬調練を天橋立で行うので、現地に来て念願の仇討ちをされるがよかろうと、主君からの許しが出た。
当日は、家中の若者にも、後学のために、その一戦を拝見させたいというのがその意向である。
ただし、軍蔵は、今や指南役・・・家中の者は、皆、彼の門弟という事になるので、師匠のピンチを黙って見ているかどうかまでは保証できない」
思いっきり、助太刀する気満々ですやん!
しかし、重太郎、ひるみません・・・いや、むしろ、決死の覚悟を固め、戦いに挑むのです。
かくして、天正十八年(1590年)9月20日・・・
竹垣を張りめぐらした内側の一番奥、一段高くなった中央に座るは城主・一氏・・・。
そのそばには、家老をはじめ近侍が約30名・・・さらに、両側に源平に見立てた赤備えと白備えの武将がズラリと旗指物も勇ましく並びます。
そう、この日の調練は、源平打ち込み大調練=武将が、それぞれ、源氏と平氏に分かれて合戦シュミレーションを行いながらの訓練・・・まさに、彼らは完全武装です。
そこへ、重太郎がやってくる・・・
「おのれ!狼藉者!」
「それ!曲者を討ってしまえ!」
「おいおい、後学のために拝見やなかったんかい!」
と、突っ込む間もなく、罵声を浴びせながら、重太郎に斬りかかる武者たち・・・。
重太郎は、槍を打ち振り、邪魔者をなぎ倒しながら、目指す相手を求めて、奥へ奥へと進みます。
しかし、なにぶん、敵は大勢、こちらは1人・・・次から次への新手の登場に、なかなか前へは進めません。
・・・と、そこへ、どこからともなく、六尺はあるかという鉄棒を手にした巨漢の男が、群がる武者の前に躍り出て・・・
「我こそは、伊予松山城主・加藤左馬頭嘉明(さまのかみよしあき)が家臣・塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき)なり!
義弟・岩見重太郎の仇討ち、卑怯にも多勢で返り討ちにせんとする計画を、遠く大坂にて聞きつけ、助勢のために馳せ散じた!」
そして、もう一人、新たな助太刀・・・
「我こそは、黒田甲斐守長政(かいのかみながまさ)が家臣・後藤又兵衛基次(またべえもとつぐ)である!
義兄弟の契りを結んだ岩見重太郎が敵討ちと聞いて助太刀に参った!」
名乗りもそこそこに暴れまわる剣豪3人に、中村配下の者たちは、もはやたじたじに・・・やがて、形勢不利と見た一氏は、そそくさと帰り支度をはじめます。
「こうなったら勝負するしかない・・・」
しかたなく、軍蔵ら3人は、太刀を抜いて構えます。
「おぉ、広瀬、大川、鳴尾・・・探したぞ!
本日、これほどの見物人の前で仇討ちできるも神の思し召し、いざ!尋常に勝負におよべ!」
使いきった槍を捨て、重太郎も太刀を抜きます。
団右衛門と又兵衛は、その脇にて、邪魔する者を蹴散らさんと立ちはだかりますが、もはや城主が帰り支度をしている段階で、軍蔵らを助けようという者もいません。
しかし、そんな軍蔵だって、腐っても(腐ってないが)剣術指南役・・・彼らも剣豪なのです。
疲れきった身体を、目指す敵が現れた事で、今一度奮い立たせる重太郎・・・。
斬りつけた軍蔵をヒラリとかわして振り下ろした刀は、見事、その肩をとらえ、左右から襲い掛かった八右衛門と大学を受け流しつつ舞い踊る・・・大学を左肩から袈裟がけにすると、逃げようとする八右衛門の背中へ一刺し・・・
重太郎がめでたく本望を成し遂げるさまを、竹垣の向こうから見守っていた数万人の見物人がはやしたて、たちまちにして、あたりは歓喜の渦に包まれる・・・
・‥…━━━☆
以上が、岩見重太郎の大仇討のお話ですが、お察しの通り、怪しさ満載。
実は、彼は講談・歌舞伎のヒーローで、一時代前はアムロや仮面ライダーにも負けないくらいの少年たち憧れの存在・・・このお話も超有名な物語でした。
それこそ、真田幸村、猿飛佐助、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)などど並び称される豪傑として人気があり、その諸国武者修行時代の「ヒヒ退治」のサブストーリー(2月20日参照>>)まで誕生しています。
そのおおもととなったのは、安政五年(1858年)に出版された一龍斎貞山(いちりゅうさいていざん)の『岩見重太郎実記』なる書物だそうですが、その後も歌舞伎やお芝居などで多くの作家が手掛けています。
講談では、この仇討ちの後、重太郎の伯父という人物が登場して、彼は、その縁から関ヶ原の合戦へと向かいますが、そこで、その伯父・薄田七左衛門(すすきだしちざえもん)の姓を名乗り、その名を、薄田隼人正兼相(すすきだはやとのしょうかねすけ)と改めて参戦するのです。
出た~!
大坂夏の陣のヒーロー・薄田隼人だぁぁぁぁヽ(´▽`)/
(薄田隼人については5月6日参照>>)
それで、助太刀が後藤又兵衛(5月6日参照>>)と塙団右衛門(12月16日参照>>)だったんですね・・・って、浸ってる場合ではないな・・・
あまりのヒーロー揃いぶみに、ウルトラ6兄弟のようになってしまっているあたりは、さすがに講談の世界なんだろうなぁという感じです。
そのため、宮津の城主も中村大輔だったり一色小輔だったりと、作家によってまちまちですし、重太郎が相手にした人数も、300人から、果ては3000人と、あり得ない数にまで膨らみます。
肝心の仇討ちの日づけさえ、今回の9月説あり、10月説あり、中には寛永九年(1632年)9月20日とするものもあって、「そんなん、もう薄田さん死んでますやん!」てな事にも・・・。
また、以前、書かせていたように、薄田隼人自身がすでに伝説に彩られた謎の人なので、大坂夏の陣で戦死した時の年齢さえ定かではありませんが、彼の武技だった「兼相流」の秘儀を伝える『武家諸派辞典』なる書物によれば、没年齢が23歳となっているので、こちらはこちらで、仇討ちのあった天正十八年(1590年)には生まれていない事になってしまいます。
とは、言うものの、現在の天橋立には、岩見重太郎の試し斬りの石や仇討ち跡という史跡も残されていて、まったくの作り話ではないようです。
その人物が岩見重太郎と名乗っていかどうか、そして、その人物が薄田隼人なのかどうかは別にして、おそらくは、ここ天橋立で、仇討ち事件のような事があった事はあったのでしょう。
そして、いつしか、そこに、剣豪と呼ばれるヒーローたちを結びつける事によって、よりストーリーが盛り上がる・・・
ただ、「伝説だ」「作り話だ」と言って、これをあなどってはいけません。
これらは、その内容が事実かどうかよりも、伝説や作り話が生まれ、それらが人々に受け入れられ、そして長く言い伝えられる事に意味があるのです。
平将門の怨霊しかり(2月14日参照>>)、
豊臣秀頼&真田幸村の生存説しかり(5月8日参照>>)・・・
そこには、現在の政権にあらがいながら敵となって散っていったヒーローへの、庶民のささやかな希望が込められているのです。
はてさて、この令和の世の岩見重太郎=薄田隼人は、いずこにおわします事やら・・・。
.
「 戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事
- 関ヶ原の戦い~福島正則の誓紙と上ヶ根の戦い(2024.08.20)
- 伊達政宗の大崎攻め~窪田の激戦IN郡山合戦(2024.07.04)
- 関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦(2024.06.26)
- 本能寺の変の後に…「信長様は生きている」~味方に出した秀吉のウソ手紙(2024.06.05)
- 本能寺の余波~佐々成政の賤ヶ岳…弓庄城の攻防(2024.04.03)
コメント