築城の匠~家康専属大工・中井正清
慶長十九年(1614年)9月21日、大工頭・中井正清が、徳川家康に、宇治川開削計画を上申しました。
・・・て事で、本日はブログ初登場の中井正清さんをご紹介させていただきます。
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このブログに興味を持って、覗きに来てくださるかたなら、おそらくは奈良の法隆寺に行かれたかたも多いと思います。
大仏さんと並んで、奈良観光の定番ですからね。
ただ、その場合、大抵は、南大門から入って、金堂や五重塔がある西院を見て、次に夢殿のある東院へ・・・という感じで拝観される事が多いでしょうね。
すべての拝観が終っても、あとは、再び南大門から出てJR法隆寺駅へ向かうか、あるいは、西院と東院の間の道を北へ行き、法輪寺や法起寺へ・・・というパターンだと思います。
地元の人か、あるいは、よほど藤ノ木古墳に興味のあるかたくらいしか、西大門からはお出になりませんが、実は、この法隆寺の西大門を出てすぐの所から、しっくいで塗り固められた低い築地塀が続く趣のある町並みが現れます。
落ち着きのある独特の雰囲気は、まるでタイムスリップしたように、なにやら、ゆっくりと時間が流れている空間のようにも思えます。
ここは、西里(にしさと)と呼ばれる地区で、その昔、法隆寺を建て、そして、その美しさを維持していく大工集団が先祖代々に渡って本拠地とした場所だったのです。
中井正清(まさきよ)は、永禄八年(1565年)、この西里で生まれます。
父・正吉(まさよし)は、法隆寺の修理・新築工事を一手に引き受ける大工でした。
正吉が活躍した頃は、ちょうど戦国後半に突入した頃・・・織田信長の後を引き継いだ豊臣秀吉が天下を取り、それまでの争乱で荒廃しきった社寺の修復・再建が急ピッチで行われ始めた頃で、京都や奈良、堺の大工職人たちが大活躍していたのです。
そんな彼らの指導者的な役割を果たしていたのが、中井家でした。
この頃の中井家は豊臣家の大工頭であり、大坂城や京都・方広寺の大仏殿の建設も手掛けていましたから、むしろ豊臣専属・・・他の大名が、中井家に仕事を頼む事など不可能な状況だったのです。
しかし、やがて、訪れた政権交代・・・秀吉亡き後、その実権を握り始めた徳川家康は、若き後継者・正清を召抱えます。
徳川の威信を天皇に見せたい二条城の建設(5月1日参照>>)、征夷大将軍の宣旨を受ける晴れの舞台となった伏見城のリフォーム・・・正清は次々と大事業を手掛けていきます。
正清の腕前とともに、天下人のお抱え大工頭を配下に収めた事を、家康は大いに喜んでいたようで、それまでの徳川家の大工たちも存続させてはいるものの、序列としては中井家をトップに据えています。
正清も、期待に答えるように、その腕をふるいます。
慶長十年(1606年)の法隆寺の大修理の際は、その棟札(むなふだ・建築の記念として建物内部に取り付ける札)には、「番匠大工一朝惣棟梁橘朝臣(たちばなあそん)中井正清」と記して掲げました。
もはや、揺るぎない日本一の大工です。
あの大坂夏の陣では、城攻め用の大はしごなどの道具も製作・・・しかし、この事が怒りをかったのか、そのすぐ後に、正清の生家が豊臣配下の者に焼かれ、その時に、西里の多くの家屋も焼けてしまったと言われています。
ちなみに、正清自身が、それをきっかけに京都へと移り住んだ事で、西里に残った大工も、移転するか転職するかとなり、現在の西里は大工さんの町ではありません。
さらに、家康は、建築だけでなく、土木工事のいっさいも、すべて正清を通すようにと家臣たちに命令し、全信頼をおく事となります。
慶長十九年(1614年)9月21日、宇治川開削計画を上申・・・まさにこの頃ですね。
やがて、家康が亡くなってから最初に埋葬された久能山の社殿も、さらに翌年に改葬された(4月10日参照>>)あの日光東照宮も正清が手掛けたのです(現在の建物は後世のものです)。
ただ、その家康の後を追うように、3年後の元和五年(1619年)、正清もこの世を去ります。
中井家は、息子・正侶(まさとも)に引き継がれ、さらに、その息子・孫へと受け継がれていき、その後も、京都御所や下鴨神社、上賀茂神社などの大修理を代々に渡って手掛けていく事になります。
思えば、豊臣時代の大坂城を手掛けたのは父・正吉・・・大坂夏の陣で、その城を攻める道具を作ったのは息子・正清・・・。
その時の正清には、父が手塩にかけた豪華絢爛な城が、自らの加勢によって燃えゆく事への迷いはなかったのでしょうか?
正吉の父・正範(まさのり)は、三輪神社(大神神社)の神官をつとめた巨勢(こせ)一族の人で、合戦に赴き戦死し、幼かった正吉は、母方の縁者である中井家にひきとられたと言います。
その息子である正清も、おそらくは、自らの作品に命をかける職人であると同時に、戦国のサムライでもあったのでしょう。
城は戦うために建てるもの・・・戦いに殉じる事こそ、本望なのだと・・・
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コメント
こんにちわ!
日本の大工さんには頭が下がります。東大寺の南大門で発見された墨壺の話から宮大工の心意気が伝わりますよね。東大寺の瓦、以前 京都の老舗瓦店が修復するのにCTやらコンピュータやらを駆使して失敗を繰り返しなんとか修復した特集をやっていました。法隆寺の5重の塔なんかは現在の技術を持ってでも作るのは難しいそうです。塔の耐震技術も最高レベルにあるとNHKの特集番組でやっていました。先年、日本では耐震偽装問題が発覚たり、不良住宅問題などが多発したようですが一言 言いたい。「自分の仕事に命ば 賭けんとイカンっちゃないと!」(福岡出身なので今日は博多弁で)
投稿: DAI | 2009年9月21日 (月) 13時54分
DAIさん、こんにちは~
ホントですね~。
大工さん、スゴイです。
大阪城の大手門にも、木が腐ったためか、接木をしてありますが、その手法も見事です。
建築士さんには、商売人ではなく職人でいていただきたいですね。
投稿: 茶々 | 2009年9月21日 (月) 16時34分
おはようございます。
連休どうお過ごしですか?
城を作る時に手抜きなんかしたら、大変ですからね。安土城築城の「火天の城」が上映されていますね。築城はまず大きな柱を立てるそうです。
ただ長年の地盤の変化で城が傾く、と言う事もあります。そのため歴代城主が、耐震補強の「てこ入れ」した城もあります。慶長時代は大きな城の築城ブームでした。
火事で天守が全焼と言う事も珍しくない時代。
居城の維持は苦労したそうです。
戦国時代は最多で3000もの城(中には城と言っても、「トーチカ」的な要塞で短期間でできる)がありましたが、江戸時代には300に整理されました。
投稿: えびすこ | 2009年9月22日 (火) 08時53分
えびすこさん、こんにちは~
ここ何年かで築城400年を迎える城が多いのは、その慶長の築城ブームによるものですが、以前、ブログにも書かせていただいた通り、信長が初めて行った「城割」が秀吉に引き継がれ、家康の「一国一城制」で完成形となる・・・天下人の3人だけが成しえたこの「城割」は歴史上とても重要だと思います。
慶長の築城ブームは、そのハザマで起こった関ヶ原という政権交代の発端から、江戸開幕という徳川政権確立までの、ほんの少しの間の一時的な戦国逆戻り状態の「置きみやげ」と言った感じでしょうか。
歴史好きとしては、破却せずに、いっぱい残しておいていただきたかったですが・・・
投稿: 茶々 | 2009年9月22日 (火) 14時24分
こんにちわ
我が家の記録から中井正清に関する記録を抜き出しましたので、お知らせします。
父は「大和の国、万歳孫兵衛正義で三輪大明神の社頭職から、巨勢氏の養子となったが、兄万歳治部少輔友喜の命により、松永久秀のために戦死する、その妻は幼い男子を抱いて法隆寺に落ち行きて、多門兵助清次を頼る。兵助が妻病死の後に後妻となり、兵助の先腹の娘と巨勢の男子を夫婦となし、清次の家を継ぎ、苗字を改め、中井兵大夫橘正清を号し、その後、従四位上大和守となる」とあります。
最近リタイアして時間もあることから、我が家の古いことを調べていて気づいた次第です
投稿: | 2011年4月23日 (土) 15時21分
情報ありがとうございますo(_ _)oペコッ
おじいちゃんのお話がお父さんお話になってますね~
記紀神話のようで興味津々です。
投稿: 茶々 | 2011年4月23日 (土) 18時04分