永禄十年(1567)10月19日、父・武田信玄によって幽閉されていた嫡男・義信が自刃しました。
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天文七年(1538年)に、甲斐(山梨県)の武田信玄の嫡男として、正室・三条の方との間に生まれた武田義信(よしのぶ)・・・ご存知のように、信玄は父・信虎から、あまり可愛いがられた経験がなく、ついには父を追放して家督を継いだ過去があり(6月14日参照>>)、自身の息子に対しては、ことのほか愛情を注いだようです。
いや、ちょっと可愛がり過ぎだったかも・・・
天文二十一年(1552年)、義信が15歳の時に、駿河(静岡県東部)の今川義元の娘と結婚した時には、「領国喜大慶は後代にあるまじく」と国を挙げての祝賀を催し、翌年に、時の将軍・足利義輝の一字を賜って義信と名乗った時には、「我より太郎(義信の事)は果報も何も上なり」と大喜びで、家まで新築しちゃいます。
さらに、その翌年には、先の今川に、相模(神奈川県)の北条氏を加えた甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれ(3月3日参照>>)、信玄は、気になってた信濃(長野県)の攻略に思う存分集中する事ができるようになります。
同じ年には義信も初陣を飾り、この頃からは、様々な書類も父子連名で記され、父も子も、そして周囲も、義信を信玄の後継者として疑わなかった事でしょう。
しかし、永禄三年(1560年)・・・義信の運命を変える大きな出来事が起こります。
海道一の弓取りと言われたあの今川義元が、尾張(愛知県西部)のちょっとした新興勢力に過ぎなかった織田信長に桶狭間(おけはざま)で討たれたのです(5月19日参照>>)。
さらに、その翌年の永禄四年(1561年)、あの宿命のライバル・越後(新潟県)の上杉謙信との川中島の合戦です。
これまでも何度か書かせていただいているように、川中島の合戦は計・5回あり、最初の衝突は、すでに天文二十二年(1553年)に勃発していますが(4月22日参照>>)、5回の中で最も激戦だったとされる第四次の戦いが、この永禄四年の戦いで、一般的に「川中島の合戦」とだけ言う場合は、この第四次を指します(9月10日参照>>)。
この時、前夜の闇にまぎれて軍を移動させた謙信が、夜明けとともに、そうとは知らない武田勢の目の前に現れ、前半は上杉有利に展開しますが、別働隊が到着してからは、数に勝る武田勢の優勢となり、結局、謙信のほうから兵を退いて終了となりました。
その第四次の川中島で、最初の父子の亀裂が生じたとされています。
戦いの最中は手傷を負いながらも奮戦し、武功を挙げた義信でしたが、戦いの後、「この優勢のまま終ろう」とする信玄と、「撤退する上杉勢を追撃すべき」と主張する義信との間で口論となったのです。
ご存知のように、この第四次の合戦で、信玄はその右腕とも言うべき弟・信繁(2008年9月10日参照>>)と、あの山本勘助を・・・もちろん、彼ら以外にも大勢の家臣を失いました。
まずは、これだけ多くの犠牲者を出した自軍を立て直す事が先決・・・更なる犠牲者を出すかも知れない深追いはやめようとする信玄と、若さゆえ血気にはやる義信・・・。
「状況に応じて、冷静で適切な判断を取るべき」と、大将としての心得を切々と説く信玄に対して、義信は一歩も退かず・・・いや、むしろ、義信のほうが、信玄を激しく非難したのだとか・・・
『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』によれば、義信という人は「利根(りこん)すぎる」として、あまり良くないように書かれています。
「利根」って何?・・・と思って調べてみたら、ちょっと古い言い回しのようで、狂言や浄瑠璃での使用例が出てましたが、意味としては、「賢い事」とか「利発な事」とあって、要するに頭が良いわけですが、第2の意味として「口賢い」とありました。
つまり、「頭が良いために理屈をこねる」ってヤツ・・・それが、「過ぎる」のですから、かなりのものだったと想像します。
冒頭に「ちょっと可愛がり過ぎだったかも・・・」って書いたのは、ココです。
確かに、人間、生まれ持った性格というのもありますが、育った環境というのもあります。
自分の意見を持つという事は大事な事ですが、今回の場合、相手は父親で、しかも戦場では主君です。
その相手に対して、公衆の面前での激しい非難というのは、どうなんでしょう?
ここに、これまで大きな失敗をせずに、何事も優遇され続けて育ってきた坊ちゃんの影が見え隠れするのです。
さらに、その翌年、信玄は、四男の勝頼に家臣団をつけ信州高遠城主としますが、義信は、これも気に入らない・・・
ご存知のように勝頼の母は、信玄が滅ぼした諏訪頼重(すわよりしげ)(6月24日参照>>)の娘で、勝頼は、その諏訪氏の旧領を継ぐべく諏訪四郎と名乗ってたくらいなんですから、本来、高遠城主になったって何の問題もなく、武田を継ぐはずの嫡子たる義信が気にするべき事ではないのですが、一旦入った亀裂は、こんなところにも影響するわけです。
「自分が戦って取った場所を、まだ、武功もない側室の子に・・・」てな感じでしょうか。
そして、ここに来て徹底的となるのは、義元亡きあとの今川への侵攻・・・そうです。
義信の奥さんは、今川の人ですから、何がなんでも反対しなければ・・・
ついに永禄七年(1564年)、義信は、傳役(もりやく)の飯富虎昌(おぶとらまさ)らと、父・信玄を討つ相談をするのです。
しかし、事は事前に発覚・・・信玄は、虎昌、そして義信の側近だった長坂源五郎・曽根周防(そねすおう)ら首謀者を処刑し、家臣団は追放・・・義信を甲府の東光寺へ幽閉したのです。
さらに、今川氏の姫は離縁させて駿河へ返し、今川と決別・・・一方で、勝頼に信長の養女との縁組を成立させ、織田との友好関係を築き、着々と駿河攻めの準備に・・・。
後継者の道を絶たれ、東海一の美人と言われたラブラブな奥さんとも離れ、失意の義信は、永禄十年(1567)10月19日・・・自らの人生に終止符を打つのです。
信玄が駿河に侵攻したのは、それから1年と2ヶ月後の事でした(薩埵峠の戦い・12月12日参照>>)。
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・・・と、信玄VS義信の確執を書かせていただきましたが、これは、「信玄LOVE」の『甲陽軍鑑』の言い分・・・ご存知のように、『甲陽軍鑑』にしか登場しない山本勘助は、ひょっとしたら架空の人物かも知れないと噂されるくらい、すべてが真実とは言い難い記述もあり、何かと信玄を良いように書いている可能性大です。
ただ、義信が幽閉されたのも、側近や家臣団を潰されたのも事実ですから、義信の性格がどうとか、父子の対立がどうというのが創作だとしても、家臣団の中に不満分子がいて、彼らが、信玄が信虎を追放したように、義信を担いで何か事を起こそうとしたのは確かなようです。
それに、義信が幽閉された一方で勝頼が織田との架け橋になったとしても、未だ後継者の道が絶たれたわけではなかったかも知れません。
信玄としては、単に、不満分子の家臣と義信を引き離すための幽閉だった可能性も考えられます。
・・・というのは、山梨県笛吹市にある武田氏と縁の深い美和神社に、義信が亡くなる一年前に、三条の方が鎧を奉納しているのですが、これまで、神社の記録では、それは「信玄の鎧」となっていて、ずっと信玄の物と思われていたのです。
しかし、最近の研究で、その形や時期からみて、「どうやら、義信が元服の時に使用した鎧である」との見解が出されたのです。
死の一年前という事は、すでに義信が幽閉状態にあった頃・・・三条の方は、きっと、息子の将来を思い、夫との絆を思い、母として、一心に祈ったに違いありません。
希望的憶測ですが、ひょっとしたら、父と子との間を修復できる可能性があったとも受けとれます。
しかし、そんな三条の方の願いも空しく、義信は、自ら命を絶ちました。
享年30歳・・・今川の滅亡で運命が変わったこの利発な後継者の死が、やがては、勝頼の運命を変え、武田の運命をも変えてしまう事は、皆さんご承知の通りです。
●【信玄・最後で最大の失策~勝頼への遺言】参照>>)
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