幕府最後の進撃~榎本武揚・函館を奪取
慶応四年(明治元年・1868年)10月20日、品川沖を脱出し、北へ向かっていた旧幕府軍の榎本艦隊が、蝦夷地への上陸を開始しました。
・・・・・・・・・・・
慶応四年(明治元年・1868年)4月11日の江戸城無血開城・・・東征大総督府・参謀の西郷隆盛と幕府陸軍・総裁の勝海舟の尽力(3月14日参照>>)によって、新政府軍と幕府軍の正面衝突は避けられ、江戸の町が火の海と化する事はありませんでした。
あとは、今後の徳川家の処遇と海軍の引渡し・・・しかし、このまま幕府が終わる事に納得がいかない幕府海軍・副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)は、徳川家の駿河(静岡県)70万石への転封が決まった5月24日頃から、密かに脱出の準備をはじめます。
未だ、新政府に屈しない姿勢をとっていた東北の諸藩(4月25日参照>>)とも連絡を取りながら、フランス士官のプリュネを取り込みつつ・・・やがて、榎本が最新鋭の開陽丸以下8隻の軍艦とともに品川沖を脱出したのは8月19日の朝の事でした。
途中、おりからの台風シーズンでいくつかの船を失いながらも9月3日に仙台に到着・・・仙台藩主・伊達慶邦(たでよしくに)と会見して、新政府軍を迎撃する作戦を練りますが、もはや、会津若松城が風前の灯火の状況で(8月23日参照>>)ではいかんともしがたく、東北での抗戦はあきらめて、再び北へ向かう事にします。
・・・とは言え、ここで新たな船と新たな同志を得ます。
大鳥圭介、新撰組の土方歳三、箱根戦争(5月27日参照>>)で奮戦した遊撃隊の人見勝太郎・・・もちろん、彼らの部下や、さらに仙台や東北の緒戦で生き残ったの精鋭たちを乗せて、榎本らは、蝦夷(えぞ・北海道)を目指したのでした。
かくして慶応四年(明治元年・1868年)10月20日、警備の厳しい函館湾を避け、噴火湾に面した鷲ノ木から上陸を開始する榎本軍・・・。
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
まず、最初に進軍したのは、人見率いる先発隊・・・続いて、大鳥率いる本隊がそのまま南下して函館を目指し、土方率いる別働隊は大きく迂回して函館へと向かいます。
この時の函館は、先の江戸城無血開城を終えた幕府の指示により、すでに、函館奉行の杉浦誠が新政府・知事の清水谷公考(しみずだにきんなる)に平和裏に明け渡したあとで、五稜郭は新政府の物となっていました。
ただ、その明け渡し当時に、五稜郭の警護に当たっていた東北諸藩の兵士たちは、かの戊辰戦争の舞台が北へと進むにつれ、すでに帰国していて、ここにはいませんでした。
新政府はあわてて諸藩に新たな出兵を要請し、即座に兵を投入しますが、その兵士たちが函館に到着したのは、奇しくも、榎本軍が上陸したと同じ本日・・・10月20日でした。
ギリギリセーフで間に合った新政府軍が、峠下(とうげした)村まで進軍してきていた人見隊に夜襲をかけたのは10月23日・・・しかし、逆に、近くにいた大鳥本隊に反撃され、この日は、あえなく撤退しました。
翌・24日に、大鳥隊は、隊を二つに分けて進軍・・・大野村に進軍した大鳥隊は大勝利を収めるも、七飯(ななえ・七重)村に進軍した人見隊はやや苦戦となります。
しかし、まもなく、ここに、旧彰義隊を中心とする援軍が到着し、なんとか勝利を収めます。
大鳥・人見の両隊が、函館の目の前までやって来た事を知った清水谷は、青森への撤退を決意し、新政府軍は次々と函館港から脱出・・・もぬけの殻となった五稜郭を榎本軍が占領したのは10月26日の事でした。
こうして勝ち取った蝦夷地に、榎本が蝦夷共和国を誕生させるのは約1ヶ月半後(12月15日参照>>)の事ですが、その前に、別働隊の土方は・・・と、行きたいですが、長くなりそうなので、それはまた、「その日」に書かせていただきたいと思います。
本日はここまでという事で・・・m(_ _)m。
.
「 幕末・維新」カテゴリの記事
- 坂本龍馬とお龍が鹿児島へ~二人のハネムーン♥(2024.02.29)
- 榎本艦隊の蝦夷攻略~土方歳三の松前城攻撃(2023.11.05)
- 600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語(2023.01.31)
- 維新に貢献した工学の父~山尾庸三と長州ファイブ(2022.12.22)
- 日本資本主義の父で新一万円札の顔で大河の主役~渋沢栄一の『論語と算盤』(2020.11.11)
コメント
3年前のNHK正月時代劇の「新撰組スピンオフ 土方歳三の最期」で、この場面を放送していましたね。来年の大河ドラマ「龍馬伝」で新撰組隊士の役が、どうなるかに注目。
「篤姫」では新撰組隊士は登場しませんでした。
訂正
先日、土井利勝を「天正生まれ」の1人としてましたが、正しくは「元亀生まれ」でした。訂正します。
投稿: えびすこ | 2009年10月20日 (火) 13時16分
えびすこさん、こんにちは~
>3年前のNHK正月時代劇の「新撰組スピンオフ 土方歳三の最期」で、この場面を・・・
・・・でしたっけ?
ドラマが始まった時には、
すでに蝦夷共和国ができてたような???
いけません!
あんなに必死で見たのに、
もう記憶がヤバイ事に・・・(。>0<。)
投稿: 茶々 | 2009年10月20日 (火) 13時30分
茶々様、こんにちわ~!
今日は私の好きな幕末。
この函館での戦いに関して私は疑問があります。土方をはじめとする旧幕府の侍、榎本をはじめとする旧幕府の侍。土方と榎本、どう考えても将来の方向性に違いがあったと思います。土方は京都~勝沼~江戸~会津と戦い抜き死に場所を探しているような・・・。一方、榎本は新しい国を作ろうとしている。『生きようとする人間』と『死のうとしている人間』の関係がうまくいっていたとは私は思えないのですが?どう思われますか?
投稿: DAI | 2009年10月20日 (火) 15時05分
すいません。私の記憶も少しあいまいでした。土方と誰か(ひげを生やした人)が作戦を練っていた場面が記憶にありますが。
「大河ドラマ新撰組」が終わった時は明治改元直前ですから、スピンオフはだいたい「改元直後から開始」と言う設定ですね。
この後、坂本龍馬の甥が明治政府の「公共事業」で、北海道開拓に参加したんですね。江戸時代までは、ほとんど「未開の大地」でしたから。
幕末だけは、大河ドラマで何回見ても、状況がなかなか理解できません。
投稿: えびすこ | 2009年10月20日 (火) 20時57分
DAIさん、こんばんは~
その後の榎本さんが、この蝦夷共和国について、あまり語らなかったので、その心の奥底はわかりませんが、「蝦夷を開発して徳川士民の飢えを救いたい」とか「徳川の血筋を引く人に総裁になってもらいたい」とか言ってるのをみると、少なからず、そこには幕府への忠誠心があったと思います。
一方の土方は、おっしゃる通り「死に場所を探していた」と言われますが、私としては、「死に場所」とは、ある意味「生き場所」であり「居場所」だと思います。
死ぬに値する場所は、生きるにふさわしい場所でもあると思うのです。
そんな中で、サムライ・土方の居場所は、浪士組として雇われ、会津藩お預かりの下にあった新撰組であると思われ、やはり、そこには幕府あってこその新撰組・・・そこに幕府への忠誠心という共通点があるように思います。
投稿: 茶々 | 2009年10月20日 (火) 23時13分
えびすこさん、こんばんは~
とにかく、山本君の土方が似合いすぎで・・・゜.+:。(*´v`*)゜.+:。
昔からの大河ファンにとっては、アレは大河ではないとの批判もあるようですが、私はあの「新選組!!」は、かなり好きです。
投稿: 茶々 | 2009年10月20日 (火) 23時19分