関ヶ原後わずか2年で早死~小早川秀秋の苦悩
慶長七年(1602年)10月18日、豊臣秀吉の甥で小早川隆景の養子となった小早川秀秋が亡くなりました。
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通説では、この小早川秀秋の寝返りによって戦況が変わったとされる、あの関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)から、わずか2年後・・・わずか21歳。
それも一説には、勝敗を左右する重要な場面での裏切り行為で良心の呵責に耐えかねての狂死だという・・・
前途ある若者が・・・胸が痛みます。
そんな秀秋は、豊臣秀吉の奥さん・おねさんの兄・木下家定の五男として天正十年(1582年)に生まれます。
3歳で秀吉の養子となり、その4年後には、朝鮮出兵の陣中で病死した豊臣秀勝(秀吉の姉・ともの次男)の領地・丹波亀山10万石を与えられ、一時は秀吉の後継者とも考えられていました。
しかし、文禄二年(1593年)に秀吉の側室・淀殿が秀頼を生み、その翌年、秀吉の命により、小早川隆景の養子となって小早川家に入ります。
隆景亡き後は、その領地であった筑後・筑前(福岡県)など30万7000石を引き継ぎましたが、慶長の役(11月20日参照>>)で秀吉の怒りをかい、越前(福井県)北ノ庄15万石に転封されてしまいます。
秀吉の死後には、徳川家康のとりなしで旧領にに復帰したと言われますが、まもなく、勃発したのが、かの関ヶ原の合戦・・・
その時の秀秋の行動は、以前、関ヶ原の前夜のお話として書かせていただいたように(2007年9月14日参照>>)、最初の伏見城への攻撃に参加したものの、それ以降は病気と称して参戦せず、一説には、この間に家康のワビを入れたという話もありつつも、一応、西軍として関ヶ原に向かいますが、合戦前夜に行われた大垣城での西軍の軍儀には参加せす、その夜の直接、関ヶ原の松尾山に陣取ります。
そして、秀秋のところには、東軍・西軍の両方から多大な恩賞と引き換えに味方につくようとのお誘いの誓紙を受け取り、両方に「味方になって参戦します!」の返事を送ります。
・・・で、ご存知のように、結果的には、翌日のお昼頃に東軍として参戦した事により、関ヶ原の戦況が一転し、西軍の敗北へとつながったとされています。
この時の揺れ動く態度から、ドラマや小説などでは、優柔不断な愚将として描かれる事が多く、先日の大河ドラマ「天地人」でも、上地くん演じる秀秋は、終始悩み続け、なにやら、ずっとアタフタしてた感があります。
今回の「天地人」では、合戦後も悩み続け、言われているような「狂死」という最期につながるような描き方でした。
ただ、私の印象は、少し違います。
確かに、関ヶ原に関しては、優柔不断だったかも知れませんが、世間で言われるほど愚将ではなかったと思っています。
その根拠の一番は、家定の息子の中で、彼だけが養子になっている所・・・あとは、皆、秀吉自身に血縁関係のある甥っ子ですので、秀秋の場合は、やはり、優秀な人材だと思ったのではないかと・・・。
ただ、当時の戦国武将としては、少し異質な感じのする人です。
その象徴となるのが、家康との接触・・・
家康は、さすがに最後に天下を取っただけあって、その知略・戦略・計画性などが、他の武将を圧倒する所がありますが、秀秋は、そんな戦国武将とはまったく違う、価値観、考え方を持った人だったような気がします。
なので、家康と深く関わるようになった慶長の役のあとくらいから、彼の人生の歯車が狂ってしまったのではないでしょうか。
もちろん、だからと言って、「家康が悪い」という意味ではなく、家康は、「当時の戦国武将なら、当然、こう考えるだろう」という意識で、秀秋に接触したわけで、秀秋自身が、そうではなかったために歯車がかみ合わなかったという意味です。
たとえば、今回の「天地人」でも、養子となって秀吉の後継者と目されていた秀秋が、秀頼が生まれた事で小早川に出され、落胆しているような描写がありました。
誰でもそう思います。
戦国武将となった以上、誰もが天下を夢見るだろうし、天下人の後継者となって、前途洋洋の未来が約束されていたのに、突然、そのレールから外されたら、誰だって、その事を怨みに思い、「豊臣なんてクソ喰らえ!」と思ってるだろうと・・・
人によっては、この秀吉の後継者から脱落したところで、秀秋の人生の歯車が狂ったと考える方もいらっしゃるようで、だからこそ、家康も、北ノ庄へ追いやられた秀秋を、旧領へと戻して恩を売り、「さぁ、不満ムンムンの豊臣を捨て、東軍へ来いよ!」と誘うわけです。
ただ、個人的には、当の秀秋は、それほどショックではなかったのではないか?と思います。
それは、秀秋は、今、頑張れる事をがんばる人であったように推測するからです。
先の先を見据えるばかりでなく、今現在、目の前にある出来事に一所懸命ぶつかる・・・戦国武将として、2手も3手も先を読む事が名将であるのなら、そう言った意味では、秀秋は愚将だったかも知れませんが、人としては、なかなかの頑張り屋さんとも受け取れます。
さして欲しくも無い天下のイスとはサヨナラして、新天地で心機一転・・・しかも、養子に行った先は、名将・小早川隆景です。
隆景に鍛えられた秀秋は、なかなかの武将に成長したに違いありません。
それが、あの慶長の役の出来事です。
結局、秀吉の怒りをかう事になるのは、この時の作戦での意見の食い違いにあったもので、立てられた作戦に従わず、彼は自ら先頭に立って戦った事が、逆鱗に触れたと言われています。
しかし、一方では蔚山(ウルサン)城を包囲されて、風前の灯火だった加藤清正を救うという大きな成果をあげた事も記録されています。
少なくとも、この時点では、歯車が狂っているような印象は受けないのですが・・・。
やはり、この後の家康との急接近で、自分とは価値観の違う周囲の状況に、若き秀秋は悩み始めたのではないでしょうか?
目の前にある国政を精一杯がんばりたいのに、いつまでも、後継者から転落した事をとやかく言われ、関ヶ原で東軍に寝返った事に陰口を叩く・・・そのような周囲との差に、悩み続けたようにも思います。
・・・とは言え、実際のところ、その関ヶ原での寝返りに関しても、最初から東軍として参戦していたという人もいれば、最後の最後まで悩んでいたという人もいるのが現状で、その中の秀秋の心の内に至っては、もはや想像の域を出ないものではあります。
私自身、一貫性がないのが露見するようでお恥ずかしいですが、秀秋さんの印象は、ドラマを見るたび、本を読むたびに変わります。
今日のこのブログの内容も、次に秀秋さんの事を書くときは、まったく違った物になってる可能性も、なきにしもあらずですが、とりあえず、現時点で思うところを書かせていただきました。
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*秀秋にまつわる恐怖のウワサ・・・岡山城・開かずの間については2011年の10月18日のページでどうぞ>>
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コメント
こんにちわ、茶々様。
あの関ヶ原の戦いを軍事評論家などの専門家が検証した結果、西軍が勝つ確率が非常に高かったそうです。しかし結果的には東軍勝利。西軍→東軍に寝返った中でのキーマンは小早川秀秋なのは有名ですが、なぜ 多くの大名が東軍に寝返ったのでしょう?事前の根回しがあったのは家康だけではないはず。三成も根回しをしたはず・・・。なぜなんでしょう?『三成を嫌っていた大名が多かった』『豊臣家臣団の内紛』などと以前の記事でも茶々様がおっしゃってますが・・・。家康が天下を取ろうとしている、このことに他の大名は気付かなかったんですかね?
投稿: DAI | 2009年10月18日 (日) 14時24分
小早川秀秋もその1人ですが、天正時代に生まれた人は、あまり江戸時代に大成した人がいません。例外としてお江の方、土井利勝や春日局がいます。その前後に生まれた(前・天文、永禄、後・文禄、慶長)人は大成(後世で有名)した人が多いです。
最近のNHK大河ドラマでは小早川秀秋の役もそうですが、豊臣秀頼の役も「若手俳優の登竜門」の位置づけになっています。昔からそうかな?
豊臣秀次(本当に後継者であれば、名前が「秀継」であるはず)、豊臣秀保、小早川秀秋の3人が気の毒です。
投稿: えびすこ | 2009年10月18日 (日) 17時47分
小早川秀秋さん~ 当時二十歳前で、しかも養子~。重臣の意見も東西に分かれていたんだろうなぁ~って思います。本当に本人の意図通りの合戦が出来たのか否かは、疑問に思ってます。(個人的にはですよぉ~)
今回は難しいテーマですよね~、「現時点で思うところ」って云うのが、分かります~
投稿: 山は緑 | 2009年10月18日 (日) 21時16分
秀吉が築いた、史上最大の木造建築・方広寺大仏殿の再建を望む。
投稿: 大仏様 | 2009年10月18日 (日) 22時21分
DAIさん、こんばんは~
>なぜ 多くの大名が東軍に寝返ったのでしょう?
難しいところですね~
当時の武将同士でも腹の探りあいだったでしょうから、あくまで、想像がらみの私的見解ですが・・・
私の印象としては、関ヶ原は「多くの大名が東軍に寝返った」というよりは、「多くの大名が二またをかけた」という気がしています。
以前、いくつかのページにも書かせていただきましたが、この後、家康が征夷大将軍になった時点でも、「秀頼が成長したあかつきには、その座を豊臣に戻す」と考えていた武将も多くいたくらいですから、まさか、本当に、9月15日の関ヶ原が最後の戦いになり、それで、家康が天下を取ったも同然になるとは思っていなかったのではという気がします。
家康は思っていたかも知れませんが、それを表に出す事はなかったと思います。
投稿: 茶々 | 2009年10月18日 (日) 22時25分
えびすこさん、こんばんは~
家康や秀忠との年齢や徳川の態勢のからみもあるかもしれませんね。
徳川の地盤が固まれば、何かある前に、穏便に相手の力を封じ込む事ができますが、それ以前だと、アブナイ奴は、一気に抹殺・・・って感じで消されたのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2009年10月18日 (日) 22時30分
山は緑さん、こんばんは~
小早川なので、毛利との関係も考えなくちゃいけなかったでしょうね・・・きっと
19歳では荷が重すぎたかも
投稿: 茶々 | 2009年10月18日 (日) 22時33分
大仏様さん、こんばんは~
現在の方広寺は、静かなたたずまいの境内に建つ鐘楼が印象的でした。
大仏殿となると、敷地の確保が大変かも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2009年10月18日 (日) 22時38分
昨年は上地さんでしたが、来年は誰でしょうね?出るとしたら「関が原」前後しかないので若い人でしょうね。
来年の中盤以降に出る人が、なかなか発表されませんね。年末にはNHKからガイドブックが出るので、「上巻」では11月中旬時点での配役(予定者)が掲載されます。
投稿: えびすこ | 2010年10月18日 (月) 08時46分
えびすこさん、こんにちは~
上地くんの最初の登場が13歳という設定は、ちょいと気の毒な気がしました。
秀頼の誕生を、弟が生まれたように喜ぶ雰囲気を頑張って演じてましたが、はなから少年に見えないので…
投稿: 茶々 | 2010年10月18日 (月) 12時35分
>最初の登場が13歳…
そうでしたね。
「出演者座談会」でも触れてたようです。
昨年の上地さんは30歳だから、無理がありましたね。大河ドラマは人によってはあえて子役を立てないケース(長く出る共演者と「顔慣れ」をするため)があります。
ちなみに来年は淀さんには子役がいますが、初・江はわかりません。そうなると秀忠は子供時代を省略?
投稿: えびすこ | 2010年10月18日 (月) 13時51分
えびすこさん、こんばんは~
先日、小谷城跡で、お市さんと長政の新婚時代のロケをやってたので、さすがに江は誕生のところから描く=子役がいるものと想像してましたが、いきなり大人に飛ばされる可能性もあるのかしら?
投稿: 茶々 | 2010年10月18日 (月) 23時02分