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2009年10月30日 (金)

今こそ教育勅語を…明治の教育改革

 

明治二十三年(1890年)10月30日、「教育に関する勅語」=教育勅語(ちょくご)が発布されました。

・・・・・・・・・・

1年ほど前、関西の名門私立大学で・・・
「私語で授業に大きな支障が出ている」
「大学生にこのような事を伝えなくてはならないのは慙愧
(ざんき)に耐えない」
などと、学生の自覚を促す学部長名の掲示が教室にあった』

・・・というニュースが話題になった事がありました。

それに関連した実例として、授業中に私語を注意すると「先生は、私たちの授業料で食ってんでしょ?」・・・『だから威張るな!』なんて事を言い返す生徒もいるとか・・・

また、それらの生徒の親は親で、
「風邪で学校を休んだ日の給食費は払いたくない」
「希望する大学に入れなかったので授業料を返せ」
「自分の子供がリレー選手に選ばれないのは不自然だ」

と、いわゆるモンスターペアレントなどは、ドラマにもなって大きな話題となりました。

さらに、今年に入ってからのニュースでは・・・
「日本の医療制度には納得してないから、診療代は払わない」
「医者1人では足りないから、もう一人呼べ!」

と、無理難題をふっかける患者の急増に、「医者や看護婦の身か持たない」と病院側が嘆いているなどという話も登場しました。

なにやら、個性と自由をはき違えた感のする今日このごろ・・・

以前、聖徳太子十七条憲法(4月3日参照>>)のところでも少し書かせていただきましたが、公共の場で騒ぐのも個性、順番に並ばないのも自由、果ては、大人になって働かないのも・・・

本来なら、自由と責任はワンセットになってるもので、自由な行動の結果、起こった出来事には、己自身で責任も負わなけらばならないものですが、こういった場合、大抵、自由を主張するワリには、その結果の不利益は他人のせいだったりします。

こんな光景に眉をひそめる人がいる・・・という事は、皆が皆、そうではないわけですが、逆に、こうして話題になるという事は、やはり、こういった人が現実に増えているという事なのでしょう。

「こんな事って、初めてじゃないの?」と思ってしまいますが、実は、これと同じような事が、明治の時代にありました。

よく、「人は、何か問題が起きた時、過去の例を踏まえて、一番良い解決法を見つけるために歴史を学ぶ」なんて話を聞きますが、私自身は、ただ気がついたら歴史が好きだっただけで、歴史を学ぶ意義なと考えた事もなく、そこのところはよくわかりません。

なので、歴史ブログと銘打っておきながら、おそらくは、学校の授業に役立つ話などは、ほとんど出て気やしないこのブログではありますが、「歴史はくり返される」というのはちょっとあるような気がします。

まさに、明治十年(1877年)頃から、今と同じような教育の崩壊が叫ばれはじめ、それを何とか修復するために、教育勅語が生まれたのです。

それは、あの自由民権運動(10月18日参照>>)・・・自由党が主張する自由主義・平和主義が日本の津々浦々まで浸透すると同時に、政府は欧米主義に走って西洋人の生活様式や思想を最先端と考える・・・

確かに、それまでの江戸時代の封建社会から解き放たれた自由はすばらしい物ではありますが、上記の通り、その自由をはき違えると、どんどんとあらぬ方向へ行ってしまうものです。

そのため、自分の欲望のおもむくままに好き勝手に生き、公共心も失われ、日本古来からつちかわれてきた道徳心も失われていったというのが、その頃の現実です。

特に、自由民権運動を支えたのが地方の農民であった事から、危機感を抱きはじめた各地の県知事たちから、「何とか道徳観を養う教育を・・・」との声が政府にもたらされ、明治二十三年(1890年)10月30日「教育に関する勅語」=教育勅語が発布されるのです。

Meizitennou500 教育勅語を起草したのは、井上毅(こわし)元田永孚(ながざね)という人物・・・彼らは、この教育勅語が、思想信条の自由をうたっている大日本帝国憲法に触れないよう気を使い、大臣の署名はつけずに、天皇の名前だけを記し、その天皇が「国民とともに、自ら実践していこう」と呼びかける形式としました。

その原文と口語訳が【明治神宮のサイト】(別窓で開きます>>)にあるので、引用させていただきます。

ー引用ー
私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。
そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。
そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
ー引用ここまでー

ご覧の通り、現在でも通用する見事な内容だと思います。

この時代の物ですので、少し忠君に関するところが気になりはしますが、それさえ排除すれば・・・そうです、先ほど、自由をはき違えると・・・と書きましたが、こちらの名文もはき違えると別の意味へと変化してしまうのです。

そもそも、この教育勅語を作った井上らは、この文章は、文部大臣のもとで非公開にするか、公開しても教育関係者にだけに行きわたる程度にと考えていたのですが、政府がそれを許しませんでした。

時の首相・山県有朋(やまがたありとも)伊藤博文らは、「欧米がキリスト教の精神に基づいているのに対して、心の拠り所となる精神的なものが少ない日本では、天皇の権威を拠り所としよう」と考え、この教育勅語を、文部大臣から各学校に配布して、「学校の式典などで奉読せよ」との訓令を出したのです。

これには、当時、勢いづいていた民権運動に対抗するという政治的背景もあったようですが、いつしか、この教育勅語を各学校で奉読する事が義務となり、その精神は「修身」の教科書とともに、子供たちに教え込まれる事になります。

それでも、この段階では、その内容をはき違えてはいませんから、おそらく、崩壊しつつあった教育現場を修復する事には成果があった事でしょう。

しかし・・・です。

「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません」
もう、すでにお気づきの通り、ここの部分の解釈が、昭和の始め頃から変化・・・いつしか「国のために命惜しまず…」と、軍国主義のスローガンのような使い方をされてしまうのです。

ゆえに、現在の教育現場で、この教育勅語が教えられる事はありません。

有名な昔話の桃太郎(12月1日参照>>)は、その解釈の仕方によって、勧善懲悪の英雄伝にもなり、他国を侵略する物語にもなる・・・

今や、教科書ではほとんど扱われない記紀神話も、日本のルーツをたどる壮大な叙事詩ととるか、神国ニッポンのプロパガンダととるかで、その扱いは大いに変わります。

しかし、教育勅語の中でうたっている孝行友情夫婦愛博愛精神、さらに謙遜啓発などなど・・・その多くの事は、現代でも決して失ってはならない物であるはずです。

もし、本当に、歴史という学問が、過去の経験を踏まえる事で解決策を導くための物であるならば、今一度、教育勅語を読み直し、新たな教育改革に活かしていただきたいと思う次第です。
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明治・大正・昭和」カテゴリの記事

コメント

現在の「道徳」でどういう事柄が、教科書に掲載されているのかはわかりませんが、20年前は現代的な逸話が載っていたと思います。
少しは話がそれますが、中学校の体育の授業で、「武道」を取り入れる方針と言う事ですが、相撲はいま校庭に土俵がない学校では、大変でしょう。
私の中学・高校は相撲部がないです。
相撲部のある学校なら、違和感なくできますが、ただ若い(体育の)先生の過半数が未経験者と言う現状では厳しいか、と。これは「外国人力士が横綱や大関を独占する事態を避けよう」とする、相撲協会と政府の政治的意図か?とすら感じます。
道徳は半分宗教的な思想(慈悲や忠孝や友愛の理念)もあると感じますが、実際はどうでしょうか?

投稿: えびすこ | 2009年10月30日 (金) 08時58分

茶々様、おはようございます。
教育は、それを通じてどのような人格を育てることを目的とし、さらにはどのような国家を目指すか、ということに通じる、とても大切な課題です。
もちろん、いくら教育を統制しても、すべての人が狙い通りに成長するわけではありませんが(むしろそうでなくては変な国家になってしまいますね)、教育の行き着く先にある目的が定まっていることが重要だと私は思います。
宗教が説く慈悲や友愛、孝行心といったものは、決して思想統制のためのものではなく、自由であればこそ選択できる(という自己満足を含んだ)成熟した社会の秩序を作るための要素だと思います。だから、そういった事柄だけで、教育が宗教の影響を受けていると批判する必要はないでしょう。むしろ、ほとんどの宗教に共通して訴えられるこれらの事柄は、それだけ社会の秩序を整えるのに重要なのだといえるのではないでしょうか。
国家が教育を統括する以前は、宗教がその役割を果たしてきた為、現在でも、宗教の名を冠した文化圏が存在するのです。
ほぼ無宗教といえる日本が今後一層教育に力を入れるべきなのは、必然の課題といえると思います。
長文で失礼しました。
なんだか、いつになく力入ってしまいました(;´▽`A``

投稿: おきよ | 2009年10月30日 (金) 09時49分

えびすこさん、こんにちは~

戦前の「修身」による道徳と戦後の「道徳教育」は少し理念が違いますが、中世の道徳が「論語」中心で江戸時代は「儒教」でという風に、それは時代とともに変わるものなのかも知れません。


相撲は・・・
ユニフォームの時点で、生徒からの不評が出そうですが・・・

投稿: 茶々 | 2009年10月30日 (金) 09時52分

おきよさん、おはようございます。

>ほぼ無宗教といえる日本が今後一層教育に力を入れるべきなのは、必然の課題・・・

ホントですね。
道徳心は、読み書きソロバンより重要です。

投稿: 茶々 | 2009年10月30日 (金) 10時08分

茶々さんこんにちは

私立大学の教員である私ですが、
幸いにも私の研究室にはイントロに
紹介されているような学生はいません。

しかし、私も講義などをしていると
私語を話している学生も偶に見かけます。

私は大学は教育機関ではなく、
研究機関と考えているので、講義を真剣に聞かなくても、
自己責任なのでしょうがないと考えています。

そんな私には「教育勅語」は痛い所を突かれた感じで、
冷汗が出ちゃったりします。

燃料資源のない日本は、
人材&技術が唯一の資源ですから、
政府には今後、教育に力を入れて欲しいと願っていまます...

が、先日の予算編成で教育&研究に関する
予算が大幅に削減されてしまいました。

これから日本の教育はどうなってしまうのか、
少々、危機感を募らせています。

と、昼の休憩時間に愚痴ってしまいましたw
ごめんなさい

投稿: おみそしる | 2009年10月30日 (金) 13時00分

茶々様、こんにちわ~!
今日のお話・・・なにやら身に覚えが
ι(´Д`υ)アセアセ
しかし『教育勅語』・・・良い言葉ですね。『非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません』の一文は私は当然だと思っています。当然と言ってもそれは軍国主義を肯定するものではなく『日本国の平和と安全の為なら』という条件付きですが。太平洋戦争時は軍部はもちろんのこと、多くの国民も『平和と安全』の意味を履き違えたのでしょう。軍拡主義者に抵抗した人々が真の理解者だったのですかね?

投稿: DAI | 2009年10月30日 (金) 14時33分

おみそしるさん、こんにちは~

>燃料資源のない日本は、
人材&技術が唯一の資源・・・

そうですね~精神面でも技術面でも人材育成は大切ですね。

子供を持つ世帯に単純にお金を渡すだけよりも、もっと意義のある使い方があるような気がしますが・・・

投稿: 茶々 | 2009年10月30日 (金) 15時29分

DAIさん、こんにちは~

私も、良い言葉だと思います。

それだけに軍国主義教育に利用された事が悲しいですね。

投稿: 茶々 | 2009年10月30日 (金) 15時38分

 いまの日本の政策が不安で、書きたい事がいっぱいあります~
 ただ~多くの人が、民主党に票を投じてこうなったのだから~って思うと~

 曖昧な表現ですが、日本の歴史に誇りが持てるからこそ、歴史ブログが成り立つとおもいます。

投稿: 山は緑 | 2009年10月30日 (金) 18時56分

本当に、教育関係者、親御さん、政治家に今日の茶々様のブログを読んでいただきたいです。でも、「修身の復活」「愛国主義」なんていうとたちまち「戦前に逆戻り!」と、ヒステリックに反応してしまう。戦争は絶対にあってはならない、というのは当然です。しかし道徳心を養う、国を愛する気持ちを持つ、というのは大切なことで、今時は言葉の使い方に配慮しないといけないのでしょうね。繰り返しますが、戦争はあってはならない。しかし戦後、戦争があったから、といって戦前にあったこと、人々の心に受け継がれてきた大切なものまですべてを否定するかのような風潮になってしまったことも教育現場の荒廃の一因ではないか?と思います。なんかうまく言えませんが・・・あの時代を全否定することは、あの時代を必死に生きた方々にとても失礼だ、と思うのです。

投稿: Hiromin | 2009年10月30日 (金) 20時51分

山は緑さん、こんばんは~

>日本の歴史に誇りが持てるからこそ、歴史ブログが成り立つ・・・

ホントにそうですね。

私が歴史好きなのにも理由なんてなく、単に、自分の生まれた国が好きだという事かも知れません。

投稿: 茶々 | 2009年10月30日 (金) 23時50分

Hirominさん、こんばんは~

>あの時代を全否定することは、あの時代を必死に生きた方々にとても失礼だ・・・

いつの時代も、人は精一杯生きて来たんですもんね。
悪しき物だけを取り除き、良い物は受け継いで・・・そうあってほしいものです。

投稿: 茶々 | 2009年10月30日 (金) 23時54分

君が代を否定し、日の丸に礼を尽くせない、日教組の連中に教育勅語の崇高な理念など理解出来よう筈もないのでは……。戦前戦中の歴史を全否定し、自由と無責任、個性と自分勝手、差別と区別を履き違えた社会を作ってきていながら、今なおそれに気付かないで、学校行事で国旗掲揚や国歌斉唱を行うことに異を唱え、あたかもそれが生徒の為に良い事だと思っているヤカラたちには、親や年長者に対して礼節を持って接する事や、年配者や幼児など弱者を労る事や、国を愛する事より、とにかく個人の主義主張をごり押しさせ、それを個性と言う名のオブラートで包んで、似非民主主義を助長してきたのです。今こそ国民こぞって教育勅語の素晴らしさを再認識し、馬鹿な日教組の連中を排除し、真っ当な教育改革が断行されるように願って止みません。

投稿: マー君 | 2009年10月31日 (土) 10時04分

マー君さん、お久しぶりです。

久々の辛口コメント・・・「自分自身も襟を正さねば」と、心引き締められます。

投稿: 茶々 | 2009年10月31日 (土) 11時10分

教育勅語というのは一体どういうものなのか……
それを全く知らずに、名前だけ覚えていた自分が恥ずかしいです。

教育勅語の内容もそうですが今の学校教育では、なんの為に学校に行き生活するのかを説明する機会が少ないと思います。
もうすぐ私の中学校も卒業式の練習が始まりますが、君が代の意味や何のために歌うのかちゃんと教えてもらったことがない気がします。

それから関係ないですが、無事に公立高校に合格しました。ホッとしています。( ^ω^ )

投稿: ティッキー | 2012年2月21日 (火) 16時15分

ティッキーさん、おめでとうございます。

一安心ですね。
4月からは新しい生活…
そこで、しっかりと教養を身につけてくださいね。
でないと、私みたいに後悔しますww

投稿: 茶々 | 2012年2月21日 (火) 18時28分

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