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2009年10月12日 (月)

戦国の水軍大将・九鬼嘉隆~覚悟の自刃

 

慶長五年(1600年)10月12日、水軍を率いて活躍した九鬼嘉隆が、逃亡先の答志島にて自刃しました。

・・・・・・・・・

つい先日、織田信長鉄甲船の完成のお話(9月30日参照>>)にも登場した九鬼嘉隆(くきよしたか)・・・。

熊野大社の別当の末裔とも言われる九鬼一族は、伊勢志摩から熊野灘を活動拠点とする海賊でありましたが、嘉隆の兄・九鬼清隆の時代に、伊勢の国司・北畠氏の関与により、少し後退するも、兄の死後、嘉隆は、兄の息子・澄隆(すみたか)をサポートしつつ勢力挽回に励んでおりました。

やがて、澄隆の死を受けて、嘉隆が当主となった頃に、伊勢に進出してきた信長と出会いますが、その頃は、まだ、海賊あがり小勢力であった彼らを、信長は援助し、紀伊半島に出没していた海賊たちを配下におさめさせ、一大水軍へと成長させていくのです。

その後の長島一向一揆攻め(9月29日参照>>)で活躍して、信長に認められた嘉隆は、さらに、冒頭の鉄甲船を完成させ、2度目の大坂湾海戦で毛利水軍を撃破し、信長を大いに喜ばせました。

この功績で、志摩七島と摂津野田福島など3万5000石の大名となり、鳥羽城を築いて、その城主にもなりました。

しかし、嘉隆の勢いはここまで・・・天正十年(1852年)のあの信長の死とともに、その人生に陰りが見え始めます。

ケチのつき始めは、信長死後の織田家・家臣のトップ争いとなった、あの賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦(4月21日参照>>)でした。

そう、この戦いで嘉隆は、柴田勝家についたのです。

結果は、ご存知の通り・・・勝家は負け、妻・お市の方とともに自刃します(4月24日参照>>)

・・・とは言え、嘉隆自身も無事、所領の没収もありませんでした。

おそらく、羽柴(豊臣)秀吉にとって、九鬼水軍が、この先まだまだ必要だったからでしょう。

それを裏付けるかのように、嘉隆は、この後、小田原攻め海上警備をはじめ、大坂城築城のための巨大な石を海上輸送するなど、「これでもか!」というほど、秀吉の天下取りのお手伝いにまい進します。

あの朝鮮出兵(4月13日参照>>)では、数百隻の造船を担当し、中でも、自らが鬼宿と名付けた全長30m幅10mの大安宅船(おおあたけぶね)には、秀吉も大いに喜び、改めて日本丸と命名したと言います・・・て、気に入ってくれたんはウレシイが、改名は、ちょいとショ~ック(# ゚Д゚)━━!!やろね(口には出せんが・・・)

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大安宅船(肥前名護屋城図屏風・名護屋城博物館蔵)

この船のおかげで、大将扱いで参戦した嘉隆は、その日本丸の指揮を任され、意気揚々と渡海しますが、初戦こそ優位に展開したものの、やがて変化した戦況の中、多くの船が海のもくずと消えました。

帰国した嘉隆は、秀吉が2度目の朝鮮出兵を実行する慶長二年(1597年)に、家督を長男の守隆に譲って隠居します。

やがて、秀吉の死とともに朝鮮出兵は終わりを告げ、またたく間に関ヶ原へ・・・と国内の雲行きが怪しくなってきます。

息子・守隆が、徳川家康とともに会津征伐(4月1日参照>>)へと向かう中、嘉隆のもとには、石田三成からの西軍へのお誘いがかかります。

「もう、そんな歳やないし・・・」
と断る嘉隆に、再三の出陣要請・・・

とうとう、嘉隆は、息子が留守にしている鳥羽城を奪います。

これを知った守隆は、慌てて使者を送って父を責めますが、怒った嘉隆は、この使者を追い返し・・・とありますが、どうやら、これは、例の関ヶ原での親兄弟・東西別れ作戦ではないかと・・・【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事…】参照>>…

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遠く(左奥)伊勢湾を望む鳥羽城跡

なんせ嘉隆は、鳥羽城を奪っておきながら、そこには陣を置かず、少し南の舟津(ふなつ)に布陣。

軍を率いて戻ってきた守隆も、すぐそばまで来ておきながら国府(こくふ)城に拠点を置く・・・嘉隆は、矢は空に向かって放ち、鉄砲は空砲だったとか・・・大事な本拠地である鳥羽城は、無傷でおいておきたかったのでしょうね。(2015年9月13日参照>>)

そんなこんなをやってるうちに、父子には、ラッキーな事に、関ヶ原がわずか一日で決着がついてしまいます。

嘉隆は、速やかに鳥羽城を放棄し、答志島(とうしじま)へ逃亡・・・この間に、守隆は、家康に父の助命を嘆願します。

何とか、家康の承諾を得た守隆は、喜び勇んで、すぐに、父のもとに使者を走らせます。

しかし、その使者が、まもなく島に到着するであろう慶長五年(1600年)10月12日・・・嘉隆は、自ら死を選びました。

享年59歳・・・父子、どちらかが生き残る事に賭けた嘉隆の関ヶ原・・・息子が生き残る事が決定した父にとって、もはや、思い残す事はなかったのかも知れません。
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コメント

 毛利元就ばりのナカナカの方だったみたいですね~この方は~。
 兄の子が死んじゃって~ってのも、同じ~ですね。
 九鬼水軍は、他の水軍とは異なる見方をされていたんだと思います。天下人3人に認められたこの方。

投稿: 山は緑 | 2009年10月12日 (月) 09時16分

山は緑さん、こんにちは~

勝家側についたのにお咎めなしってところが、まさに・・・

いかに、九鬼水軍が重要だったかという事なのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2009年10月12日 (月) 10時30分

こんにちわ!
今日は海賊大名の九鬼嘉隆ですね。
海賊あがりの大名・・・きっと怖い顔してたのかな(眼帯は?)
九鬼家も真田家のように生き残り策をとっていたのは知りませんでした・・・今日も茶々様に感謝。

投稿: DAI | 2009年10月12日 (月) 11時48分

DAIさん、こんばんは~

この後の歴史を知っている者から見れば、関ヶ原はあたかも家康の圧勝のように見えますが、やはり、これだけ多くの武将が、どちらか生き残り作戦をやってるという事は、やはり、そこまで明確な結果は見えていなかったのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2009年10月12日 (月) 18時33分

答志島には何度か足を運んでいます。
市営定期船でミニ・クルーズな気分が味わえたりもして。

9月30日にお邪魔しなかったのでコメントできませんでしたが、元・兵器オタにとって「鉄甲船の開発と運用・その戦略的意義」は小一時間原稿用紙8~10枚分論じ合えるテーマです。だから涙を呑んで割愛します。

太平の世になり大船建造を禁ずる時代になると、九鬼藩もつまらん理由で陸に移封されてしまいましたね。

しかし水軍は滅びず!

堀に船を浮かべて水戦の訓練を欠かさなかったところに意地と意気を感じます。
水軍テーマのひとつとして、いつか取り上げてほしい逸話です。

投稿: 黒燕 | 2009年10月12日 (月) 23時12分

黒燕さん、こんばんは~

>堀に船を浮かべて水戦の訓練・・・

それを書こうかどうしようか悩んだんですが、やはり今回は、嘉隆さんの死を以って話を終えたほうが良いかと思って、涙を呑んで割愛しました(爆)

投稿: 茶々 | 2009年10月13日 (火) 00時17分

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