« 信長・歓喜!華麗なる鉄甲船の登場 | トップページ | 水戸学と尊王と倒幕と~藤田東湖・志半ばの死 »

2009年10月 1日 (木)

自刃まで考えた~直江兼続の長谷堂・撤退

 

慶長五年(1600年)10月1日、上杉の執政・直江兼続が、長谷堂からの撤退を開始しました。

・・・・・・・・

会津征伐(4月14日参照>>)のため北へと進行中、留守にした伏見城を、石田三成が攻撃した事を知った徳川家康は、突如、会津征伐を中止し、上方へとUターン・・・(7月25日参照>>)

一方、家康の侵攻がなくなった事を知った会津の上杉景勝は、その矛先を、隣国・最上へと向け、上杉・執政の直江兼続(なおえかねつぐ)が、約2万の軍勢を率いて最上義光(もがみよしあき)配下の支城を次々と陥落させ(9月9日参照>>)、残る支城・長谷堂城へと迫った9月15日・・・西では、ご存知、関ヶ原での合戦が行われますが、ここ、東北では、長谷堂城の戦いが開始されたのです。

迎え撃つ最上勢が、わずか1300にも関わらず、城将・志村光(あきやす)の地の利を生かしたゲリラ的作戦に苦戦する兼続・・・やがて、本拠地・山形城からの援軍や、救援要請を受けた伊達政宗の派遣軍も到着し、更なる苦戦を強いられる中の9月30日、兼続のもとに、関ヶ原の合戦の勝敗の知らせが届きます(9月16日参照>>)

・・・前回は、ここまで書かせていただきました。

大河ドラマ・天地人では、宮本信子さんのナレーションの後ろで、ガャチャガチャやってる間に終ってしまった長谷堂からの撤退ですが、妻夫木君のボー然とした表情で、「何となく激しかったんだろうな」って事だけは伝わってきました。

合戦は侵攻するより撤退するほうが、はるかに命がけですから・・・

・・・で、その9月30日に、遠く関ヶ原で家康が勝利した事を知った兼続・・・最上も伊達も家康の東軍に組していますから、もはや、この戦いは意味のない物になってしまいました。

たとえ、ここで勝利して領地を拡大したとしても、その後の家康の采配一つで、どうにでもなってしまいますからね。

「この先、どうなるんだ?」
と、動揺する兵士たちに、
「先の事は考えず、とにかく、今は米沢に帰る事だけを考えよう」
と、兼続は自らが殿(しんがり)の指揮を取る事にします。

殿とは、隊列の最後・・・撤退では最も危険な位置です。

しかも、ただでさえ難しい撤退を、今回は山間の険しい場所で2万という大軍を移動させなければならないわけですから、さらに困難です。

北は敵地ですから、当然、撤退するのは南・・・兼続は、まず3000という兵に命じて、帰路となる狐街道の道幅を広げて整備させた後、慶長五年(1600年)10月1日未明、本陣を置いていた菅沢(すげさわ)に火を放って撤退を開始します。

*先日の「長谷堂城・総攻撃」の時にupした布陣図に方向を加えた物ですが、この図の通り、下(南)に向かっての撤退です↓
Hasedoufuzinzu2cc
↑クリックしていただくと大きいサイズで9月16日の布陣図が開きますので参考にしてください
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この時の最上は、すでに義光自身が現地に到着し、自ら陣頭指揮を取って、早速、上杉軍の追撃を開始します。

しかし、これは兼続の作戦・・・実は、道を造ると同時に死角も造り、最上勢が追撃してくるであろう両側に鉄砲を持った伏兵(ふくへい・隠れた兵)をしこんでいたのです。

そうとは知らず、怒涛のごとく追撃する最上勢に、真横から一斉射撃・・・ひるんだところを後続部隊が立ち戻って攻撃します。

ころあいを見計らって、再び撤退を始め、追いすがる敵に、また、一斉射撃!

最後尾の水原親憲(ちかのり)溝口勝路(かつみち)が、巧みにこれを繰り返し、最上勢をかく乱させます。

しかし、全体で2万の大軍と言えど、撤退の最後尾はほんのわずか、この場合は、追撃する最上のほうが、圧倒的に数が勝ってますから、しだいに混戦状態となり、隊列は崩れて、両軍入り乱れての戦いに転じていきます。

兼続としては、とにかく手早く引き揚げたい!・・・しかし、敵を目の前に血気はやる兵士たちは、もはや言う事を聞かず、作戦も連携もあったものかと、個々の戦いにのめり込み、無用な戦闘を続けます。

このグチャグチャモードに
「もはや、これまで!」
と、感じた兼続・・・
「敵に殺されるくらいなら、切腹して果ててやる!」
と、自刃を決意します。

そこに、登場したのが、かの前田慶次郎・・・(6月4日参照>>)

「一軍を率いる大将が、死に急いでどうするんじゃ!」
と、兼続を一喝!

「ここは俺らに任せろ!」
と、同じく浪人崩れの宇佐美民部(うさみみんぶ)とともに殿に加わり、前田家伝来の朱柄の槍を手に、敵陣へと殴り込んで、一気に8人を仕留めます。

この慶次郎の行動に、ハタと我に返った上杉勢は、士気を奮い立たせて次々と敵の猛者を倒しつつも、再び撤退劇に集中・・・そこへ、親憲の鉄砲隊が火を吹き、上杉軍は、最大のピンチを脱します。

なおも追撃する敵をかわしながら、なんとか畑谷(はたや)に到着したのは、翌・2日の事でした。

しかし、ここは、まだ、先日最上へ侵攻した時に落としたばかりの敵の城・・・わずかに置いていた守りの兵を収容し、翌・3日には荒砥(あらと)を経て、さらに翌日の10月4日・・・やっと米沢城にたどりつきました(各城の位置関係は、9月9日にupした関係図でご覧ください 別窓で開きます>>

ただ、さすがに、大急ぎの撤退劇・・・最上に侵攻した時に、別働隊として庄内から入った志駄義秀(しだよしひで)下吉忠(しもよしただ)に、この撤退を知らせる事ができていなかったのです。

それでも、義秀は、何とか自力でこのニュースを知り、速やかに本拠の酒田城へと引き揚げましたが、一方の吉忠は、駐留していた谷地(やち)を敵に囲まれて初めて現状を知り、やむなく義光の勧告に従って降伏しました。

この時の死者の数は、最上の言い分と上杉の言い分で少し差がありますが、いずれにしても、撤退した上杉のほうが数が上なのは確か・・・

それでも、撤退戦の場合は、殿が全滅せずに帰還した事だけでも成功と言えるもの・・・関ヶ原での島津がそうであるように(9月16日参照>>)撤退戦で無事本隊が帰還し、被害を最小限に食い止めた功績は、兼続の武名を高めるものとなりました。

かの義光も、兜に銃弾を受け、危機一髪だった事を振り返りながら
「直江くんは、怖がりもせずに心静かに陣を退き、撤退時にも慌てる事なく、むしろ俺らの兵を数多く討ち取って帰還した。
上杉には、謙信公の武勇が、まだ残ってるんやね」
と、敵ながらあっぱれの言葉を残しています。

ところで、冒頭に書いた通り、大河の兼続は、帰還した時、ただただボー然としていましたが、実際の兼続には、ボー然としている余裕はありませんでした。

今後の上杉の行く末は、もはや、家康の手のひらにあるようなもの・・・何とかしなくては!

なんせ、この上杉を揺るがす事態の全責任は、兼続にあるのですから・・・

大河では、今もなお、殿=景勝さんを立てていますが、実際には、この時の上杉の実権を握っていたのは兼続で、ほとんど独裁政治のような体制であったと言われています。

それは、この後、今回の処分の一件で、景勝とともに上洛する際の記録では「供の侍の数が、景勝より兼続のほうが多かった」とされているからです。

主君より多い供侍・・・このありえない状況に、「この時の兼続は、すでに上杉家を乗っ取っていたのでは?」と考える専門家もいらっしゃるようですが、さすがに、そればオーバーとしても、数が多かった事が事実だとすると、やはり、独裁体制に近いものである事は間違いないわけで、そうなると、西軍に組して最上に侵攻した事のすべてが兼続の意志だった事になり、それが、失敗に終った以上、当然、その全責任は取らねばならないのです。

さぁ、武将・直江兼続が、政治家・直江兼続として、その腕を発揮するときがやってきます・・・勝手ながら、個人的には、この長谷堂の撤退を境に、兼続は武将から政治家に変わると思っていますので・・・

ところで・・・
ここまで、「わざとですよね?」と聞きなおしたいくらい、武将としての兼続をナレーションでスルーし続けた大河スタッフ・・・

おそらく、スタッフさんが描きたかったのは、これから先の政治家・兼続ではないのか?と思いますので、今後の大河ドラマの展開に大いに期待したいところですね。

その政治家・兼続さんのお話は、11月28日:上杉景勝の米沢入城へどうぞ>>
 .

あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 信長・歓喜!華麗なる鉄甲船の登場 | トップページ | 水戸学と尊王と倒幕と~藤田東湖・志半ばの死 »

家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

ママさん、こんにちわ!です。

お茶々さん・・・。う~ん・・・羽柴のママさん?
それとも”柴っち”?(←いやいや、アカンですよ:笑)

茶々ママさんに決定~っ!!
ややこしいでしょうか?欲張り勝手な私をお許し下さいませ m(- -;)m

ご改名のお知らせを拝見いたしました。
私にとって、茶々ママさんは”淀様”でもよいかと思える程の勢いなのですが・・・(雲の上の存在)
”羽柴茶々様”かわいらしい感じでグーです(萌)☆


10月1日本日の出来事も濃い内容で、思わず「うんうん」と頷いてしまいました。
私的、兼続さんのイメージは”とんだ策士野郎だぜ・・・ぃ”です(笑)
これは先日、茶々ママさんが言われていた事と同じような事になるのですが、兼続さんへの褒め言葉的なものでして・・・。
ドラマでもそんな兼続さんが見てみたいと思ったのですが、これまたゴニョゴニョ(←言葉濁してます)・・・。※決してドラマを否定しているのではなく、あくまでも個人的要望です(汗)※

撤退模様に「長谷堂危機一髪!」。兼続さんと、その仲間達の漢っぷりっ。拝ませていただきました☆

投稿: おふく | 2009年10月 1日 (木) 14時15分

こんにちは。
HN替えられたんですね。では、これからは「茶々様」、よろしくお願いします。
ドラマでは見られなかった撤退の激戦、しっかり堪能させていただきました。前田慶次郎さんはここで活躍したんですね。ファンが多いのも納得です。
兼続さんの辣腕政治家ぶりも楽しみにしています(*^-^)

投稿: おきよ | 2009年10月 1日 (木) 15時16分

おふくさん、「茶々ママ」なかなかいい響きです。

さんざん悩んだあげく、イラストでは「indoor-mama」、本文では「羽柴茶々」にする事で自分を納得させましたww

>策士・・・
そうですよ、兼続は相当な策士です。
歴史好きにとっては、策士は褒め言葉なんですから・・・なのに、正直者のいい人にしてしまっては、逆に魅力がなくなるような気がしてなりません。

投稿: 茶々 | 2009年10月 1日 (木) 17時01分

おきよさん、今後とも茶々でよろしくお願いします。

私も、政治家・兼続に期待です!

投稿: 茶々 | 2009年10月 1日 (木) 17時02分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 自刃まで考えた~直江兼続の長谷堂・撤退:

« 信長・歓喜!華麗なる鉄甲船の登場 | トップページ | 水戸学と尊王と倒幕と~藤田東湖・志半ばの死 »