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2009年10月 2日 (金)

水戸学と尊王と倒幕と~藤田東湖・志半ばの死

 

安政二年(1855年)10月2日、午後10時頃に発生した安政の大地震藤田東湖がな亡くなりました。

・・・・・・・・

藤田東湖(ふじたとうこ)は、水戸藩の彰考館(しょうこうかん)に勤務する藤田幽谷(ゆうこく)の次男として文化三年(1806年)に生まれました。

彰考館というのは、水戸藩の二代目藩主だった、ご存知・水戸黄門さま=徳川光圀(みつくに)が始めた水戸藩の一大事業・『大日本史』の編さん(10月29日参照>>)を行っていた部署で、21歳の時に父が亡くなり、その家督を継いで、東湖も、この彰考館で大日本史の編さんに携わる事になります。

親子2代で・・・と、言うと、世襲制のように思ってしまいますが、実は、この彰考館・・・優秀な人しか勤務できません。

父の幽谷という人は、もともと古着屋の息子という低い身分・・・しかし、その優秀さをかわれて15歳の時に彰考館に大抜擢されるわけですが、優秀な人材なら、身分に関係なく抜擢するという事は、言い換えれば、優秀ではなかったら、たとえ親が彰考館に勤務していても、子供が勤務できるかどうかはわからないわけですので、東湖が、父の後を継いで勤務したというのは、やはり、彼もまた優秀な人材であったという事です。

Fuzitatouko500a 東湖が優秀な人材と評価される根源は、やはり水戸学・・・水戸学派のリーダー的存在だった父のもとで、幼い頃からみっちり水戸学を仕込まれ、彼もまた、水戸学派のリーダー的存在になっていました。

水戸学については、以前、この東湖さんの息子である藤田小四郎天狗党を立ち上げるところで書かせていただいたのでそちらをご覧いただくとありがたいのです(3月27日参照>>)が、そもそもは、一生をかけて学ぶような学問を簡単に説明する事はできません。

・・・が、あえて一言で言うなら「尊王賤覇(そんのうせんば)=つまり、「皇統を引き継ぐ朝廷は尊く、武力で覇権を握った幕府=徳川家は卑しい」という、もともとの黄門さまの時代から受け継いだ大日本史編さんの根源となる朱子学的歴史観による考えかたです。

徳川御三家の一つである水戸で、このような学問が発達する事を不思議に思いますが、実は、これこそが、幕府を安定させる事につながる考え方なのです。

幕府が倒れる=戦国の世の象徴は下克上=上位の者を下位の者が制してしまう事ですよね。

なので、幕府の世を守り続けて行きたい幕府としては、神代の昔から続く天皇家をトップに据え、幕府がその下にある事を明確にして、幕府自身がその上下関係をしっかりと守る事で、封建的社会の秩序を保とうというわけです。

実際には、幕府の下にいっぱいいて、その幕府の中にも上下関係があるわけですが、幕府のトップの将軍=徳川家が、天皇家との上下関係を守る事で、その幕府の下の者にも上下関係を守らせるのです。

ですから、水戸学の尊王の思想は、倒幕とは無縁の、むしろ幕府のための尊王なのです。
(現に、黄門様こと徳川光圀も、水戸家の主君は天皇家と言っています…2009年1月6日参照>>

ほんでもって、そんな尊い天皇の治める神の国である日本は、文化的にも武力的にも外国に犯されてはならない物・・・なので攘夷(じょうい)=外国は排除するという尊王攘夷の思想となりますが、この尊王攘夷が倒幕と結びつくのは、もう少し後の事で、現段階ではあくまで幕府のための尊王攘夷思想です。

そんな水戸学が力をつけるきっかけとなったのは、水戸藩の藩主交代劇・・・第8代藩主の斉翛(なりのぶ)に嫡子がいなかった事で、水戸藩の保守派は、斉翛の奥さんが11代将軍・家斉(いえなりの娘だった事から、家斉の息子を養子にして後継ぎに・・・と願っていましたが、一方の革新派は斉翛の弟・斉昭(なりあき)を後継者にと願い、ご存知のように、次期藩主に斉昭がつく事で、水戸藩を革新派が牛耳るようになるのですが、この時、斉昭を推したうちの一人が、かの東湖だったのです。

もちろん、すでに斉昭は水戸学を大いに理解していて、東湖にも篤い信頼を寄せていましたから、東湖も新たな藩主のもとで側用人となり、郡奉行(こおりぶぎょう)御用調役(しらべやく)など藩政の中核を荷う存在となり、水戸学も一気に広まっていき、多くの若者が、彼に教えを請いにやってくるようになります。

そんな尊王攘夷の思想が、倒幕と結びつくようになるのは、やはり、あのペリー来航(6月3日参照>>)・・・外国の圧力に及び腰の幕府は、尊王の姿勢を示して何とか朝廷の権威を借りて、この事態を乗り切ろうとしますが、時の天皇・第121代孝明天皇は大の外国ギライ。

しかたなく、大老・井伊直弼(いいなおすけ)天皇の許しがないままアメリカとの修好通商条約を結んでしまった事で、幕府は、自ら、尊王思想の根本となる上下関係の約束事を破ってしまったわけです。

ここで、すでに尊王の秩序を乱した幕府なのに、さらに、後の安政の大獄(10月7日参照>>)で反対派を弾圧した事で、以来、尊王攘夷は一気に倒幕へと傾いていく事になるのです。

とは言え、上記の通り…未だ尊王攘夷と討幕が結びついてはいない安政の大獄より以前の弘化元年(1844年)、

大規模な軍事訓練や激し過ぎる宗教弾圧を問われた斉昭は隠居し、東湖も謹慎の処分となっていましたが、幽閉中にも『回天詩史(かいてんしし)なる書物を執筆し、「こんな危機的状況の時こそ忠君愛国の精神を以って、国家のために命を捧げるべき」と、その思想は変わりません。

この回天詩史は、尊王攘夷派の志士たちに圧倒的な指示を受け、さらに彼らはヒートアップするわけですが、そんな東湖を、かの勝海舟「頭もいいし、腕もたつ、役に立ちそうなヤツだが、本当に国を思う真心がない」とボロカスです。

まぁ、これは、海舟の「自分大好き」の思い込みが多分に含まれている見方ですが、実行する派の海舟にとって、理論で攻める東湖の言動は、絵に書いた餅・机上の空論てな感じに思えたのでしょう。

しかし、東湖の思想が全国の志士に浸透していく中で、その最後はいきなりやってきます。

安政二年(1855年)10月2日、午前10時頃、マグニチュード6.9の直下型地震が、江戸の町を襲います・・・安政の大地震です(2006年10月2日参照>>)

小石川にある水戸藩邸内の宿舎にいて激しい揺れを感じた東湖は、心配になって、すぐさま別室にいる年老いた母のもとへ急ぎます。

母を抱えて、一度は庭へと避難した東湖・・・しかし、母が「火鉢の火を消し忘れた!」と、再び部屋へと走り、「俺が行くがな!」と、東湖も後を追ったところへ敷居が落下・・・

母をかばって、その肩で敷居を受け止めた東湖は、ありったけの力で、母を外へ放り投げますが、その時、再びの強い揺れ・・・建物は天井から崩れ落ち、その姿は瓦礫の中に消えました。

享年50歳・・・志半ばの死は、逆に尊王の志士たちを奮い立たせたかも知れません。

彼の意志を継ぐ息子・小四郎が天狗党を立ち上げるのは、この10年後・・・元治元年(1864年)3月27日の事でした(3月27日参照>>)←途中にもリンクを貼りましたが、一応・・・
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

茶々さんこんばんは!

今回も勉強になりました。
尊皇攘夷が天皇陛下を尊び、夷敵を討つということは知ってましたが尊皇と攘夷は別に考えると思ってました。
まして、それが幕府を守るための考え方とは全く知りませんでした。

恐るべし家康ですね!!

でも、その考え方が討幕の走りになるなんて、誰も思わなかったでしょうね。

歴史の流れって本当に面白いです。

後世の人達も日本の現在の姿をどう思うのですかね。

茶々さん、いつも、新しい発見させて頂いてありがとうございます。

投稿: シンリュウ | 2009年10月 2日 (金) 20時46分

シンリュウさん、こんばんは~
早速、茶々と呼んでいただいてありがとうございますm(_ _)m

>歴史の流れって本当に面白いです

ホントおもしろいです。
「攘夷」「攘夷」と全国的に攘夷運動は起こりますが、なんだかんだで本当に外国と戦ったのは、薩摩と長州。

結局は、その二国が維新の扉を開くんですもんね。

投稿: 茶々 | 2009年10月 2日 (金) 21時08分

茶々様ご無沙汰です。

相変わらずのすばらしい記事、私も頑張らなくては
彰考館の光圀公自筆の看板、大日本史は今も水戸千波湖と偕楽園近くの水戸徳川博物館敷地内の彰考館で見られます。朝廷の女官だった乳母に育てられ、近衛家から妻を迎えた光圀公の尊王の考えは、水戸学として引き継がれたのでしょうか・・弘道館には藤田東湖などが勉学に励んだ部屋が残っています。お庭は梅がとってもきれいで、私の好きな場所です。

投稿: エコリン | 2009年10月 4日 (日) 02時23分

エコリンさん、こんばんは~

>光圀公の尊王の考えは、水戸学として引き継がれたのでしょうか・・・

引き継がれたでしょうね。
以前、徳川慶喜さん関連のページにも書かせていただきましたが、鳥羽伏見の戦いでの敵前逃亡は、将軍にあるまじき行為というよりも、むしろ水戸藩出身の人物としては、当然だったようにも思います。

>梅がとってもきれいで・・・
行ってみたいです~

投稿: 茶々 | 2009年10月 4日 (日) 03時43分

はじめまして
藤田幽谷の子孫のものです。
家系図調べてるのですが、藤田東湖の姉婿の
吉田のりよのことについてご存じないですか?
歴史の表舞台からは、事情がありあまり出てこない人物かと思います。
御意見お伺いしたいことがあるので、メール下さい。

投稿: 吉田 | 2014年3月16日 (日) 08時34分

吉田さん、こんにちは~

申し訳ありません。
私も勉強不足で、その方の事は、今のところ存じ上げておりません。

この先、何かの機会に知る事もあろうかと思いますが、その時には、また、ブログでご紹介させていただきます。

投稿: 茶々 | 2014年3月17日 (月) 11時57分

藤田東湖と水戸学・・
この水戸学というのは注目ですね。
何せ、幕末の討幕運動の精神的支柱になった思想ですから。( ̄ー ̄)ニヤリ

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2015年5月26日 (火) 10時39分

根保孝栄・石塚邦男さん、こんにちは~

大河でも幕末は人気で、度々取り上げられますが、いつもいつもドラマでは、「尊王攘夷=倒幕」の状況が当然の如く展開されますね?

本来は幕府を守るための「尊王攘夷」で、それを幕府がウヤムヤにしちゃったために「幕府はアカン」となって倒幕に移行するわけなのに、そこの部分を、ドラマもがウヤムヤにしちゃってる気がします。

投稿: 茶々 | 2015年5月26日 (火) 18時48分

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