西国の桶狭間・有田城外の合戦~毛利元就の初陣
永正十四年(1517年)10月22日、武田元繁に攻められた有田城を救援すべく出陣した毛利元就が元繁を討ち、初陣を飾りました。
・・・・・・・
この頃、中国地方では周防(すおう・山口県)の大内氏と、出雲(島根県)の尼子氏がしのぎを削っていて、毛利・吉川・小早川・平賀などの小豪族は、その2大勢力の中間にあって身動きが取れない状態でした。
これまでも、それら小豪族の間で小規模な争いがくりかえされてはいましたが、大内氏の当主・大内義興(よしおき)が足利義稙(よしたね)を奉じて上洛し、永正八年(1511年)の船岡山の戦い(8月24日参照>>)に勝利して、中央での実権を握るのに反比例するかのように、留守となった西国では、その争いが徐々に激化してきます。
もともと、この安芸(あき・広島県)という場所は、鎌倉時代から武田氏が守護となっていましたが、戦国の世となってそれらの小豪族が領地化して治めていたため、武田氏の旧領は、わずかしか残っておらず、武田元繁(もとしげ)は不満ムンムンで、何とか、以前の領地を回復する機会をうかがっておりました。
そんな時、安芸内部で小豪族争っている事態をおさめるべく、義興が幕府の命令として元繁に安芸内部の鎮静を命じたのです。
これ幸いと紛争を鎮静すべく行動を開始する元繁でしたが、それが、鎮静どころか、かえって紛争を大きくする結果になるのは目に見えています。
そんなこんなの永正十三年(1516年)8月、毛利氏の当主・毛利興元(おきもと)が24歳の若さで亡くなります。
家督を継いだ幸松丸(こうまつまる)が、まだ2歳という幼さだった事で、大チャンスと見た元繁は、有田城(広島県山県郡)を攻めにかかるのです。
この有田城は、その2年前に、興元が武田氏から奪い、吉川元経(きっかわもとつね・興元の義弟)に守らせて、武田への備えの城と位置づけていたものですが、ここを奪われれば、当然、その次は、毛利への所領に乱入してくるのは明白です。
かくして永正十四年(1517年)10月22日、その有田城を救援すべく、亡き興元の弟・毛利元就が出陣します。
時に、元就21歳・・・「今まで何をしてたの?」と言いたいくらい遅い初陣でした。
・・・とは言え、大軍の武田に対して少人数しか集まらない状況に、側近たちからは、「少し様子を見るのが賢明・・・」と、出陣を反対されますが、すでに武田方による放火が始まったとの一報を聞いた元就は、取るものもとりあえず、戦場へと駆けつける・・・というなんともあわただしいものでした。
とは言え、この時から、興元を失った毛利氏の将来は、元就の腕にかかる事になります。
まず、元就が目指したのは、城山のふもとで柵と防塁を築いて防戦を張っている武田配下の熊谷元直(くまがいもとなお)の陣・・・
つい先日、元就の吉川&小早川乗っ取り作戦のページ(9月27日参照>>)で、「元就の、戦場での武勇伝は、あまり聞かない」と書かせていただいたところですが、今回の初陣は、さすがに21歳の若さ・・・その話を撤回せねばならないほど、元就は先頭に立って、大いに腕を奮います。
途中からは、弟・元綱をはじめとする一門も駆けつけ、さらに吉川の援軍200も加わって、ついに元直を撃ち取って熊谷の陣を占領(2015年10月22日参照>>)・・・続いて元繁の本営に迫ります。
防衛線を破られた事を知った元繁は、引き続き有田城を攻めるとともに、残り、半分強の手勢を5手に分けて周辺に配置し、毛利の進撃に備えます・・・その数、総勢4000.
攻める毛利勢は、先の援軍を加えても1000程度・・・しかも、熊谷との一戦をすでにこなしていますから、かなり不利・・・
しかしながら、元就も、もはやこれが最初で最後の戦いか!と思われるくらいに力を込めて采配を振り、何度も突入を繰り返す事、約2時間・・・
とは言え、やはり多勢に無勢はいかんともしがたく、敵には、次から次へと新手が現れ、毛利勢は、徐々に、後方の又打川(またうちがわ)へと後退していきます。
やがて、奮戦空しく、ついに退却となり、川を渡って敗走しはじめます。
ところが、ここで・・・
勢い余った元繁がついつい深追いし、自ら槍をかざしながら馬で川の中へと乗り入れた時・・・
最前線に飛び交う一本の矢に撃ちぬかれて、水中に転落してしまいます。
それは、元繁を狙った物ではなく、完全に偶然の出来事・・・
そこを、すかさず、元就配下の井上光久(みつひさ)が首を取り、刀の先に刺して、高く高く掲げて叫びます。
「大将・元繁~討ち取ったり~~~!」
当然、一瞬にして空気は変わります。
敗走中の毛利勢は逆襲に転じ、あるじを失った武田勢は総崩れとなるのです。
終ってみれば、元繁に殉死した者=300、敗走中に討たれた者=780・・・というのは、どこまで正確かはわかりませんが、結果的には、見事な初陣となりました。
さすがの、元就も、有田城を守るだけでオンノジ・・・まさか、守護ご本人まて討てるとは思っていなかったラッキー含め勝利ではありますが、名将というのは、時に、運まで味方にしてしまうのが、戦の常。
この有田城外の戦い(中井手の戦いとも)は、小人数で多勢を倒しただけでなく、この戦いによって、「安芸に毛利元就あり」を知らしめた戦いという事で、西国の桶狭間とも呼ばれています。
ただ、21歳でこの初陣を飾った元就が、厳島の奇襲戦(10月1日参照>>)で、全国ネットに躍り出るのは59歳・・・信長とは違って、元就には、更なる時間が必要となります。
そして、もう一つ・・・
運まかせの勝利に思える今回の合戦ですが、『毛利元就卿伝』という文献によれば、この合戦の前に、元繁の重臣の何人かが、すでに、吉川&小早川に寝返っていた事が書かれていて、それには、元就配下の世鬼一族なる忍びが絡んでいるとの話もあり、この先の謀略・知略の片鱗を見せてくれているところが、なんともたのもしい限りです。
後に、家督を争って元就が殺害する事になる弟・元綱が、元気に加勢する姿に、少し胸を熱くしてしまいますねぇ~。
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コメント
茶々さんおはようございます。
毛利元就は家督をついでから酒を断ったと聞きます。祖父、父、兄が30代で死んで、甥も幼くして死んだからのようです。酒びたりだった父の影響もあります。酒を断った事が75歳の天寿の要因です。
昨日とは正反対の投稿ですが、いつの時代もお酒の飲みすぎには気をつけなくては。
「大将格」の人の初陣は、陣頭指揮を執る(陣中にいる事の方が多い)わけですから、「采配術」が優れていないと遅い年になる可能性もありますね。「一兵卒」はただ走り回ればいいから、ある意味、戦場で自由に行動できますね。
投稿: えびすこ | 2009年10月22日 (木) 09時30分
えびすこさん、お早うございます。
兄貴とその息子の早死に関しては、失礼ながら、ちょっと元就さんを疑っております。
と言うのも、文中に書いた兄・興元が武田から有田城を奪った戦いは、本日の初陣のわずか2年前で、元就はすでに19歳になってますが出陣してません。
えびすこさんもおっしゃる通り
>「大将格」の人の初陣は、陣頭指揮を執るわけですから、「采配術」が優れていないと・・・
というのももっともですが、兄貴がいて、その子供がいて・・・と、もともと元就は毛利家を継ぐ人物ではなかったわりには、普通以上に遅いのは、なんでだろう?
・・・で、そこにすでに何かあったんじゃないか?とかんぐってしまうのです。
最終的に、毛利家は元就の物となるので、あまり表に出したくない事は抹消したのかと・・・
投稿: 茶々 | 2009年10月22日 (木) 10時25分
う~ん、家督を奪った可能性も否定できない。当時そういううわさがなかったとも言えませんね。
徳川吉宗も「御三家当主暗殺説」の黒幕と言われます。
大河ドラマでも当時のスタッフが苦心したと思いますが、「頭を使って台頭した」毛利元就の武勇伝が少ない(確かに敵陣を急襲したり、意表を突く戦術の場面があまりない)のは、江戸時代の毛利家にとっての泣き所ですね。
一時期、北条早雲と毛利元就が、「遅咲きの代名詞」と言われた時期があります。
投稿: えびすこ | 2009年10月22日 (木) 17時39分
えびすこさん、こんばんは~
吉宗は確実でしょう(笑)
>一時期、北条早雲と毛利元就が、「遅咲きの代名詞」と言われた時期が・・・
一時期って事は、今は言われてないんですか?
ふたりとも50代からの出世は、今でも遅咲きの気がしますが・・・
投稿: 茶々 | 2009年10月22日 (木) 18時03分
こんにちわ~、茶々様!
戦国屈指の謀将、毛利元就!
>それは、元繁を狙った物ではなく、完全に偶然の出来事・・・
織田信長の桶狭間の雷雨と言い偶然というだけでは済まない『何か』を持っていますね。そんな『何か』を持っている人たちが家督を継ぐんですから・・・『何か』が働いたのか・・・それとも茶々様やえびすこ様がおっしゃる通り・・・まぁ、そこが謎めいて歴史の面白いところでもありますよね(・∀・)イイ!
投稿: DAI | 2009年10月22日 (木) 18時41分
DAIさん、こんばんは~
信長が、義元が現在どこで何をしているかの情報をもたらした者に、桶狭間の一番手柄を与えた事を考えれば、そこには、偶然を装いながらも、緻密な計算があったのかも知れませんね~
もちろん、元就の場合も・・・
投稿: 茶々 | 2009年10月22日 (木) 22時39分