有岡城・落城~黒田官兵衛と竹中半兵衛とその息子たち…
天正七年(1579年)10月16日、前年に主君の織田信長に叛旗をひるがえした荒木村重の居城・摂津有岡城が開城されました。
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・・・とは言え、城主の荒木村重は、すでに1ヶ月前に、数名の従者を連れて有岡城を脱出して、城に残っていたのは、妻子と家臣だけ・・・
しかも、その妻子や家臣たちは、この後、村重が逃げ回ったために、その犠牲となって命を落す事になりますが、その一連の経緯については、12月16日の【荒木村重・妻子の処刑】>>や3月2日の【花隈城の戦い】>>でご覧いただくとして・・・
それにしても、
主君・織田信長から、何かと優遇されていた感のある村重がなぜ謀反に走ったのか?
また、妻子を見捨ててまで守ろうとした物は、何だったのか?
・・・と、まだまだ、謎は尽きないわけで、その真意については、まだ書きたい事もあるのですが、とりあえず、本日は、この村重の謀反&有岡城の落城が、その人生の転換期となった人物のお話をさせていただきます。
それは、ご存知、黒田如水です。
この時、彼はまだ小寺官兵衛孝高(こでらかんべえよしたか)と名乗っていた頃・・・(今日はややこしいので、呼び方は如水で通します)
つまり、播磨(はりま・兵庫県)の小大名だった小寺政職(まさもと)の家老だった如水の父・職高(もとたか)が、主君の信頼を得て名乗った小寺の姓を、未だ使用していた頃で、何かと安芸(あき・広島県)の毛利氏寄りだった主君・政職を説得して、中国地方へと手を伸ばし始めた信長の傘下に入ったばかりでした(11月29日参照>>)。
・・・て事で、この頃の如水は、まだまだ、「その地方では、ちったぁ名の知れた」程度の存在でしかなかったのです。
そんな彼に、大役が舞い込んできます。
それが、今回、叛旗をひるがえした村重の説得・・・
そのご命日のページでも書かせていただいたように、この時、「村重に謀反のきざしがある」という情報を得た信長は、普段、私たちが抱く信長さんのイメージとはうらはらに、すぐに攻撃して抹殺・・・ってな事はいっさいせず、「なんで、謀反なんか起すのん?」「なぁ、戻っておいでぇや」と、何度も真意を尋ねたり、説得をしたりを繰り返しています。
まずは、茶飲み仲間の松井夕閑(ゆうかん)、娘が村重の嫡男・村次(むらつぐ)の嫁となっていた明智光秀、信長が愛してやまない小姓の万見重元(まんみしげもと)(12月8日参照>>)の3人を派遣して、「母親を人質に出して、安土に弁明に来てくれたら許しちゃう!」と説得してみますが、村重の答えはNO!
それでも、まだ、信長は事を構えず、再び光秀を使者に立てて説得・・・さらに、羽柴(豊臣)秀吉を派遣しますが、やっぱりダメ・・・
それどころか、村重は、光秀の娘を息子と離縁させて、坂本城へ送り返したりなんかして、意地でも戻らない雰囲気・・・。
それで、今度は、その秀吉の命で、彼と親しかった如水が、村重を説得するために有岡城へと派遣されたのです。
ところが・・・です。
実は、如水の主君=政職が、すでに毛利に寝返っていたのです。
以前、如水の説得に応じて、小寺一門が信長の傘下となったものの、それでも主君の政職自身は、「毛利のほうが良い」と思っていたうえに、ここに来て村重が毛利に降った事により、小寺の領地は、西の毛利と東の村重に挟まれる形となってわけで・・・
まぁ、そもそも、信長の傘下に入る事を推し通した如水の存在も、内心ではうっとうしかったも知れませんし・・・
・・・で、政職は、密かに手を回し、有岡城へ説得に向かった如水を捕らえて、抹殺するように村重に依頼したのです。
しかし、村重は、如水を捕まえはしましたが殺しはせず、土牢に閉じ込めて幽閉したのです。
そうとは知らない信長サイド・・・これまで、何人もの人間が有岡城へと行き説得したにも関わらず、村重は、いっこう聞き入れないどころか、「今度は、使者を寝返らせやがった」となったのです。
そうです・・・これまで、光秀やら秀吉やらも、無事帰って来ていますが、如水だけがいっこうに帰って来ない状況に、「如水は、村重に同調して、寝返った!」と、思ったのです。
さすがに、ここらあたりで、ブチ切れはじめた信長さん・・・交戦中の石山本願寺に和睦を申し込んで時間稼ぎをしながら、村重に同調している茨木城主の中川清秀と高槻城主の高山右近を味方につけ、目標を有岡城一本に絞り始めます。
そして、自らのブチ切れを、寝返ったと見られる如水と村重に見せつけるかのように、人質として預かっていた如水の長男・松寿丸を殺害するように、秀吉に命じるのです。
しかし、ここで登場したのが、秀吉の軍師として知られるあの竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)でした。
この時、半兵衛は「官兵衛には、絶対に二心はない!」と信じ、表向きには殺した事にして、密かに松寿丸をかくまったのです。
かくして、村重が叛旗をひるがえしてから約1年後の天正七年(1579年)10月16日、すでに、主のいなくなった有岡城は、家臣たちによって開城となるのです。
ここで、如水は、奇跡的に救出されます。
ただ、長期に渡り、劣悪な環境で閉じ込められていたため、足腰を痛め、その曲がった足は、その後も一生治る事なく、以後、彼は歩行が困難な状態となってしまいましたが・・・。
しかし、如水は、その過酷な現状と引き換えに、信長から形無き褒美をもらう事になります。
それは、信長からの篤い信頼・・・このような状況になっても、村重に同調しなかったという事実は、何よりも信長の心をつかみます。
翌・天正八年(1580年)には、この一件の発覚で毛利の領地へと逃亡してしまった主君=政職の旧領と播磨の一郡・1万石を加えた計・3万石を与えられ、大名としての第一歩を踏み出す事になります。
また、半兵衛の機転で、松寿丸が生きている事を知った信長は、「おかげで間違いを起さずにすんだ」と大いに喜んだと言います。
ただ、その半兵衛は、如水が救出される半年前に、秀吉による播磨・三木城包囲(3月29日参照>>)の陣中にて、36歳の若さで亡くなってしまっていました。(6月13日参照>>)
如水は、半兵衛に感謝するとともに、その死を大いに悼んだという事です。
この時、半兵衛が残した息子・重門(しげかど)は、わずか7歳でした。
重門は、その後、父の後を継いで秀吉に仕え、元服後は、河内(大阪府)国・安宿(あすか)郡など6000石を与えられたものの、朝鮮出兵の時でさえ、「まだ幼い」と参加が許されなかったのだとか・・・。
やがて訪れた関ヶ原の合戦・・・この時、西軍として参戦した重門・・・
しかし、重門は、あの岐阜城・落城(8月22日参照>>)直後に、東軍へと寝返り、さらに、本チャンの合戦後には、あの小西行長が重門のところに自首してくれた(9月19日参照>>)事で、竹中家はお咎めなしとなり、所領も安堵・・・以後、徳川の傘下で明治維新まで存続する事となります。
結果的に、竹中家が存続する事となった、この関ヶ原直前のタイミングでの寝返り・・・
この時、重門を説得したのは、誰あろう、亡き半兵衛に命を救われた松寿丸=黒田長政でした。
関ヶ原当時、多くの大名を、西軍から東軍に寝返らせた長政ではありますが、おそらく、重門に対しては、ただの戦略ではない、何か特別な思いが存在した・・・
(陣も同じ岡山で隣同士やしねv(^o^)v)
そう、信じたいですね・・・o(*^▽^*)o
追記:感動秘話の最後に何ですが…後藤又兵衛が黒田如水の息子だったかも知れない話は2014年4月10日のページでどうぞ>>
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コメント
茶々様、こんにちわ~!
今日は秀吉を支えた名軍師の2名、竹中 半兵衛と黒田 官兵衛ですねヽ(´▽`)/この2人は知っていたのですが、その子らの関係、長政・重門の関係なんて全く知りませんでした!また今日も茶々様に感謝です。
>ただの戦略ではない、何か特別な思いが存在したと信じたいですね
いつも上手い締めですね (*^ー゚)bグッジョブ!!
投稿: DAI | 2009年10月16日 (金) 15時12分
DAIさん、こんばんは~
有岡城の一件の時、重門は7歳・・・長政は5歳ほど年上ですから、おそらく、一生忘れない出来事として脳裏に焼きついていたはず・・・
となると、やっぱり
>ただの戦略ではない
何かを信じたいです~。
投稿: 茶々 | 2009年10月16日 (金) 19時34分
茶々さん、こんばんは!
竹中半兵衛の子供って生きていたんですね。この前のブログで、三法師が関ヶ原で戦死したことを知ったのも驚きでしたが今回も驚きでした。
ありがとうございます。
秀吉は家康よりも如水の方を怖れていたみたいですね。
その如水を九州に配置した秀吉はさすがですね!!
この配置がもう少し違っていたら関ヶ原は違った結果になったでしょうね。
投稿: シンリュウ | 2009年10月16日 (金) 20時57分
シンリュウさん、こんばんは~
>三法師が関ヶ原で戦死・・・
スミマセン・・・
関ヶ原で戦死ではなく、厳密には、岐阜城が落城した後、高野山で亡くなっています。
まぁ、仏門に入っていますので、戦国武将としての織田家嫡流の滅亡には違いないですが・・・
>秀吉は家康よりも如水の方を怖れていたみたいですね。
そうですね。
「自分の次に天下を取る者がいるとしたら如水だろう」と考えていたみたいです。
投稿: 茶々 | 2009年10月16日 (金) 22時24分
茶々さんこんばんわ。
この場面は13年前の「秀吉」で見ました。鮮明に覚えています。この時の官兵衛は伊武雅刀さんでしたよ。
「息子(長政)を人質に出せ」と言う信長の命令を受けて、息子ではなく身代わりの子供を差し出した話で、伊武さんが出ていました。
その息子・長政が、関が原の戦いでは「父親の代わり」の様な立場で、参戦します。これは「功名が辻」で見ました。ところで、この黒田親子は有名な民謡「黒田節」に由来していますか?
投稿: えびすこ | 2009年10月17日 (土) 21時35分
えびすこさん、こんばんは~
この前の「功名が辻」では、竹中半兵衛ではなく、山内夫妻が息子を救ってましたね。
あのあたりから、大河の「良い事は何でもかんでも主人公がやった症候群」が始まったような気がします。
ところで、「黒田節」は黒田親子ではなく、その家臣の母里太兵衛友信(もりたへえとものぶ)の逸話からきてます。
太兵衛は、黒田24騎のひとりですから、親子に関係あるっちゃぁ、ありますね。
いずれ、そのお話も書かせていただきたいと思っています。
投稿: 茶々 | 2009年10月18日 (日) 00時46分