いよいよ三方ヶ原~信玄・二俣城を攻略
元亀三年(1572年)10月14日、遠江に侵攻した武田信玄の別働隊が、徳川家康方の二俣城を包囲しました。
・・・・・・・
昨日の今日で何ですが・・・
*昨日のページをまだ読んでいただいていない方は、先にソチラを>>
・・・で、昨日、一言坂の戦いを繰り広げた武田信玄の本隊と、犬居城(いぬいじょう・浜松市)で分かれた別働隊が、浜松城の北東20kmに位置する二俣城を包囲したのは、翌日の元亀三年(1572年)10月14日の事でした。
城を守るのは、徳川家康配下の中根正照(まさてる)・・・そして彼をサポートする青木貞治(さだはる)・松平康安(やすやす)といった面々・・・。
攻めるは、信玄の息子・武田勝頼(かつより)を主力とした部隊・・・
しかし、コチラは城攻め・・・1日や2日でカタがつくものではありません。
まして二俣城は、天竜川と二俣川に囲まれた台地の上に築かれた天然の要害で、攻め難さにかけてはトップクラスの堅固な城です。
もちろん、さすがの信玄ですから、その事は充分承知の上・・・城を囲む勝頼たちだけではなく、あの手この手の作戦を、すでに展開しておりました。
まずは馬場信房(のぶふさ・信春)に、北条からの援軍を加えて、浜松城から東・・・天竜川を越えた神増(かんそ・静岡県磐田市)に布陣させ、その地を押さえます。
さらに天竜川東岸の匂坂(さぎさか)に穴山信君(のぶきみ)を配置・・・なんせ、浜松の東側・遠江(とおとうみ・静岡県西部)東部には、徳川方の石川家成の掛川城、同じく徳川配下の小笠原氏助(うじすけ)が守る高天神城など、まだまだ重要拠点が無傷で残っていますから(昨日の進路図を参照>>別窓で開きます)、これら、東部の城と、浜松城&二俣城の連絡を経ってしまわないといけません。
そこに、グッドタイミングで、最初の段階から別働隊として奥三河(愛知県)に展開中の山県昌景(まさかげ)が、東三河各地を制圧し(10月22日参照>>)、二俣城への連絡を断ち切る事に成功します。
そんなこんなで完全に孤立した二俣城・・・おそらく、10月下旬頃には、総攻撃が開始されたものと思われます。
しかし、これだけ、周到な攻めをくりかえしても、堅固な城はいっこうに落ちる事なく、やがて、11月・・・12月・・・総攻撃開始から、はや1ヶ月ちょっと・・・
この二俣城では、天竜川に面した岩壁に櫓(水の手櫓・井楼=せいろう)を組み、そこから縄を下ろして水を汲み上げていたのですが、勝頼は、最後の手段として、この水補給ルートを断つ作戦に出ます。
12月19日・・・勝頼は、天竜川の上流から大量の筏(いかだ)を流して、かの櫓に激突させ、見事、櫓を崩壊させます。
これによって、水を補給する事が不可能となった二俣城・・・正照らは、この先の長期の籠城が叶わなくなった以上、更なる籠城は、ただ時間を費やすのみと判断し、速やかに武田方に人質を差し出し、二俣城を明け渡したのでした。
二俣城の陥落で、周囲から完全に孤立した家康の本拠地・浜松城・・・迎える家康はいかに・・・
本日の勝頼さん・・・
生まれ年からいけば、この時25~6歳・・・
昨日の忠勝に引き続き、今度は勝頼に、
「ちょっと、惚れてまうやろ~c(>ω<)ゞ」
あぁ・・・忙しい
この後、二俣城に入った信玄本隊が城の修復を終え、出陣するのは、12月22日・・・ご存知、三方ヶ原の戦いですが、そのお話は2006年12月22日のページで>>
上記の三方ヶ原のページは3年も前に書いたものなので、今回、その日に関して、更にくわしく、新たな逸話などをご紹介するかどうかは、現在思案中・・・少々お待ちを・・・
.
「 戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事
- 浅井&朝倉滅亡のウラで…織田信長と六角承禎の鯰江城の戦い(2024.09.04)
- 白井河原の戦いで散る将軍に仕えた甲賀忍者?和田惟政(2024.08.28)
- 関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦(2024.06.26)
- 本能寺の変の後に…「信長様は生きている」~味方に出した秀吉のウソ手紙(2024.06.05)
- 本能寺の余波~佐々成政の賤ヶ岳…弓庄城の攻防(2024.04.03)
コメント
お待たせしました。今夜の「歴史秘話ヒストリア」は1ヶ月先伸ばしになった「明治の勝海舟」です。楽しみです。今月になり、店頭では坂本龍馬関係の本が、「特集スペース」で多く置かれています。
「昭和時代の原作」で、司馬先生のヒット作の「竜馬が行く」も、復刻版が出ています。
投稿: えびすこ | 2009年10月14日 (水) 11時33分
茶々様、こんにちは。
うろ覚えで曖昧なんですけど、確か二俣城は有名な石垣のところの他にあと二ヶ所城跡があるとか。あと2ヶ所も時間があればゆっくり訪ねてみたいです。
遠江は浜名湖ですから、まだぎりぎり静岡ですよ~(^-^;
投稿: おきよ | 2009年10月14日 (水) 13時51分
こんにちわ、茶々様。
ほぉ~う、水の手櫓なるものを筏を流して壊す・・・なるほどですね。勝頼といったら長篠の戦で大敗し、偉大すぎた父・信玄の後を引き継げなかった愚将のイメージがあるのですが、なかなかやりますね。
しかし、『惚れてまうやろ~』まではいきませんね~(´・ω・`)ショボーン
投稿: DAI | 2009年10月14日 (水) 14時34分
おきよさん、こんにちは~
>遠江は浜名湖ですから、まだぎりぎり静岡ですよ~(^-^;
おぉ・・・ホントだ!
速やかに訂正させていたたぎますι(´Д`υ)アセアセ
愛知県東部は三河どす
投稿: 茶々 | 2009年10月14日 (水) 15時32分
DAIさん、こんにちは~
>『惚れてまうやろ~』まではいきませんね~
う~ん、残念!!
まぁ、私も「ちょっと、惚れてまうやろ」なんですがねww
投稿: 茶々 | 2009年10月14日 (水) 15時35分
えびすこさん、こんにちは~
龍馬さんは、どうも、小説のイメージが強烈すぎて、なかなか、自分なりのキャラクターが掴めずにいます。
まぁ、それだけ、小説が秀作だという事なんでしょうけど・・・
投稿: 茶々 | 2009年10月14日 (水) 15時38分
こんばんはぁ~です
今日はちょとお尋ね致したき儀が~
”北条からの援軍”って??
三方ヶ原に、信長さん配下の佐脇君とかが、応援に駆け付けた~ってのは解りますが~。征西軍?(あくまで侵略軍)の武田軍に北条が助っ人部隊を出すっていうのが、ちょっと、解せません。どのような見返りが有ったのでしょうね?
スミマセン~
投稿: 山は緑 | 2009年10月14日 (水) 20時22分
茶々さん、こんばんは!
家康にとっては人生最大の試練の三方が原がもう少しですね。
馬上でお漏らしをして、その惨めな姿を教訓のために絵にしたんですよね。
確かにその後の家康で一か八かの戦いは関ヶ原まで無いかも知れませんね。
それにしても、勝頼は愚将ではなかったですね。古参の武将を押さえる事ができなかったのが長篠合戦の負けの原因と聞いてます。あの信玄も最初は古参には相当苦労したようですし、武田が滅んだのもタイミングなんですかね。上杉ももう少し信長が生きていたら、危なかったですよね?
勝頼は悲劇の武将ですね。
投稿: シンリュウ | 2009年10月14日 (水) 20時38分
山は緑さん、こんばんは~
>武田軍に北条が助っ人部隊を出すっていうのが、ちょっと、解せません。どのような見返りが有ったのでしょうね?
見返りというよりは、「おつきあい」だと思います。
昨日の、一言坂のところで、書かせていただいたように、これまで信玄は信長と同盟を結んでいて、配下の家康と連携プレーで、今川の領地を奪ったわけですが、今川の領地を奪い終えた以上、この先は、家康の遠江に侵攻する気なので、この遠征の直前に、信長とは縁を切り、北条氏政との同盟を復活さたわけで、おそらく、この援軍の派遣は、その同盟復活の証みたいなものだと思います。
投稿: 茶々 | 2009年10月14日 (水) 23時12分
シンリュウさん、こんばんは~
勝頼は愚将ではないと私も思っています。
確か、長篠の合戦のところで、そのような事を書いたと思うのですが、やはり、勝頼の一番の敵は、父親の影ではなかったかと思います。
投稿: 茶々 | 2009年10月14日 (水) 23時15分