「能もなく芸もない」暗愚の後白河天皇が天下を動かす
久寿二年(1155年)10月26日、雅仁親王が第77代・後白河天皇として即位しました。
・・・・・・・・・・・
在位が、わずか4年という事で、後白河天皇という名よりも後白河法皇という名で歴史に登場する事が多い天皇・・・
源平の合戦の裏で表で暗躍し、あの源頼朝に「日本一の大天狗」と言わせたほど、知略に長けた人ですが、意外にも、その即位は「思いがけず、なちゃった」という雰囲気の物でした。
以前も、「保元の乱のきっかけ?」(7月2日参照>>)として書かせていただいた事のあるややこしい親子・兄弟関係ですが、とにかく第74代鳥羽天皇には、(ややこしいので、今回は皆さん天皇名で呼びますが)崇徳(すとく)・近衛(このえ)・後白河の3人の皇子=天皇候補がいたわけです。
ところが鳥羽天皇は、このうちの崇徳さんを、自分のおじいちゃんである第72代白河天皇の子供だと信じていて・・・というより周囲も承知のもっぱらのウワサで、実際にも白河天皇は崇徳さんを可愛がり、鳥羽天皇をムリヤリ退位させて、崇徳さんを第75代の天皇にしてしまいます。
しかし、その白河天皇が亡くなると、鳥羽天皇は「仕返し」と言わんばかりに、崇徳天皇に退位を迫り、自分の息子である近衛さんを、わずか3歳で第76代天皇としますが、この近衛天皇が17歳で亡くなってしまったのです。
・・・となると、残る息子は、当然、後白河さん・・・という事ですが、この時の後白河さんに対する鳥羽上皇(天皇)&崇徳上皇(天皇)の評価は・・・
「即位の器量にあらず」
「文にも武にもあらず、能もなく芸もなし」
と、言いたい放題の酷評です。
それゆえ、この時の後継者論争でも、ダメな後白河さんよりも、その息子で、英傑の誉れ高い守仁親王(後の二条天皇)の即位が期待されたほどでした。
しかし、いくらなんでも、実父をすっ飛ばして、その息子が皇位を継ぐのはおかしいわけで、「んじゃ、しかたないから中継ぎで出てもらいますか」てな感じ・・・
そう、実は、今回の後白河天皇の即位は、次の天皇となる二条天皇への中継ぎという設定で行われた即位だったのです。
それは、「なんやったら、僕がもっかいやったっても、えぇねんでぇ」と、未だヤル気満々の崇徳上皇への、鳥羽上皇からの牽制球でもありました。
ところが、父からも兄からも暗愚と言われた、この中継ぎ=後白河天皇が、蓋を開ければ、源平の勢力を巧みに操り、その後に天皇となる二条→六条→高倉→安徳→後鳥羽天皇までの5代=50余年に渡って院政を行い続けて、たぐいまれな政治能力を発揮・・・冒頭に書いたように、あの源頼朝が「日本一の大天狗」と評するようになるのですから、世の中、わからないものです。
・・・そんな、天皇交代劇に不満ムンムンの崇徳上皇・・・案の定、翌・保元元年(1156年)に鳥羽上皇が亡くなると、わずか9日後に保元の乱(7月11日参照>>)が勃発するのです。
しかし、すでにここで、後白河天皇は、武士勢力を巧みに操る腕前を発揮・・・後白河天皇と関白・藤原忠通は、崇徳側についた武士勢力よりも、一つ若い世代の武士勢力である源義朝(みなもとのよしとも)や平清盛を味方につけ、崇徳上皇のクーデターを粉砕します。
敗れた崇徳上皇は、讃岐(香川県)に流され、失意の最期を遂げます(8月26日参照>>)。
その後、保元の乱で功績のあった者を重用し、荘園整理を行うなどの新制度を整えたと思ったら、即位から四年目にして、さっさと息子に皇位を譲り、自らが院政を開始するのです。
しかし、ここにも、微妙な力関係が・・・
なんせ、先ほど書いたように、もともと、後白河天皇をすっ飛ばして、二条天皇の即位を望む声があったくらいですから、当然の事ながら、二条天皇の代になっても、未だ後白河さんが権力を握る事を、好ましく思わない人がいるわけです。
そんな二条天皇の側近に、武士勢力がからんで、再びのクーデター・・・これが、平治の乱(12月9日参照>>)です。
しかし、ここでも、相手方を圧倒・・・藤原信頼(のぶより)と源義朝は敗れ、後白河さんに味方した平清盛による平家全盛の時代へと移ります。
しかし、あまりにも強大となった平家・・・治承元年(1177年)には、後白河さん自らが鹿ヶ谷の陰謀(5月29日参照>>)を張りめぐらしますが、これは未遂・・・
ところが、清盛が勢いに任せて、自らの孫をわずか3歳で安徳天皇とした事で、不満を持った後白河さんの息子・以仁王(もちひとおう)が源頼政(よりまさ)とともに挙兵(4月9日参照>>)・・・これは、失敗に終るも、かの以仁王の令旨(りょうじ・皇族の命令書)を受け取った源氏の生き残りが立ち上がり、ご存知、源平の合戦となるのです(平清盛と平家物語の年表を参照>>)。
この源平の戦いの中でも、木曽義仲が京に入るとなれば義仲の元へ行き、源頼朝が立てば頼朝に義仲追討を命じ、平家を倒した源義経が京に戻れば官位を与え、それに頼朝が怒れば、今度は、頼朝に義経追討の命令を出す・・・と、ものの見事に、それぞれの勢力を手玉にとってくれます。
あまりに、その登場回数が多いため、この1ページでは書ききれず、いずれまた、その時々でご紹介させていただく事になろうとは思いますが、即位の時には「能もなく芸もない」と言われた後白河天皇・・・まさに、自分自身で、その評価が間違いであった事を証明してくれましたね。
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コメント
こんにちわ~、茶々様!
今日は後白河天皇ですね~!
私のイメージとしては・・・この方、あっちについたり、こっちについたり・・・そんで平家を源氏と一緒に倒した後も、今度は源氏を・・・常に戦乱呼び込み権力を得ようとしているイメージが。何、してるのかな?結局、何がしたかったのかな?といつも思ってしまいます。権力を得ることが全てではなく、太平の世を作ることが時の権力者の仕事だと思っているのですが。
投稿: DAI | 2009年10月26日 (月) 13時16分
この後白河法皇という人は、まさに貴族社会の「最後の輝き」と言う人で、法王崩御の後にほどなく、源頼朝が将軍に就任。
もっとも、既に白河法皇の晩年には「源平の2大勢力」が、朝廷に台頭していたんですがね。
現在の政界でも「キングメーカー」と言われた人は、若い時代の評判が低い(期待が低い)と言う事が、よくある様です。
投稿: えびすこ | 2009年10月26日 (月) 17時35分
こんばんは。
後白河法皇は陰謀家というイメージが強いですが、当時の院政を執る法皇としては白河・鳥羽に比べると悪条件が多い中頑張ったという部分も見逃してはいけないと思います。
というのは、茶々さんも書かれていた通り「中継ぎ即位」で天皇及び院としての正統性が薄く
なおかつ、鳥羽院の頃院政の経済面を大きく支えていた鳥羽院領の殆どが後白河法皇の異母妹八条院に相続されることとなり
後白河法皇自身のの経済的基盤も弱いものでした。
さらに鳥羽院までそれなりの役割を演じていた摂関家の力が保元の乱を機にがた落ちし、その摂関家の凋落の影響で宮廷社会の秩序が混乱に陥っていました。
そのような不安定な中で院政をとらざるを得なかった後白河法皇。
それに追い討ちをかけるかのような武士達の勃興と没落の嵐。
そのような状況下後白河法皇はかなり健闘されていたのではないかと私は思っています
並みの方ではとても乗り越えられる時代ではなかったと思います。
そのような動乱の時期に、何度も幽閉されたり政敵と戦ったりしながら法皇として君臨した法皇は
並みの方ではなかったと思います。
普通の時代だったらとても「帝王の器」ではなかったかもしれませんが、あの異常な時代を生き抜くには必要な資質をお持ちになっていた方かもしれないと私は思います。
また謀略だけではなく、今様の師の死を心から悲しんだり、再建されようとする東大寺の大仏開眼の儀式は危険をおかしてまでも儀式を決行するなどのエピソードもあり
とても複雑な面をお持ちの方だったのではないか、とも思います。
長文失礼しました。
投稿: さがみ | 2009年10月26日 (月) 18時26分
DAIさん、こんばんは~
>結局、何がしたかったのかな?
そうですね・・・
なんとなく、あっちについたりこっちについたりしているようですが、やっぱ、一番の目的は、天皇家の権威を維持する事ではなかったか?と思います。
鎌倉の武士政権に対しても、なんとかその権威が維持できた事で、この後の、室町~戦国~江戸と、武士台頭しても生き残っていけたのではないかと・・・
投稿: 茶々 | 2009年10月26日 (月) 19時08分
えびすこさん、こんばんは~
>「キングメーカー」と言われた人は、若い時代の評判が低い
やっぱ、その素質が他とは違うんでしょうね
投稿: 茶々 | 2009年10月26日 (月) 19時19分
さがみさん、こんばんは~
さすが!お詳しいですね~
そう言えば、宮中で、一度耐えていたお正月行事を復活させたのも後白河天皇ではなかったでしょうか?
文化的にも、とても重要な天皇でしたね。
投稿: 茶々 | 2009年10月26日 (月) 19時22分
「文にも武にもあらず。能も芸もなし」
ではなく、
「文に依りて武を転がし、策を能として謀を芸となす」
・・・だったと?
投稿: 黒燕 | 2009年10月26日 (月) 22時05分
黒燕さん、こんばんは~
>文に依りて武を転がし、策を能として謀を芸となす
そうなんですか・・・
ご指摘の部分は、確か「保元物語」にあった記述ですが、原文は手に入らなかったので、現代語訳を複数拝見させていただいたところ、ほぼこのように訳されていたので、そのまま引用させていただきました。
また、「平治物語」では信頼に対する評価として同じような書き方がされていますので、人の悪口を言う際のこの頃流行りの言い回しなのか?とも思っています。
投稿: 茶々 | 2009年10月26日 (月) 23時02分
後白河が再建を指示した鎌倉時代の東大寺大仏殿。再建を指揮した重源の像が、近々公開されるらしい。これは行くど~!
投稿: 大仏様 | 2009年10月27日 (火) 00時15分
大仏様さん、こんにちは~
重源上人像の公開は、毎年7月5日と12月16日ですね。
12月16日は良弁さんや執金剛さんの公開もあるのでラッキーです。
追記:ついつい東大寺に行くことを考えてしまいましたが、考えてみたら、そうとは限らないですね。
重源上人像は国宝なので、それをメインに特別展という事も考えられますね・・・もし、別の日づけだったら、失礼しました<(_ _)>
投稿: 茶々 | 2009年10月27日 (火) 08時47分
はじめまして
平家物語を読んでいて後白河すごいぞ と興味を持ち検索して辿りつきました
とてもわかりやすい説明ありがとうございます
天皇が ややこしくて苦労していましたが すっきりしました
投稿: れいな | 2010年2月 9日 (火) 18時59分
れいなさん、コメントありがとうございます。
お役にたてたらウレシイです。
投稿: 茶々 | 2010年2月 9日 (火) 20時38分
茶々さん、こんばんは。
木曜日から和歌作りをしています。
皆下手な歌ばかりですが、今日母の里の秋祭り後今様みたいに連続で和歌が出来ました。それも私の頭の中では今様になっていました。
その体験から言いますが朝から晩まで狂うくらいに歌えるとは物凄い才能です。
能ある鷹は爪を隠すですが私は後白河院のお蔭で和歌作りできたと思うくらいに今様みたいな歌が出来ました。
本来の若にほど遠いが連続でつないだ歌詞みたいでした。
そんな方でなければ混乱の平安末期から鎌倉への綱渡しが出来なかったと思います。
大天狗最初の感じ嫌な奴体験すれば凄まじき方。と言う和歌を後白河院に捧げたいと思います。
最後に後白河院関係は京都だとどこが良いでしょうか。
投稿: non | 2015年10月11日 (日) 20時31分
nonさん、こんばんは~
ベタですが、やはり三十三間堂ではないでしょうか?
あのあたり一帯は蓮華王院という後白河法皇の住まいで、当時の三十三間堂は、その敷地内に建てられたお堂でしたから…
道を挟んだ向かい側には、御陵のある法住寺もありますし…
投稿: 茶々 | 2015年10月12日 (月) 03時33分
茶々さん、こんにちは。
知人に三十三間堂周辺、比叡山に行きませんかと提案しました。
良き回答があったら嬉しいです。
今日も法皇様の偉大さを今様すると体にしみる。
と言う和歌ができました。
後白河院に捧げます。
投稿: non | 2015年10月12日 (月) 15時12分
nonさん、こんばんは~
三十三間堂の北側に法住寺、そのお隣には関ヶ原での落城時に鳥居元忠らの血で染まった伏見城の床板を使用した「血天井」のある養源院もありますし、博物館も近いです。
ご参考に本家HPの京都歴史散歩「七条通りを歩く」のページを貼っておきます↓
【京都歴史散歩:七条通りを歩く】>>
楽しい旅行になると良いですね。
投稿: 茶々 | 2015年10月13日 (火) 01時43分
茶々さん、こんばんは。
ありがとうございます。七条周辺を歩くのを友人に提案します。
後白河院に一首を捧げます。
うつけ者いるのかいないと言われは法皇様と三重ノ海関。
と言われるくらいに後白河院と三重ノ海は天皇、横綱と目立ちませんが、院や親方になった以降の器は凄いです。でもマスコミ受けは良くないです。もっと魅力を知って欲しいです。
投稿: non | 2015年10月13日 (火) 19時28分
nonさん、こんばんは~
お相撲もお好きなんですか?
楽しい上洛になりますように…
投稿: 茶々 | 2015年10月14日 (水) 01時42分
茶々さん、おはようございます。
私の気持ちが歌っている歌です。
大好きな相撲見ている私には自分自身も戦う感じ。
後白河院には
段々と法皇様の遺徳だと奈良の大寺を見て感じる。
奈良復興は法皇抜きには考えれません。
ところで後白河院の荘園の長講堂が北朝の基盤で妹の八条院の方が南朝の基盤ですね。
当初はそうでないと思いますが、待賢門院系が北朝で美福門院系が南朝かなと感じました。
まあ関係ないでしょうけど・・・
投稿: non | 2015年10月14日 (水) 07時45分
nonさん、こんばんは~
あっ!そうでした!
鎌倉時代に東大寺の大仏が再建された時、その目を入れたのが後白河法皇でしたね。
正倉院には、その筆が今も保管されてますね。
投稿: 茶々 | 2015年10月15日 (木) 01時06分