天皇をお諌めしたい~前原一誠の萩の乱・勃発
明治九年(1876年)10月28日、長州士族による反乱=萩の乱が勃発しました。
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前原一誠(いっせい)は長州(山口県)の下級武士・・・松下村塾(11月5日参照>>)で学んだ後、高杉晋作とともに四境戦争(第二次長州征伐:5月22日参照>>)を戦い、その後の戊辰戦争では北越戦線(4月25日参照>>)で活躍し、その功績で明治新政府では参議となり、後に兵部大輔(ひょうぶたいふ)まで務めますが、軍事に関しての意見が合わず辞職して故郷・萩に戻っていた人でした。
当然の事ながら、中央で活躍した経験のある彼には、新政府に不満を持つ士族の期待が集まりますし、彼自身も、明倫館(旧藩校)などで、政府を批判する時事論を展開し、熊本や秋月の不平士族たちと交流したりもしていました。
途中、そんな前原を心配した木戸孝允(たかよし・桂小五郎)と相談のうえ、同郷の品川弥二郎が、「血気にはやるな!」と説得したりなんかもしています(4月14日参照>>)。
そんなこんなの明治九年(1876年)10月24日・・・熊本城下にて神風連の乱が勃発!(10月24日参照>>)
この時、前原の一派だった玉木正誼(まさよし)は小倉にいました。
松下村塾の創設者だった玉木文之進(ぶんのしん)の養子となったため、彼は玉木姓を名乗っていましたが、実は、あの乃木希典(のぎまれすけ)の弟・・・もちろん、この時は、兄を自分たちの仲間に引き入れるべく、小倉に来ていたわけですが、昨日書かせていただいた通り、乃木は、神風連の乱と連携して起こる27日の秋月の乱の鎮圧に向かう事になります(10月27日参照>>)。
兄の勧誘には失敗しましたが、小倉にいたおかげで、いち早く神風連の乱の勃発を知った玉木は、慌てて萩へと戻り、「神風連が挙兵した!秋月や、その他の同志もこれに応じるらしい」と報告します。
前原は早速、主だった者たちを明倫館に集め、「山口を占領した後、東上して不正を働く政府役人を排除する!」と宣言・・・同時に、側近の奥平謙輔(おくだいらけんすけ)が徳山(山口県徳山市)の同志に、決起を促す使者を派遣します。
27日には、明倫館の門前に「殉国軍(じゅんこくぐん)」の札を掲げ、同志を集め、武器・弾薬の準備を始めます。
一方、前原の様子を聞きつけた山口県令・関口隆吉(たかよし)は、側近の百村発蔵を現地に派遣し、「九州はすみやかに鎮圧されたから、すぐに解散せよ」との命令を下します。
これに対して、前原は、とりあえずは「OK!わかりました~」と、従順な態度の返事をしておいて、一方では「向こうにバレた以上は、山口への進軍を中止し、直で山陰道を東上する」と密かに方針転換します。
かくして明治九年(1876年)10月28日、前原のもとに集結した約1500名が気勢を挙げます・・・萩の乱の勃発です。
翌・29日の午前2時に明倫館を出発した彼らは、その日は行く手を阻む者には遭遇せず、戦闘がないまま、翌・30日には須佐(萩市須佐)まで到着します。
ここで、陸路と海路に分かれて、さらに東の浜田(島根県浜田市)を目指す手はずでした・・・が、出発直前、ニュースが舞いこ込んできます。
「萩に残った家族が虐待されている」
「反対勢力に明倫館が占拠された」
実際には、これは誤報だったのですが、そうとは知らない彼らの間には、動揺が走り、このままの東上は不可能であると判断した前原は、一旦、海路にて萩に戻る事に・・・
この誤報の出所は、やはり県令・・・もちろん、家族を虐待したりも、未だ明倫館を占拠したりもしてはいませんでしたが、県令の関口が30日に萩に入ったのは事実、すでに、政府側が騒動を鎮圧すべく動いていたのも事実でした。
翌・31日、急遽引き返して来た前原らが、船にて上陸し直行した先は、関口のいる役所・・・いきなりの奇襲攻撃をかけられ、関口は命からがら脱出します。
初めて行われた萩での市街戦・・・午後には、萩の中心である橋本大橋を挟んでの激戦となります。
この戦いで、かの玉木が銃弾に倒れて戦死・・・徐々に形勢が不利となった前原らは、とりあえず、この場を側近の1人である小倉信一(おぐらしんいち)に任せ、自らは、わずかの人数で東上を続けるべく、海路、須佐へと戻る事にします。
残った小倉らは、翌日も戦闘を続け、一進一退の激戦をこなしますが、11月5日には、政府軍に援軍が到着し、翌・6日からは総攻撃が開始され、そうなると、わずかの人数の彼らはひとたまりもなく、散り散りに逃走・・・ある者は身を隠し、ある者は逮捕され、8日には、すっかり鎮圧されてしまいました。
一方の前原らも、5日に出雲にて逮捕されてしまいます。
松山へと護送され、取調べを受ける前原・・・
しかし、ここで、かすかな希望がつながります。
島根県令の佐藤信寛です。
彼は、
「君らが、島根で逮捕されてくれた事は幸いや。
僕に、まかしといてくれ。
君らを東京へ護送して、天皇へ訴えるチャンスを与えたい」
と約束するのです。
そう、実は、挙兵の際、前原はこの乱を決起するにあたっての声明文を発表していたのです。
「最近の争乱は、よこしまな心を持ち不正を働く政府の役人に対する怒りが爆発した物や。
僕は、田舎者やけど、民衆が苦しんでるのを見過ごすなんて事はでけへん。
山陰道を東へ進んで上京し、誠意を持って天皇をお諌めしたいんや。
もし、僕らの意見を聞いてもらわれへんかったら、死を以って、その意志を伝える。
あえて、戦いはしたないけど、行く手を阻む者あれば、蹴散らして前へ進むのみや!」
佐藤は、この声明文を読んだのかも知れません。
さらに、前原は、今回の戦線離脱も、逃亡したのではなく、そもそもの挙兵が国を正さんがためのもので、朝廷への叛逆の意味ではない事を上京して訴えるためであった事を佐藤に告げます。
やはり、この萩の乱もそうでした。
武士の特権を奪われた事で、「もとの徳川の時代のほうが良かった!」などの不平不満だけで反乱を起したのではなく、墜落の一途をたどり、腐敗する新政府への激しい怒りが、そこにあったのです。
記録によれば、現在のお金にして数百億円もの公金を、私的に流用した者もいたようですから、島根県令の佐藤のように、同じ新政府の者から見ても、前原らの怒りが理解できたのかも知れませんね。
はてさて、この先、前原の願いが叶えられるのかどうか、気になるところではありますが、そのお話は、更なる展開がある12月3日のページへ>>。
ところで、神風連→秋月→萩と来た不平士族の反乱・・・ご存知のように、最終かつ最大の反乱=西南戦争(1月30日参照>>)へと向かう事になりますが、実はその前に、もう一つ・・・
この萩の乱と同調していたであろう反乱が東京で勃発する・・・・はずでした。
思案橋事件と呼ばれるそのお話については、勃発する明日、10月29日のページへどうぞ>>
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コメント
茶々様、こんにちわ~!
私、幕末が大好きなんですが維新後のゴタゴタは知りません。が、このブログによって勉強させていただいています。
まぁ、維新後に士族が反乱を起こしたのは知っていましたがその理由は武士の特権をはく奪されたから・・・と思い込んでいましたが、政府内での腐敗があったんですね・・・初耳・・・しかし、先日の岩崎 弥太郎に『ドーン』と船をくれてやったり、まぁ世の中の仕組みが180度 変わるときのゴタゴタに乗じて腐敗があったんですかね?しかし私が思うのは不満が募ったのは『お高知などの上流武士だったのでは?』と思ったりもします。足軽はもともと貧乏だし、時代が変わっても貧乏。なら、お高知のような高給取りの方が不満があったのかな?なんて思ってしまうんですが・・・爆発した新風連の乱・萩の乱・秋月の乱の中心士族は上流武士が多いのですか?よろしければ教えてください
(*_ _)人
投稿: DAI | 2009年10月28日 (水) 14時05分
DAIさん、こんばんは~
新政府の中核にいて贅沢三昧してた人は、もともと下級武士の人が多かったので、それに対する不満もあった事はあったようですが、実際に首謀者となった人のメンバーを見てみると、けっこう身分の低い人も大勢いますので、特に上級の人が多かったという事はないように思います。
結局は廃刀令とか秩禄処分とかが引き金にはなっていますが、彼らが政府に敵対するようになるのは、もっと以前からなので、贅沢・貧乏というよりは、政治そのもに不満があったんでしょう。
これらの士族の反乱は、最終的には西南戦争へと行きつくわけですので、あの規模を考えると、もう、下級だの上級だのというのは、あまり関係なかったのかな?とも思います。
投稿: 茶々 | 2009年10月28日 (水) 21時21分