東京で起こった士族の反乱~永岡久茂の思案橋事件
明治九年(1876年)10月29日、昨日勃発した萩の乱に同調した永岡久茂らが、東京の思案橋に集結中にて逮捕された事件・・・思案橋事件がありました。
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ここんとこ、連日のように書かせていただいている明治維新後に起こった士族の反乱・・・
まずは、明治七年(1874年)に勃発した江藤新平の佐賀の乱(2月16日参照>>)ですが、こちらは、大きな反乱ではありましたが、その後の乱との連動ではなく、単発・・・
ただ、この最初に起こった佐賀の乱から、最終段階で最大の反乱となる西南戦争(1月30日参照>>)まで、いずれも、単に武士の特権を剥奪されたという不満だけではなく、腐敗し、墜落してゆく新政府に対し、その道を正すべく立ち上がった不平士族による反乱という点で一致する事は確かです。
そして佐賀の乱から二年後の明治九年(1876年)、今度は、連携した者同士・・・いわゆる同時多発テロが決行されるわけです。
10月24日、熊本の神風連の乱(10月24日参照>>)
10月27日、福岡の秋月の乱(10月27日参照>>)
10月28日、山口の萩の乱(10月28日参照>>)
・・・と、歴史年表などでは、ほとんどこの3つの乱が立て続けに書かれているわけですが、実は、もう一つ、萩の乱の翌日に、東京で決起した人たちがいたのです。
その人数も少なく、未遂に終ってしまったために、あまり扱われる事はありませんが、明らかにこの3つの乱と連動した士族の反乱であったのです。
それは、昨日書かせていただいた萩の乱の主役である前原一誠(いっせい)・・・彼は、この萩の乱勃発の前年に、同郷の木戸孝允(たかよし・桂小五郎)に呼ばれて東京へ行き、再び政府で働くよう頼まれますが、結局、その話を蹴って萩へと戻っています。
その時、東京に滞在中の前原に数度の面会した人物・・・それが、本日の主役・永岡久茂です。
おそらく、その時に、何等かの密約をかわしたものと思われますが、そんな永岡・・・実は、あの戊辰戦争の時は、北越戦線で大活躍した前原と、真っ向から戦った会津の人です。
まさしく「昨日の敵は今日の友」・・・
天保十一年(1840年)、若松城下に生まれた永岡は、17歳で日新館(会津藩校)に入学し、翌・18歳で大学へ・・・豪快で明朗で、弁も立ち、秀才の誉れ高い少年でした。
戊辰戦争の時は、会津が戦場になる前から北越へとおもむき、あの長岡藩家老・河井継之助(5月13日参照>>)にも協力し、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)の締結にも尽力しました。
その後、会津が戦場となり、もはや風前の灯火となった9月に、あの榎本武揚(えのもとたけあき)が艦隊を率いて北上途中に立ち寄った時(10月20日参照>>)、「まだ、あきらめない!」と言わんばかりに、その榎本から兵を借りて一戦を交えた事もありました。
しかし、ご存知のように会津は敗れます。
会津藩主・松平容保(かたもり)に領地没収の処分を下した明治新政府は、容保の息子・容大(かたはる)に家名再興を許し、「猪苗代(いなわしろ)もしくは下北に3万石の領地を与える」としましたが、この時、「猪苗代にしよう」という町野主水(もんど)らに対して、山川浩(大蔵)らとともに、下北半島への移住を主張したのも永岡でした。
最終的に下北への移住が決まり、斗南(となみ)藩と名を改めた会津の国替えは、「全藩流刑」と称されるくらい過酷なものでしたが、そこで永岡は小参事となり、藩政に尽力します。
しかし、やがて迎えた廃藩置県(7月14日参照>>)で藩は消滅・・・その後、田名部(たなぶ)支庁長を命じられますが、間もなく辞職して、東京にて「評論新聞社」を立ち上げます。
そう、ここで永岡は、言論によって政府と対抗する事を考えたのです。
「薩長は王政復古の名を借り、幕府を倒して政権を握りながら、私利私欲に走り、墜落し、あまつさえ外国の奴隷のようだ」
などと、政府批判の記事を書き、何度も発禁処分を喰らいますが、これが、なかなかスルドイ意見を展開してくれます。
その才を生かしてもらおうと、伊藤博文や井上馨(かおる)といった面々が、再三に渡って政府への出仕を要請しますが、彼は断り続け、言論での戦いに没頭します。
しかし、そんな永岡もいつしか・・・
「言論を以って矯正するのはムリかも・・・こうなったら、力を以って政府を転覆させるしかない」
と考えるようになっていくのです。
それが、前原らと同調する事でした。
明治九年(1876年)10月29日、永岡をはじめとする旧会津藩士などの士族・13名は、東京・思案橋(中央区日本橋小網町・現在、橋はありません)に集合し、千葉県は登戸(のぶと)に向けて船を出そうとしていたところを見咎められ、現場に駆けつけてきた警察官らと斬り合いになってしまったのです。
彼らの計画では、千葉県庁を襲撃した後、佐倉鎮台を襲い、日光あたりで同志を募って人数を増やし、皆で会津へと押し寄せるつもりでした。
しかし、結局、13名のうち永岡ら4名がその場で逮捕され、残りは、一旦逃走を計り、そのうちの何人かは新潟まで逃げ延びたりもしますが、結局、全員捕縛されてしまいます。
しかも、その時の闇夜での斬り合いにて負傷した永岡は、翌年・1月12日に獄中にて死亡してしまいます。
未だ38歳の志半ばでした。
ちなみに、あの時、斗南藩の再出発で、ともに永岡と奔走した山川は、廃藩置県後に政府に出仕し、佐賀の乱や西南戦争で武功を挙げました。
まさしく「昨日の友は今日の敵」・・・
ただ、山川の場合は、佐賀は肥前、鹿児島は薩摩という事で、その戦いを会津の亡き友の復讐ととらえていたところもあるようで、それぞれの敵味方を単純に論じる事はできないようです。
ともに故郷の亡き友を思い、
ともに日本の明日を憂いていた者同士・・・
少し、やるせない思いのする一連の士族たちの反乱です。
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コメント
実は私、思案橋事件については、2013年の大河ドラマ「八重の桜」を見るまでは、全く知りませんでした。しかも、永岡久茂という人物が、旧会津藩士の1人であることも知りませんでした。ただ、久茂としては、佐賀の乱などに乗じて、士族反乱を引き起こすことで、戊辰戦争の時の鬱憤を晴らそうとしたのかもしれませんが、未遂に終わってしまったことを考えると、政府の対応が素早かったのでしょう。久茂のように、旧幕府関係者・旧会津藩の人々らの中に、僅かながらとはいえ、士族反乱を引き起こそうとした人がいたというのは、意外でしたね。くどいようですが、旧幕府関係者らのほうが、我慢強かったのではないかと思います。
投稿: トト | 2015年10月 3日 (土) 10時13分
トトさんmこんばんは~
もちろん、旧幕府関係者らが我慢強く無いというわけでは無いですが、やはり、勝者と敗者は同列には語れない物のような気がします。
古代においても…聖徳太子に負けた物部氏は、戦後には一族もろとも四天王寺をはじめとする蘇我氏の奴隷とされました。
それが戦争の定番です。
負けた側は、そうして我慢強くならなければならないし、我慢強く生きながら再起のチャンスをうかがうわけで、
一方の勝者は、戦後は一族もろとも良い思いをするのが当然で、だからこそ命をかけて戦うんだと思います。
今回の思案橋事件は、勝者と敗者の不満の内容は違えど、「新政府に不満がある」という点で一致し、連動したという事なのだと思います。
これは、明治という世は、例え敗者であっても不満を持てば挙兵できるチャンスがあるほどに、もはや先の戊辰戦争での勝者の特権が無かった?とも言えるわけで、そんな世の中って、命がけで戦って勝者となった官軍の兵士たちにとっては、むしろ「あの戦いは何だったんだ?」って不平につながったような気がしないでもないです。
もちろん、そこはそんなに単純な物ではなく、複雑な要因が様々に絡んでいるとは思いますが…
投稿: 茶々 | 2015年10月 4日 (日) 01時49分