福岡で起こった士族の反乱~秋月の乱
明治九年(1876年)10月27日、不平士族による反乱・秋月の乱が勃発しました。
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元来、合戦というものは、戦いで武功を挙げた者に恩賞が与えられるものでした。
それがあるからこそ頑張れるし、それがあるからこそ命をかけて戦う意味もあったわけですが、その定義がくつがえされたのが明治維新でした。
明治四年(1871年)に新政府が断行した廃藩置県(7月14日参照>>)によって藩という物が無くなり、政治のもろもろは官吏へ、明治六年(1873年)に発令した徴兵令で国民皆兵(かいへい)となり軍事も、広く国民全員から徴集する事に・・・
維新に貢献したと言われる薩長土肥(さっちょうどひ:薩摩・長州・土佐・肥前)の武士たちにとっては、戊辰戦争を戦いぬいた勝利者であるにも関わらず、恩賞どころか、政治と軍事という武士の生きる道さえ奪われてしまう事になったわけです。
さらに、政治の中核にあって膨大な富を得て贅沢な暮らしをしている一部の者は、その特権によって得た甘い汁を吸いまくり、腐敗の一途をたどる・・・この報われない状況に不満がつのるのは当然でした。
それに加え、その中央政府でも征韓論による深刻な対立が生まれ、西郷隆盛(さいごうたかもり)・板垣退助(いたがきたいすけ)・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)・江藤新平(えとうしんぺい)・副島種臣(そえじまたねおみ)といった面々が政界を去ります(明治六年の政変=10月24日参照>>)。
その後、西郷は鹿児島にて私学校を開き、板垣は自由民権運動に没頭し・・・と、下野した彼らはそれぞれの道を歩む事になりますが、そんな中の江藤新平・・・
現政権に不満を抱く士族たちを抑えようと故郷・佐賀(旧・肥前)に戻った江藤でしたが、もはや爆発寸前の彼らを止める手立てがないばかりか、政府からの挑発的行為を受け、ついに、明治七年(1874年)2月、最初の士族の反乱である佐賀の乱が勃発します(2月16日参照>>)。
しかし、首謀者と見られる江藤を捕らえた政府は、見せしめとも言える梟首刑(ちょうしゅけい・さらし首)で彼を処刑し、乱を終結させます(4月13日参照>>)。
こうして、断固とした処罰によって不平士族を抑えようとした政府でしたが、明治九年(1876年)3月の廃刀令(刀を持ち歩く事を禁止)、続く8月には秩禄処分(ちつろくしょぶん・元武士への給料停止)を発した事で、不平士族の不満は頂点に達します。
こうして、佐賀の乱から2年後の明治九年(1876年)10月24日、熊本城下で国学講義する林桜園(おうえん)の門徒らを中心に結成された敬神党(けいしんとう)が蜂起・・・彼らが、通称・神風連(じんぷうれん)と呼ばれていた事から、この乱を神風連の乱と言います(10月24日参照>>)。
・・・とは言え、最初こそ気勢をあげたものの、わずか2日で鎮圧された神風連の乱・・・しかし、実は、彼らは無軌道に決起したわけではなく、すでに挙兵の前に他の不平士族に、同時に決起するように連絡をとっていたのです。
そして、3日後、福岡県下で秋月の乱が勃発するのです。
福岡藩の支藩である秋月藩は、5万石の小藩・・・士族は600名ほどでしたが、未だ攘夷思想が根強く残る土地柄で、現政府を「西洋かぶれ」と言って批判してはばからず、同志たちと連絡を取りなから、その決起の時を待っていたのです。
そんな彼らの所へ、かの神風連の乱・勃発のニュースです。
旧秋月藩の士族・磯淳(いそじゅん)、宮崎車之助(くるまのすけ)、今村百太郎(ひゃくたろう)、土岐清(とききよし)、戸原安浦(とばらやすら)らのメンバーを中心に結成された、彼ら秋月党は、早速、現地に蒲池作之進(かまちさくのしん)らを派遣し、様子を探ります。
前半の勢いづく反乱軍を目の当たりにして戻って来た彼らは、「今すぐ、我らも蜂起すべき」と意気を挙げますが、中心人物である磯や宮崎は、「先走るな!少し様子を見よう」と慎重です。
しかし、血気盛んな急進派の今村らは、有志だけを誘って城下の田中天満宮に集結・・・明治九年(1876年)10月27日の朝、挙兵したのです。
彼らの行動を知った磯は、かねてから連携をとっていた豊津(旧小倉藩)の不平士族に連絡し、ともに決起するようにうながしますが、どうやら、豊津の彼らは動かない様子・・・
やむなく、磯と宮崎らも加わり、約240名(諸説あり)となった秋月党は、まずは明元寺(みょうげんじ・朝倉市甘水)にて、警部の穂波半太郎(ほなみはんたろう)を血祭りにして気勢を挙げます。
ちなみにこの穂波さんは、日本で最初の警察官の殉職として記録されているのだとか・・・
そして、秋月街道を通って、かの豊津へと向かいます。
もちろん、合流して直接彼らに決起を迫るためです。
翌・28日、豊津に到着した彼らは、早速、豊津の士族らに面会しますが、彼らは、なんだかんだと理由をつけて、はっきりとした意見を避け、チンタラチンタラと、ただ実のない話し合いに終始し、いっこうに結論を出しません。
・・・と、実は、この豊津・・・すでに、穏健派がその主導権を握っていて、秋月党とともに決起しない事が、決定していたのです。
なのに、ダラダラと・・・なんと、それは、時間稼ぎだったのです。
すでに、この秋月党の行動を政府側に報告し、小倉鎮台(政府軍)に出動の要請をしていて、その政府軍の到着を待っていたのでした。
そうとは知らず、夕刻まで話し合いを続けていた秋月党・・・気づけば、周囲を小倉鎮台兵に囲まれてしまっています。
「農民あがりの鎮台兵に、武士の我らが負けてなるものか!」と奮起する秋月党でしたが、あの乃木希典(のぎまれすけ)率いる鎮台兵は、最新鋭の様式武装・・・その戦いは、もはや、武士が刀を揮う時代ではない事を物語っておりました。
17名ほどの死者を出して敗走する秋月党・・・一方の鎮台兵の死者は、わずか2名でした。
31日、栗河内(くりごうち・朝倉市江川)という場所まで逃れてきた彼らは、もはや数十名に減ってしまっていました。
覚悟を決めた磯は、ここで解散宣言・・・今後は、どのような行動を取ろうとも自由として、自らは、宮崎ら7名とともに、その場で自刃しました。
しかし、未だ徹底抗戦の姿勢を崩さない今村ら27名は、そのまま秋月へと戻り、県の役人たを殺害して逃走・・・
けれども、逃げた彼らも、結局は11月中には拘束され、首謀者らは処刑、その他、約100名ほどが、士族を剥奪され平民へと処分されました。
2年前の佐賀の乱もそうですが、彼ら不平士族は、単に武士の特権を奪われた怒りだけではなく、新政府の腐敗した政治そのものにも、それなりの言い分を持っていた人たちですから、もう少し何とかならなかったのか?と、ちょっとはがゆさが残る結末となってしまいましたが・・・
ところで・・・
実は、神風連と連絡を取っていたのは、彼ら秋月党だけではありません。
もう、すでに、水面下で動き始めていたのは、それこそ維新の中心であった長州の出身者たち・・・そんな彼らの行動が、翌日の10月28日、表面化します。
萩の乱が勃発します(明日のページへ>>)。
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