応仁の乱・激戦~相国寺の戦い
応仁元年(1467年)10月3日、11年に渡る応仁の乱での相国寺の戦いが勃発しました。
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室町幕府・第8代将軍の足利義政の後継者を巡っての争い(1月7日参照>>)に、管領家の畠山氏と斯波(しば)氏のそれぞれの後継者争い、そこに、それぞれを支持する地方大名たちを巻き込み、東西に分かれて争われた応仁の乱・・・
最初の衝突は、その畠山氏の畠山長政と畠山義就(よしなり)のいとこ同士の争い=御霊合戦からでした(1月17日参照>>)。
そのおおまかな流れは、義政の弟・足利義視(よしみ)に味方した細川勝元(東軍)が花の御所に・・・
義政の息子・足利義尚(よしひさ)についた山名宗全(持豊・西軍)(3月18日参照>>)が自宅・西陣に・・・
・・・と、わずか数百メートルの近さの場所に陣を構えてにらみ合った事で、応仁の乱が勃発(5月20日参照>>)・・・と書かせていただきましたが、今回は、その中で、最も激戦となった相国寺の戦いを・・・
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勝元が花の御所を占拠し、将軍・義政から「山名追討」命令を得た事で、東軍が「官軍」、一方の西軍が「賊軍」となったわけですが、この影響からか、西軍からは、東軍に走る者や降伏する者、陣を離れて自宅に引きこもる者が続出しますが、宗全は、未だ上洛していない大名に呼びかけ、戦力を増強を図ります。
その甲斐あって西国の雄・大内政弘が西軍に加わって士気もあがり(10月2日参照>>)、京都各地で転戦しますが、今度は、東軍の総大将であった義視が職場放棄してトンズラするという大事件が(11月13日参照>>)・・・これで、東軍の士気が、一気に下がります。
そんな中で行われたのが相国寺の戦い・・・
応仁元年(1467年)10月3日、西軍の畠山義就と朝倉孝景が、相国寺に陣取る武田信堅(のぶかた)を攻撃します。
1日目は、相国寺・惣門で激しい戦闘が繰り広げられ、西軍に圧され気味の東軍は、一旦退却・・・この日の西軍は、討ち取った首を8輌もの車に積み込んで、意気揚々と西陣へ帰還します。
2日目は、「昨日の仕返しだ!とばかりに、東軍・畠山政長が必死の反撃で巻き返し、西軍・6000人の兵士を討ち取ります。
「応仁記」によれば、この日の戦いは、西軍の一色義直(よしなお)の兵が相国寺内の蓮池のそばで、多くの死亡者を出した事から、蓮池頽(くず)れと呼ばれたと言います。
この戦闘で三日三晩、燃え続けた相国寺・・・最終的に、焼け跡に孝景が陣を取る事で、相国寺の戦いは一応の終結となしました。
しかし、結局は、占拠・奪回を繰り返し、双方ともにダメージを受けただけのような戦いでした。
このダメージが大きかったのか、この後、翌年の春まで、戦闘状態は小競り合い程度の中休・・・5ヵ月後の稲荷山攻防戦(3月21日参照>>)となります。
・・・と、ここで、今回の相国寺の戦いで活躍する朝倉孝景さん・・・
けっこう最近、どこかでお名前を見たような・・・
そう、9月23日の【織田・朝倉連合軍VS斉藤道三~井ノ口の戦い】の時に、織田信秀と連合を組んで、斉藤道三を攻めた・・・(9月23日参照>>)
実は、その時の孝景さんの、ひいオジイチャンが本日の孝景さんです。
本日の孝景さんが朝倉氏7代目で、区別するために英林孝景・・・先日の孝景さんは10代目で宗淳孝景と呼びます。
ちなみに、本日の英林孝景は、なかなか魅力的な人物で、いわゆる、私たちが思い描く戦国大名のイメージ・・・そのイメージを持った最初の人ではないかと思います。
山名氏や細川氏のような守護大名的なイメージではなく、いわゆる策略と才知で下克上をのし上がっていく戦国大名のイメージ・・・
ではありますが、やはり魅力的ゆえ、たくさん書きたい事がありますので、本日の場合は、このへんで・・・いずれ、その魅力的な戦国武将ぶりをご紹介させていただくつもりですので、今、しばらくのご猶予を・・・。
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コメント
茶々さん、こんばんは!
応仁の乱からいよいよ戦国マッチレースの開催ですね。
ここから、1615年までの大阪の役まで150年間過酷な戦国の世になるんですね。
でも、この応仁の乱ほど上杉謙信ではないですが、義が見当たらない戦はないと思うのですが。
もともと足利の内紛で、そこに将軍の優柔不断が大名の内紛まで起こして戦になるのですから。
本当に茶々さんが書いた通り不思議な戦ですね。
民にとってはたまったもんではないでしょうね。
それに、きっとこの乱で京都の貴重な史跡や文書はずいぶん無くなったでしょうから。
優柔不断な経営者に気が強い女房がいたらお家騒動の火種が大きくなるという典型的パターンですね。
投稿: シンリュウ | 2009年10月 4日 (日) 00時00分
シンリュウさん、こんばんは~
本当に大迷惑ですよね~
少し離れた所では醍醐寺なんかもありますが、市街地で火災を免れたのは、山名宗全の息のかかった千本釈迦堂だけでしたから・・・
多くの文化財が失われて、とても残念です~。
投稿: 茶々 | 2009年10月 4日 (日) 01時04分