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2009年10月13日 (火)

家康に過ぎたるもの~本多忠勝と一言坂の戦い

 

元亀三年(1572年)10月13日、遠江に進出してきた武田信玄と、それを迎え撃つ徳川家康との戦い・・・三方ヶ原戦いの前哨戦とも言える一言坂の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

室町幕府15代将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たし、群雄割拠する中、一歩進み出た感の織田信長・・・。

やがて、自らが天下に号令する勢いを見せる信長に(1月23日参照>>)、将軍のプライドもズタズタの義昭が、全国の大名たちに呼びかけ、それに応じて、信長包囲網とも言うべき連隊関係が敷かれます。

越前(福井)朝倉北近江(滋賀県)浅井(あざい)阿波(徳島県)三好・・・さらに、大坂石山本願寺と、それを支援する西国の毛利・・・。

そんな中、義昭が最も頼りにしたのは、戦国最強ともうたわれた甲斐(山梨県)武田信玄でした。

信玄は、信長が今川義元桶狭間に破った頃には、むしろ友好関係にあり、信長と同盟を結んでいた三河(愛知県東部)徳川家康との協力体制で、義元亡き後の今川に攻め込んだりしてました(12月13日参照>>)、もはや、今川の旧領・駿河(静岡県東部)を手に入れた以上、その先にある更なる土地は、家康の遠江(とおとうみ・静岡県西部)・・・このタイミングでの義昭の呼びかけに、その重い腰を上げ、上洛を決意したのでした(本当に上洛だったか否かについては諸説ありますが…)(12月22日参照>>)

元亀三年(1572年)10月3日に、本拠地・躑躅ヶ崎(つつじがさき)を出陣した信玄は、北条氏政からの援軍・2000を含めた約・2万5000の大軍勢を3つに分け、それぞれ別ルートから侵攻します。

山県昌景(やまがたまさかげ)率いる約5000は、信濃(長野県)伊那飯田方面から三河川沿いに南下・・・奥三河に侵攻して、家康軍を三河東部へとひきつける役割です(10月22日参照>>)

秋山信友率いる約3000は、伊那口から東美濃(岐阜県)へと進み、信長を牽制します。

そして、信玄率いる本隊が、諏訪から高遠を経て、天竜川沿いに南下し、遠江との国境にある青崩(あおくずれ)を越えを越えたのは、10月10日の事でした。

Hitokotozakasinrozucc
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

そこから、さらに南に下り、すでに武田の傘下となっている天野景貫(あまのかげつら)犬居城(いぬいじょう・浜松市)に入り、ここで、兵を2手に分け、一方は二俣城へ・・・そして、信玄の本隊は、さらに南へと侵攻する作戦です。

もちろん、家康も、この信玄の侵攻をただ見守っているいるわけにはいきません

Hondatadakatu600at 3000余りの兵を率いて、自ら浜松城を出陣しますが、まずは、先発した偵察隊見附付近にて武田軍と遭遇・・・小競り合いの中、劣勢を強いられた徳川軍は、退却をはじめますが、この時、殿(しんがり・軍の最後尾)を努めたのが、徳川四天王の1人に数えられた本多平八郎忠勝(ほんだへいはちろうただかつ)です。

何度も言いますが、合戦は攻めるより退却のほうが数段難しく、さらに、その殿は、最も重要で最も危険な役目です。

ただ、この時、最前線にいたのは偵察隊ですから、もちろん、忠勝も、はじめは家康の本隊近くにいたわけで、まずは、家康に形勢の不利を伝え、退却をうながしますが、やはり、最前線の兵士たちを見殺しにする事はできません。

忠勝は、急ぎ、最前線に赴いて、撤収をはかろうとしますが、すでに、武田軍に追いつかれ、見附の西方・一言坂(ひとことざか)にて、今、まさに、本格的な戦闘が開始されようとしていたのです。

両者の距離は、わずか20m・・・そのわずかの場所に、ただ一騎で躍り出たのは、黒糸の鎧に、鹿角の兜を身につけた忠勝!

まずは、味方のほうに向けて「撤収~!退け!」と叫び、今度は、馬を反転させて、堂々とした姿で敵を睨みつけ、蜻蛉切(とんぼきり)の鑓を高くかざします。

この大胆不敵で気迫に満ちた忠勝の行動に、武田軍は唖然とし、一瞬、何もできなかったと言います。

こうして、偵察隊の兵を押し戻した忠勝は、自らが殿となり、撤退を開始するのです。

追いすがる武田の兵には馬を返して戦い、配下の鉄砲隊が火を吹けば、再び撤退を開始する・・・幾度となく、そんな戦いを繰り返しながら、やがて、天竜川を無事に渡河し、なんとか、武田の兵をまく事に成功しました。

戦闘を終えて、家康の前に現れた忠勝・・・指物はボロボロにちぎれ、鎧には5本の矢が刺さり、顔は真っ黒に汚れてはいたものの、一つの傷も負っていなかったのだとか・・・

忠勝の無事な姿を見た家康は、
「お前・・・ホンマ、最高やで!」と、大喜び!

しかし、この時の忠勝の戦いぶりを見て、感激したのは、家康だけではありませんでした。

最初に現れた時の気迫に満ちた態度、決死の覚悟で殿を努めたその姿は、信玄の家臣の心も揺さぶりました。

信玄の旗本・小杉左近が言います。
♪家康に 過ぎたるものが 二つあり
  唐の頭
(かしら・兜)と 本多平八 ♪

そうなんです。

皆さん、よくご存知の、忠勝の素晴らしさを象徴する、この言い回し・・・これは、忠勝の、この一言坂での戦いぶりを見た武田の家臣の言葉でした。

本多忠勝・・・25歳の時の出来事。
「惚れてまうやろ~(*゚ー゚*)」

この後、戦いは、かの三方ヶ原(12月22日参照>>)へと向かいますが、その前に、武田勝頼による二俣城の攻防戦もどうぞ>>
 .

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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

茶々様、おはようございます。
>「惚れてまうやろ~(*゚ー゚*)」
はいっ、ベタ惚れでございます!
しかし陪臣の悲しさ、あまり取り上げてもらえないのが残念です(某ゲームでは、かなり強いキャラクターとして一定の人気とか、やってないので存じませぬが)。
次の戦いに臨むためには生きて帰らねばなりません。
一言坂の見事な殿の働きは、祖父も父も叔父も、みんな松平(徳川)のために戦って散って行った忠勝なればこそ、と思います。

投稿: おきよ | 2009年10月13日 (火) 09時16分

おきよさん、お早うございます。

ほんと・・・惚れてまいますね~

>某ゲームでは、かなり強いキャラクターとして・・・

強さは天下一品でしょう。
そのぶん、文治派にはなれなかったかも知れませんが・・・

やっぱ、カッコイイです~

投稿: 茶々 | 2009年10月13日 (火) 10時07分

はじめまして。
いつも楽しく拝読させていただいています。

今回の本多忠勝の話、うれしかったです。
ホント「惚れてまうやろ~」と叫びたい。

実は私の出身中学の校章がこの兜の鹿角。
愛着も人一倍です。
なにかと人気の無い徳川勢ですが、地元民としては複雑。
茶々さんの書かれる文には好き嫌いからの偏りを極力出さず、公平に見ようとする姿勢がとても素敵です。

これからも色々な歴史のお話を楽しみにしています。

投稿: | 2009年10月13日 (火) 10時37分

すみません、先のコメントに名前を入れ忘れました。
こくたからと申します。
宜しくお願い致します。

投稿: こくたから | 2009年10月13日 (火) 10時39分

茶々様、こんにちわ!
今日は本多忠勝・・・
<「惚れてまうやろ~」
いや、既に惚れてますヾ(´ε`*)ゝ
ゲームでも人気がありますが武田 信玄、織田信長、豊臣 秀吉らの超VIPにも人気があって羨ましすぎる!!
小牧・長久手の戦いでは秀吉が忠勝を打ち取るのがもったいないと 助命した話なんか有名ですよね!あと真田幸村?信之?の奥さんが忠勝の娘じゃなかったでしたっけ?


なにはともあれ「惚れてます!」

投稿: DAI | 2009年10月13日 (火) 14時06分

こくたからさん、こんにちは~

>出身中学の校章が・・・

忠勝のゆかりの地にお住まいなのですか?・・・いいですね。

私も、小・中・高と通った学校の校歌のそれぞれに大阪城が登場しますが、そういうのって、なんか、うれしいですよね。

これからもよろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2009年10月13日 (火) 17時55分

DAIさん、こんにちは~

>信之?の奥さんが・・・

小松姫ですね・・・関ヶ原の前に昌幸・幸村父子を追い返すお話を書かせていただいてます。
(よかったら↓)
https://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2009/07/post-3849-2.html

小牧・長久手の戦いでのお話もそうでしたね。
あと、秀吉がらみでは、小田原の時に、源義経の忠臣・佐藤忠信を兜を与えたって話もありましたね~
どんだけ気に入られてんだ!って感じですが、それだけ、武勇にすぐれた武将だったんでしょう。

「惚れてまうやろ~」ですね。

投稿: 茶々 | 2009年10月13日 (火) 18時09分

三方ヶ原の戦いの前後が、武田家にとっての全盛期と言えます。一言坂の戦いの10年後に武田家が滅亡します。
ただし、「武田信玄一族」そのものは現在まで存続しています。確か末裔が現在甲府市役所の職員とか。
長寿だった家康には幅広い世代の家臣が多く、有能な部下に恵まれました。最晩年の譜代家臣が土井利勝で彼は後に老中になり、13歳年上の大久保彦左衛門引退後の「ご意見番」となります。土井利勝はある意味で、大久保彦左衛門の「一番弟子」かもしれません。
「四天王」の1人・井伊直政の急逝に、若手だった利勝が家康側近になり、創成期の徳川幕府を担い、1世代下の松平信綱や稲葉正勝ら(彼らこそ、私が思う大久保彦左衛門の秘蔵っ子)の手本となります。ちなみに一言坂の戦いの翌年が、お江さんと土井の生年です。

投稿: えびすこ | 2009年10月13日 (火) 21時40分

その某ゲーム、強すぎてとんでもないお姿になっておられるアレのことですね?

何も知らずに見た深夜放送のアニメ版。英語をしゃべる六本刀の独眼竜には何とか耐えましたが、バーニヤを吹かしてカタパルトから発進するタダカツ様(通称ホンダム?)はさすがに無理でした。着地の地響きと一緒に眠気も吹っ飛び、一睡もできませんでしたよ。

ゲームもアニメも専ら若い女性に人気のようですね。ミュージカルにもなるとかなったとか。

ホンダム・・・舞台ではどうするんだろ?

すみません、(実際の)歴史とあんまり関係ないコメントで。

投稿: 黒燕 | 2009年10月13日 (火) 22時04分

本多忠勝…カッコ良すぎな武将!!好きな武将の1人です。
戦国武将1人1人に逸話、武勇伝があって、その武将が『実在した!』と考えると、『戦国時代て、えげつねぇ!!』と鳥肌モンです。
ヒマさえあれば『戦国妄想』している私。本当にこのサイトは大好きです。
『あの武将は~だよね』とか『あの時、あいつが~だったらねぇ』って話し合いたいです。
これからも応援してます!!

投稿: 戦国オタクプー | 2009年10月13日 (火) 23時19分

えびすこさん、こんばんは~

>「武田信玄一族」そのものは現在まで・・・

そう言えば、「トリビアの泉」か何かで、川中島の決着をつけるとか言って、武田の子孫と上杉の子孫の方が、囲碁だったか将棋だったかで勝負してましたね。

その発想にはけっこう笑えました。

投稿: 茶々 | 2009年10月14日 (水) 01時35分

黒燕さん、こんばんは~

戦国ゲームは、ファミコン時代の「伊達政宗」という最近のヤツとはかけ離れたのしかやった事ないので、内容はよくわかりませんが、キャラクターだけは、時々、雑誌とかで見かけたりします。

超ミニのお市様や、男前の雑賀孫一を見ると、戦国時代がこんなに美人とイケメンばっかりやったらスゴイなぁ~とミョーなところに感心してしまいます。

>ミュージカル
・・・という事は、人間(役者)が演じるという事でしょうか。
アニメのイメージをそのままに演じるのは難しいでしょうね。
役者さんは大変です~

投稿: 茶々 | 2009年10月14日 (水) 01時45分

戦国オタクプーさん、こんばんは~
コメントありがとうございます。

>戦国武将1人1人に逸話、武勇伝があって、その武将が『実在した!』と考えると・・・

ホントですね。
ある意味、ドラマよりスゴイ展開が実際に起こっているんですもんね。

歴史好きにとって妄想は重要・・・いろいろ考えるのがオモシロイんですよね。

投稿: 茶々 | 2009年10月14日 (水) 01時51分

忠勝はほんとつよいですねえ(◎´∀`)ノ合戦で一度も傷を負ったことがないとか‥凄過ぎる(lll゚Д゚)

徳川四天王が中心の大河ドラマやんないかあ?再来年の「軍師官兵衛」はたのしみだけど‥

投稿: のすけ | 2012年10月14日 (日) 00時11分

のすけさん、こんばんは~

再来年は「明智光秀」の噂も出てましたが、黒田官兵衛になったんですね~
楽しみです。

投稿: 茶々 | 2012年10月14日 (日) 00時49分

茶々さま こんばんは

>再来年は「明智光秀」の噂も出てましたが


今年の夏ごろでしたか、
福知山の方に出かけたとき、
たまたま入った書店に
『明智光秀を大河の主役に!』という主旨の
チラシなどが大々的においてありました。


光秀と娘・ガラシャ、そして
その夫・細川忠興と舅・細川幽斎の4人を
コアにする構想とのことですよね。
近隣6市1町が連携して運動をしているようですね。
丁寧に作ってある興味深いチラシでした。


でも、H26年に戦国時代だから、
早くてもH28年ですよね~(^_^;)

投稿: hana-mie | 2012年10月15日 (月) 00時09分

hana-mieさん、こんばんは~

大阪城の周辺でも、「大坂の陣を大河にする会」というのがあります(*^-^)

ただ、個人的には、大阪城のように、もともと観光客の多い場所は良いですが、普段は歴史好きしか行かないようなマイナーな穴場の場所にとっては、「大河」は非常に罪な物だと思います。

その年は、予想以上にドワッと来る観光客の対応に追われ、田んぼを潰して駐車場にして、様々に盛り上げても、翌年は閑古鳥…ちょっと寂しいです。

投稿: 茶々 | 2012年10月15日 (月) 00時18分

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