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2009年11月 3日 (火)

皇子から武人へ~明治天皇の大変身

 

今日、11月3日は文化の日・・・「自由と平和を愛し、文化をすすめる」国民の祝日として、昭和二十三年(1948年)に定められたものですが、お察しの通り、これは、それ以前から祝日だった11月3日が「芸術の秋」「読書の秋」などと言われる秋真っ盛りの季節である事と日本国憲法の公布の日である事からのあとづけで、もともとは明治天皇のお誕生日。

なので、明治天皇の在位中は、「天長節」と呼ばれていました。

その後、明治天皇の崩御とともに一旦廃止されるも、昭和二年(1927年)に「明治節」として復活し、戦後には「文化の日」となったわけです。

・・・とは言え、明治五年(1872年)に太陽暦(11月9日参照>>)が採用される以前の出来事については、基本、旧暦の日づけでご紹介しているこのブログですので、本来なら、明治天皇のお誕生日は、嘉永五年(1852年)の9月22日という事で、その日に書かせていただかねばならないはずですが、それこそ、天長節自体が、太陽暦採用の時点で、その日を太陽暦に換算した11月3日に変更になってますので、大目に見ていただくという事で・・・

この日、第121代孝明天皇の第2皇子としてお生まれになった明治天皇ですが、その場所は宮中ではなく、権大納言・中山忠能(ただやす)・・・忠能の娘である慶子(よしこ)が後宮に女官として仕え、妊娠したとわかって実家の中山邸に戻り、急ごしらえの産屋で誕生したのです。

現在の京都御苑・・・今出川御門から入って左に曲がったところに旧中山邸の跡があり、邸宅は取り壊されましたが、産屋と井戸が残っています。

Nakayamatei 「明治天皇誕生の地」の碑がある中山邸跡(京都御苑)

実家と言っても、御所とは道を挟んだ北側の京都御苑内で、すぐ近くには、御所の北東部分にあたる猿ヶ辻がありますから「近っ!」と、声をあげるほどの距離ですが、明治天皇は4歳になるまで御所には入れず、忠能が父親代わりとなって養育します。

やがて安政三年(1856年)に内裏にうつって、親王宣下を受け睦仁(むつひと)を名乗りますが、この頃の明治天皇は、髪は稚児風で色物の長袖を着て、顔には白粉(おしろい)を塗り、眉を剃った上に黛(まゆずみ)で麻呂風に・・・お姫様のように美しかったのだとか・・・

朝は7時に起床して、午前中はお習字の稽古、午後は3時頃まで、父の孝明天皇のそばで、二つずつ出される御題から和歌を詠む・・・夜は、女官たちを相手にカルタなどに興じて、午後9時に就寝・・・と、まさに、平安貴族さながらの生活

なんせ、徳川幕府の方針では、天皇の本分は学芸・・・むしろ、政治に関与したり、武術に励んだりなんて事、してもらっちゃぁ、危なっかしくてたまりませんから、天皇家は、おとなしく優雅に芸術に勤しんでいただかねば・・・てな感じでしたからね。

あの蛤御門(禁門)の変(7月19日参照>>)の時には、13歳だった明治天皇でしたが、その時、御所に着弾した砲撃に驚いて失神してしまったと言いますから、いかに、別世界の生活を送っていたかがわかりますね。

しかし、皆さんがよく目にする明治天皇の写真・・・男らしくてカッコイイ、貴族というよりは軍人のように見えるお姿をされてますよね。

そうです。
明治新政府の意向によって、明治天皇は180度の大転換をする事になるのです。

慶応二年(1868年)の暮れ、父・孝明天皇が亡くなり(12月25日参照>>)、翌・慶応三年に睦仁親王が践祚(せんそ・天子の位を受け継ぐ事)・・・16歳にして、明治天皇となりました

この年の10月には大政奉還(10月14日参照>>)
12月には王政復古の大号令(12月9日参照>>)と、
まさに、明治天皇を旗印に新政府の樹立を宣言・・・

翌年の正月一発目からは鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)へと突入したわけです。

そうなると、ひ弱な天皇では困る・・倒幕の果てには、世界に肩を並べる近代国家にという目標があります。

欧米列強に屈した隣国・の二の舞にならないためにも、富国強兵・・・経済を豊かにして軍備を整え、強い日本を目指さねばなりませんから、その象徴となる天皇は、英明かつ武勇に優れた強い天皇でなくてはいけません。

まずは、常に天皇を囲んでいた女官・36名を免職し、周囲には学者と武芸者を配置し、男らしさを強調するためのヒゲもはやされるようになります。

維新後には、各地に行幸して、国民に、文武両道の強き天皇を印象づけるとともに、天皇が大元帥として、陸海軍を統率するという、近代日本への道を歩みはじめたのです。

16歳の若き天皇・・・おそらく、その大転換には、とまどいもあったでしょうが、それこそ、若さゆえ、順応するのも早かったのかも知れませんね。

・・・と、本日は、明治天皇の誕生日という事で、あまり聞く事のない天皇になる前の明治天皇を中心にお話させていただきました。
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明治・大正・昭和」カテゴリの記事

コメント

何時も分かり易くて、時々意見しています。ところで、明治天皇の大変身は、実際に替人、人物自身が替わったのかもしれませんね。こんなこと書くと当然、ボツでしょうが、筆者自身も・・

投稿: ! | 2009年11月 3日 (火) 10時06分

江戸幕府によって、幽閉(?)されていた頃の皇室は神秘的ですね。
お顔が白塗りだった、というのは、ドナルド・キーン氏の本にも書いてあったのを読んで、とても面白く感じました。無表情で歩き方も声も、非人間的 ~ つまり、お人形そのもののようだったのですよね ・ ・ ・。
社会や環境が変わっても、人には順応する能力が具わっている、明治天皇に、それを確信させて戴くことが出来ると思います。

投稿: 重用の節句を祝う | 2009年11月 3日 (火) 10時58分

!さん、こんにちは~

>こんなこと書くと・・・

いえいえ、脳内で想像するだけなら…
徳川家康だって、途中から別人になってるって話もありますし、何年か前の大河ドラマ「義経」では、安徳天皇の代わりに弟が壇ノ浦で入水する設定になってたりしましたからね。

ただ、ワタクシ個人的には、本文にも書いたように、若い天皇であったからこそ、変われたように思っていますが・・・

投稿: 茶々 | 2009年11月 3日 (火) 14時23分

重用の節句を祝うさん、こんにちは~

>社会や環境が変わっても、人には順応する能力が具わっている・・・

そうですね。
文明開化の波に、一般市民が乗り遅れそうになった時、天皇は洋装のいでたちでお出ましになり、皆が洋装を受け入れたとか・・・

天皇が短髪にされたのを見て、床屋に行列ができたとか・・・

日本人が、ものの見事に西洋の文明を取り入れる事ができたのも、明治天皇の順応性あればこそ、だったかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2009年11月 3日 (火) 14時33分

 こんばんは

 以前にネットで明治天皇は孝明天皇のお子さんではなく南朝の流れを汲む別人であると書いてあるのを読んでびっくりしたことがあります。
 別人である根拠として幼少時の明治天皇・祐宮は身体が弱くて御所で女官と鬼ごっこをして遊んでいたような人だったのに同じ人が乗馬をしたり相撲を取って側近を投げ飛ばしたりするようなことができるはずがないというものでした。
 なるほどと思ったのですが、茶々さんの記事の通り、明治天皇は若さゆえ、順応も早かったのかもしれないというのも納得できるお話です。
 いろいろ興味は尽きません。
 茶々さんは別人説をどうお思いになりますか?

投稿: おみや | 2009年11月 4日 (水) 00時18分

おみやさん、こんばんは~

別人説ですか・・・
最初にコメントいただいた!さんも気になっておられるようですが、そこでもお答えしたように、興味深い説ですし、可能性としてはゼロではないと思いますが、個人的には、今のところ「ない」と思っています。

幼い頃は女のようにひ弱だったと言いますが、本文にも書かせていただいたように、隔離された世界で女官だけを相手に、女の遊びをしながら育てば、本人の性格に関係なく、誰でも女の子のように育つ気がします。

それを一掃して、回りを元武士である薩長の人間で固めて帝王としての教育をしなおしたのですから、単に女っぽい人が男らしくなったというだけでは別人とは言い切れない気がします。

そして、私が一番ひっかかるのは、日清戦争の宣戦布告の時の話です。

もし、明治天皇が別人なのだとしたら、それは、明治政府があやつる傀儡でなくてはなりませんが、この日清戦争の時に、戦争の勃発原因に納得できない明治天皇は宣戦布告の勅使の派遣を一度断っています。

ご存知のように、結局は日清戦争は勃発するわけですので、明治天皇は政府に押し切られた事になりますが、政府がしたてあげた別人なら、この一度断る意味がわかりません。

なので、今のところはご本人だったと思っています。
また、新しい史料などが発見された場合はわかりませんが・・・

投稿: 茶々 | 2009年11月 4日 (水) 01時17分

明治天皇が20歳前後の時に断髪した事が、「断髪令」が出るきっかけと聞いた事があります。明治天皇はアンパンが好物だったと言われます。アンパンも「文明開化の産物」です。

それにしても誰ですか、変な文章を書いた人は?不謹慎ですよ。

投稿: えびすこ | 2009年11月 4日 (水) 09時12分

えびすこさん、こんにちは~

迷惑メールは排除しました┐( ̄ヘ ̄)┌

いつもは朝一ですばやく排除するんですが、今日はえびすこさんのほうが先でしたねww

個人的には、アレでいくらの稼ぎになるのかが気になるところです。

投稿: 茶々 | 2009年11月 4日 (水) 11時07分

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