« ナユタとフカシギ | トップページ | かかとの無い履き物と「ナンバ」~「下駄の日」にちなんで »

2009年11月10日 (火)

父は天皇・母は徳川~859年ぶりの女帝・明正天皇

 

元禄九年(1696年)11月10日、第109代明正天皇が74歳で崩御されました。

・・・・・・・・・・

明正(めいしょう)天皇女帝・・・それも、第48代・称徳(しょうとく)天皇以来・・・859年ぶりの女帝です。

何年か前に、改定するのしないのと問題になった皇室典範により、明治以降は、男系男子の限られている天皇ですが、歴史上、日本には8人=10代の女性天皇がいらっしゃいます。

明正天皇は、その7人目の女帝・・・

これらの女帝・誕生劇は大きく分けて二つ・・・仮に安定型中継ぎ型とでもしときましょうか・・・

明正天皇が8人中7番目という事は、8人中6人の女帝が称徳天皇の奈良時代以前に誕生している事がわかりますが、最初の女帝となった第33代・推古(すいこ)天皇から、数えて16代目の称徳天皇まで、その半数が女帝という飛鳥~奈良の時代・・・。

最初の推古天皇は第32代崇峻(すしゅん)天皇・暗殺(11月3日参照>>)の後に・・・

第35と37代の2度天皇になった皇極(こうぎょく・斉明)天皇大化の改新(6月12日参照>>)前後に・・・と、血生臭い事件後に不安定な政権を安定させるために擁立された女帝

その後の、第41代持統天皇(12月22日参照>>)、第43代元明天皇、第44代元正天皇【(11月17日参照>>)は、いずれも、皇位を継がせたい皇子が幼い場合、その成長を待つための中継ぎのための女帝です。

まぁ、最初の持統天皇は、中継ぎらしからぬ政治的手腕を発揮しますが、その根底にあるのは、皇位を継がせたかった息子・草壁皇子が亡くなり、未だ幼かった孫の文武天皇へと引き継ぐためです。

この中継ぎ女帝の誕生には、天皇が政治の中心だった飛鳥の前半が過ぎ、飛鳥後半になって徐々に力をつけはじめてきた藤原氏勢力の思惑も絡んでいます。

また、最後の女帝となった第117代の後桜町天皇も、(さすがに藤原氏ではないですが)次期天皇となるべき皇子が幼かった故の中継ぎ女帝です。

そんな中で、859年間の空白の最初と最後となった称徳天皇と明正天皇・・・このお二人は異彩を放ってます。

称徳天皇は第46代孝謙天皇と同一人物・・・そう、あの藤原仲麻呂(恵美押勝)道鏡がらみでその名を残す女帝で、どうあっても天皇の外戚(母方の実家)を手放したくない藤原氏の思惑で、女性として初めて皇太子となってから天皇の座についた人です(くわしくは7月4日参照>>)

そして、今回の明正天皇・・・この明正天皇の誕生は、藤原氏と同じく、天皇の外戚をゲットしたい徳川家と、その真意を察して意地の譲位を決行した第108代後水尾(ごみずのお)天皇前代未聞の天皇交代劇だったのです。

そもそもは元和元年(1615年)・・・大坂夏の陣(5月8日参照>>)で豊臣家を滅ぼした徳川は、その直後に禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を発布します。

これは、天皇の行動を幕府が監視・制限しようとする前代未聞の法律ですから、当然、天皇をはじめとする朝廷側が反発するのは当たり前・・・

しかも、後水尾天皇から見れば、先代の父・後陽成(ごようぜい)天皇(4月14日参照>>)の時代から、何かと親切に天皇家をたててくれていた豊臣秀吉の後継者を死に至らしめた徳川には、あまり良い印象を持てません。

そのため、後水尾天皇は、すでに慶長十九年(1614年)に決まっていた2代将軍・徳川秀忠と正室・お江(江与)の間に生まれた娘・和子(6月15日参照>>)との結婚を、ここに来て拒みはじめます

そうこうしているうちに、後水尾天皇と別の女性との間に1男・1女が誕生・・・激怒した秀忠が、天皇に退位をちらつかせたため、やむなく、元和六年(1620年)、天皇は和子との結婚に踏み切りました。

こうして、結婚から三年後の元和九年(1623年)に二人の間に生まれたのが女一宮(おんないちのみや)=後の明正天皇です。

まもなく、男の子も生まれた段階で、後水尾天皇は、はやくもその皇子に皇位を譲ろうとします。

それは、かの禁中並公家諸法度・・・これは、天皇の権限を制限してますから、後水尾天皇が天皇でなくなれば、その制限はうんと軽くなるわけで、幼い天皇の後ろで、存分に腕を奮う事かできます・・・一方の徳川家だって、もともと天皇の外戚になりたいための政略結婚ですから、その皇子が皇位を継ぐ事に依存はないはず・・・って事です。

ところがドッコイ!
この高仁親王が2歳になる前に死亡・・・後水尾天皇は、しかたなく、その姉の女一宮への皇位継承を打診しますが、これには徳川家がNO!

確かに、徳川家は天皇の外戚が欲しいですが、これだと、その欲しい度がいかにもあからさま・・・まさに、859年前に藤原氏があわてて孝謙天皇を即位させたカッコ悪さそのものです。

後水尾天皇と和子の間には、まだ男の子が生まれる可能性もあるのですから、ここで徳川家がそこまで急ぐ必要はありません。

「譲るよん!」
「いや、もうちょい 待って~」
と、やってるうちの寛永四年(1627年)、朝廷の決定した事を幕府が取り消すという天皇の面目丸潰れの事件=紫衣(しえ)事件が起こります(11月8日参照>>)

さらに、寛永六年(1629年)、あの春日局(かすがのつぼね・お福)が、無位無冠の身分で後水尾天皇に拝謁するという、これまでの伝統ぶち破りをやってしまいます(10月10日の後半部分参照>>)

そのわずか1ヵ月後・・・後水尾天皇は、幕府に無断で、娘に皇位を譲ってしまいます

Meisyoutennou500a 明正天皇の誕生です。

さすがに、「怒ってはるワι(´Д`υ)アセアセ」
・・・と感じた幕府は、「驚いた事ではあるが、ともかく叡慮(天皇のお考え)のままに・・」と返答し、幕府側の関係者を処分するだけで、あえて争いは避けました。

その後、3代将軍・徳川家光によって院政が承認され、現役天皇の後ろで思う存分に腕を奮う事ができるようになった後水尾上皇も満足満足・・・朝廷と幕府の関係も、しだいに穏やかな物となっていきます。

・・・という事で、明正天皇自身は、父の院政の下、直接政務に関わる事はありませんでしたが、なんせ、天皇の娘であり、将軍の姪っ子であるわけですから、その存在自体が、朝廷と幕府の関係修復に大いに役立った事は確かです。

そして15年間の天皇での期間を終えた明正天皇は、21歳で皇位を異母弟の紹仁(つぐひと)親王(後光明天皇)に譲りました。

押し絵などの手芸が大好きだったという明正天皇・・・天皇を引退した後は、父・後水尾天皇と母・和子(東福門院)とを連れ立って、父が設計した修学院離宮へ度々訪れ、家族仲良く過ごす事が多かったと言います。

政略結婚・・・しかも、あれほどのドタバタで結婚した後水尾天皇と和子さんが、娘を間に挟んで離宮で楽しく老後を過ごす・・・プライスレス

それもこれも、明正天皇の穏やかな性格を物語っているようです。

そんな明正天皇・・・元禄九年(1696年)11月10日74歳でこの世を去りました

この明正天皇という追号は、あの奈良時代の元明天皇と元正天皇の二人の女帝から、それぞれの一字をとったという事です。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« ナユタとフカシギ | トップページ | かかとの無い履き物と「ナンバ」~「下駄の日」にちなんで »

江戸時代」カテゴリの記事

コメント

明正天皇はお江さんの孫娘ですね。
順当に行けば「姫たちの戦国」の最終盤が、和子姫入内となりますね。
この入内に同行したのはあの藤堂高虎でした。当時既に老齢になっていた藤堂は、今で言う「老人性白内障」を患いながらも、同行して和子姫の身辺警護をしました。
この時の公家に対しての啖呵が痛快。
「老将」と言っても190cmある藤堂の迫力に、公家が恐れをなした様です。
本来は外様(譜代待遇)である藤堂が老齢と言う事情も合わせても、異例とも言える同行ができたのは、お江さんに対して「最後の奉公をしたい」と言う思いがあったと思います。和子姫は旧君・浅井長政の孫娘です。

明正天皇は中継ぎ天皇でしたが、「天皇を退位した」と言ってもまだ女ざかりの明正上皇は、古代の天皇家とは違い、権力闘争に振り回される事なく、親子仲良く長い余生を過ごしたと思います。ちなみに後水尾天皇は、「19世紀までの天皇」では最長寿でした。

投稿: えびすこ | 2009年11月10日 (火) 11時34分

えびすこさん、こにちには~

>同行したのはあの藤堂高虎

どうか、ネタばらしはご勘弁を・・・
ι(´Д`υ)アセアセ

だんだんブログに書く事がなくなって参りまする~

投稿: 茶々 | 2009年11月10日 (火) 12時34分

茶々様、えびすこ様、こんにちわ~!
>どうか、ネタばらしはご勘弁を・・・
お二人の関係って・・・なんか楽しいですね。
以前から私は江戸時代は『天皇はおとなしくしてたんだな~、なんで?』という疑問を持っていました。平安・鎌倉・安土・明治とはでに暴れる天皇家ですが江戸時代は・・・。
>禁中並公家諸法度
今日、5分前に初めて知りました(*´v゚*)ゞ
またまた勉強になりました

茶々様、えびすこ様
毎日、大変でしょうがお二人のやり取り、私の活力になっています。ありがとうございます。

投稿: DAI | 2009年11月10日 (火) 14時09分

DAIさん、こんばんは~

>江戸時代は天皇はおとなしくしてたんだな~

そうですね~

この法度+貧乏で、おとなしくせざるを得なかったんでしょうね・・・きっと

投稿: 茶々 | 2009年11月10日 (火) 18時27分

茶々さん、こんばんは!

この時代の幕府と皇室の事になりますとつい、隆慶一郎を思い出します。
彼の作品では、徹底的に秀忠と宗矩は悪役です。
皇室に対してもめちゃくちゃな弾圧をします。
そういえば、家康も影武者説を取ってましたね。
茶々さんが紹介した世良田三郎説です。但し、家康が殺されたのは関ヶ原になっていますが。

つまり、影武者の家康対秀忠の構図です。


つい懐かしく、コメントしてしまいました。


でも、前田慶次郎をメジャーにしたのは隆慶一郎だったと思います。

投稿: シンリュウ | 2009年11月10日 (火) 23時40分

シンリュウさん、こんばんは~

>前田慶次郎をメジャーにしたのは隆慶一郎だった

確か「花の慶次」の原作ですよね・・・まさに、これが無かったら、前田慶次郎は、今ほど有名じゃなかったでしょうね。

投稿: 茶々 | 2009年11月11日 (水) 01時14分

とてもわかりやすい記事で何度も読み返してしまいました!

過去の女性天皇はみな中継ぎと言われていますが、称徳天皇と明正天皇は母方の一族が外戚の立場を確保したい思惑が左右していたのですね~。

ところで赤字で「元正天皇の誕生です。」とあるのは、明正天皇、の間違いではないでしょうか?

投稿: しろ子 | 2012年9月21日 (金) 18時04分

しろ子さん、こんばんは~

ギョェーΣ(゚д゚;)です。
もう、3年も経つのに、今の今まで気づいてませんでした(汗)
教えていただいてありがとうございます。
訂正とておきますm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2012年9月22日 (土) 01時17分

茶々さん、こんにちは。
明正天皇は後水尾天皇と仲良く過ごしたのですね。良いことだと思います。
ところで水戸黄門とか暴れん坊将軍は設定が滅茶苦茶でないですか?
何故葵の紋だけで従うのですか?中納言と言いますと公家では特別高位な方でなく、公家を捕まえるのは無理です。暴れん坊将軍はもっと滅茶苦茶で吉宗よりも高位の豊臣の子孫に成敗と言いますが、成敗と言うのは上から下に言う事でこれは当てはまりません。どうもこの二つが人気がありすぎて江戸時代の歴史を間違う事が多い感じがします。そう言う点ではまだ大河ドラマの方がましだなと思いました。葵徳川三代でも家光は後水尾天皇だけでなく妹の和子中宮にも敬語を使っていました。多分普段は意識しなくても上京した時にはやはりへりくだるのは自然だなと思いました。考えてみますと秀頼に対しても逆賊と言う謀反でないですね。これも身分の上下をきちんと考えていたと思いました。

投稿: non | 2016年2月13日 (土) 13時07分

nonさん、こんにちは~

「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」は娯楽時代劇ですから、そこの史実を求めるのは酷だと思いますよ。

歴史で言うなら、徳川光圀は関東より外に足を運んだ事はありませんし、徳川吉宗が一人で江戸の町に出没する事も無いですから…

大河ドラマがまし…と言っても、大河もドラマも娯楽の創作物です。
大河が歴史通りに描かねばならないなら、宮本武蔵を主役にはできなかったはずですから…

投稿: 茶々 | 2016年2月13日 (土) 16時37分

茶々さん、こんにちは。
確かにそうですね。でもあまりにも時代劇ですが徳川中心になっている感じがしました。
ところでお江代の方は浅井家出身ですが秀吉の養女なので豊臣出身です。
確か五摂家にも和子中宮の姉が嫁がれていますので、後水尾天皇とも馬が合ったのかなと思いました。
明治維新後に豊臣が復権したのも多分朝廷、本願寺で豊臣への感謝を隠れて教えていたのかなと思いました。
その事は歴代の天皇にも伝わった感じがします。明正天皇も後光明天皇も後水尾天皇から教わったのかなと思いました。でも徳川もローマのカルタゴ滅亡ではないですが、後ろめたい気持ちもあったのではと思います。それで朝廷の親豊臣、西本願寺を粛清しなかったのではないでしょうかと思いました。

投稿: non | 2016年2月14日 (日) 12時40分

nonさん、こんばんは~

明治政府としては、倒した江戸幕府を否定したいので、江戸幕府が否定した豊臣を復活させた感じかもしれませんね~敵の敵は味方みたいな?

以前のブログにも書きましたが、家康は西本願寺を潰そうと考えてましたが、それを止めたのは本多正信らしいですよ。
正信は、あの三河一向一揆に参戦し、一揆鎮圧後には一旦徳川を離反したほどの信徒でしたから、力で弾圧された信徒の水面下での結束力のスゴさを知っていて、潰すよりも、生ぬるく生かす方向に進言したんじゃないでしょうか?

投稿: 茶々 | 2016年2月15日 (月) 02時37分

茶々さん、こんばんは。
明正天皇を思い出したのは元明天皇、元正天皇からです。
両女帝から一文字ずつの明正天皇は本当に中継ぎに徹したなと思いました。
なかなかそういう心境にはならないのにそう達した明正天皇は尊敬します。
案外院政をしても父の後水尾天皇や弟の霊元天皇よりも上手く幕府とも話ができたと思います。
手芸がお得意だったようですし、両親に仕えた一生を見ますと本当に穏やかな性格だったと思います。
人間ができた建礼門院と言う感じで輔子さんに似た性格かなと思いました。

投稿: non | 2017年2月11日 (土) 20時53分

nonさん、こんばんは~

まさに、天皇家と徳川家のかけ橋ですね。

投稿: 茶々 | 2017年2月12日 (日) 00時33分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 父は天皇・母は徳川~859年ぶりの女帝・明正天皇:

« ナユタとフカシギ | トップページ | かかとの無い履き物と「ナンバ」~「下駄の日」にちなんで »