飛鳥から現代まで~日本の土地制度の変化
明治十三年(1880年)11月30日、「土地売買譲渡規則」が制定されました・・・という事で、本日は、何かとややこしい、日本の土地制度について書かせていただきます。
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人が狩りしながら移動して生活をしていた時代はともかく、稲作が始まって、一つところに定住するようになると、その場所を確保すべく、また、より良い土地を巡って争い事が起こるようになっていきます。
その争いに勝った一族は、豪族となって支配階級の上層に位置するようになり、やがて、そんな豪族の集合体である大和朝廷が形成されていき、その頂点の天皇の詔(みことのり)という形で、土地の所有者が明確にされる事になります。
まずは大化元年(645年)に行われた大化の改新(6月12日参照>>)・・・この改新の詔の第一条の「公地公民制(こうちこうみんせい)」で、すべての土地が国家の所有である事が定められました。
それと同時に、「班田収受法(はんでんしゅうじゅのほう)」も定められたとありますが、実際にこの法律が施行されたのは、大宝元年(701年)の大宝律令以降と思われます。
この「班田収受法」は、6歳以上の男女に、その身分に見合った一定の区分田(くぶんでん・土地)を貸し与えて、その代わりに税金を納めさせるというもの・・・(くわしくは8月3日の真ん中あたりを参照>>)。
しかし、過酷な労働と高い税金に苦しむ農民は、土地を放り出して逃亡する者があとをたたず、また、男より女のほうが税金が安かったため、戸籍を偽る者も続出して、これでは税収が減る一方・・・(庶民の過酷な生活は11月8日参照>>)
そこで、朝廷はしかたなく、養老七年(723年)、貸し出しではなく、期限付きで土地を私有できるようにします。
これが、「三世一身法(さんぜいいっしんのほう)」・・・新たに荒野を開墾した者は、親子孫の3代に渡って、その私有を認めるというものでしたが、案の定、期限切れ近くになると、農民は働く意欲を失くして、耕作をほっぽり出してしまい、農地は荒れ放題になってしまいます。
そのため、ついに朝廷は、期限のない土地私有を認めざるを得なくなり、こうしてできたのが、天平十五年(743年)の「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」・・・面積に制限があり、きちんと朝廷の許可を得なければならないものの、開墾した土地は永久に私有して良いという画期的な法律でした。
これに飛びついたのが、財力のある寺社や貴族です。
彼らは競うように土地を開墾し私有・・・これは荘園(しょうえん)と呼ばれ、皆、こぞって口分田から荘園へと移行し、一気に班田制の崩れを招いていきます。
たとえば三善清行(みよしきよゆき)(11月21日参照>>)の提出した『本朝文粋(ほんちょうもんすい)』という意見書には・・・
「天平神護年中(765年~766年)に吉備国(岡山県)の邇磨郷(にまごう)の人口を調査したところ、調庸(ちょうよう・物品による納税)を納める農民の数は1900人だったのが、貞観(859年~876年)の始めには70余人で、自分(清行)が調べた時は、17歳~20歳の男子3人、21歳~60歳の男子4人、61歳~65歳の男子2人でした。
さらに、今現在は?と聞いたところ、一人もいませんとの答えが返ってきました」
とあります。
平成の少子化もビックリ!・・・と言いたいところですが、もちろん、これは、人口が減ったのではなく、皆、口分田を捨て、荘園に走ったという事でしょう。
やがて、そんな初期荘園も、10世紀以降になると寄進地系荘園へと変わっていきます。
これは、開発領主(有力農民)が作人(さくにん・一般農民)や下人(農奴・のうど)を使って土地を開墾し、それを寺社や貴族へ寄進するというもの・・・と言っても、寄進は名目上だけで、実際の所有権は開発した領主にありました。
実は、上記のように、寺社や貴族の名を借りる事で、朝廷の国司(地方官)からの圧力や高い税金から逃れる事ができたのです。
荘園には、
国司の荘園への立ち入りを拒否できる権利=不入の権。
税金が免除される権利=不輸(ふゆ)の権
があったんですねぇ。
名前を貸す寺社や貴族のほうも、
本家=大寺社・皇族・摂関家
↓
領家=貴族・寺社
↓
荘官=開発領主・名主
↓
荘民=作人・下人
という構造ができあがっている中、それぞれの中間で、それぞれいくらかの搾取(さくしゅ・ぬきとり)があるので、ただ名前を貸すだけで、取り分が手に入るわけです。
この荘園の形がしばらく続く中、各地の開発領主は、その自分たちの土地を守るため、徐々に武装していくのですが、これが武士のはじまりです。
彼らは、中央から派遣された賜姓皇族(しせいこうぞく・天皇の後継者にはならない第2皇子や第3皇子など)や貴族を棟梁(とうりょう)として担ぎ、強固な武士団を形成していきます・・・よくご存知の平氏や源氏です(11月21日の平将門を参照>>)。
やがて、鎌倉に誕生した初の武士政権・・・幕府を開いた源頼朝が、弟・義経や奥州藤原氏の討伐に向かいつつあった頃、このように地方で事件が起こった時に、その都度、軍勢を率いての遠征を行うのは負担であると考えます。
そこで、頼朝の家臣や息のかかった者が、全国各地の国領(国の土地)・荘園の税を徴収し、連絡を密にして、ついでにその土地を治めてしまおう!というもの・・・これが、守護と地頭の設置です。
もちろん、朝廷は、この守護と地頭の設置を快くが思っていませんでしたが、もはや政権も武士に移ってしまったわけですから・・・。
こうして、鎌倉幕府や室町幕府のもとでは、御家人になる事で、本領安堵=土地の所有が保証される事になります。
この間に一致団結する農民が無理難題を押し付ける地頭と対決したり(8月21日参照>>)、横領して納税義務を果たさない守護勢力と寺社が対決したり(7月21日参照>>)する中、世は乱世の戦国へと突入!
・・・で、ここまで続いていた荘園の中間搾取を一掃する土地改革を行ったのが、かの豊臣秀吉・・・秀吉は、「兵農分離令」を出して一つの土地に一作人と決め、各地で「太閤検地」を行って生産力を把握し、それを石高で表して年貢を決定する方法で、荘園制度を完全に終らせました(7月8日参照>>)。
秀吉の後に天下を取った徳川家康が開いた江戸幕府も、この制度を継続し、土地は農民の物となっていましたが、毎年に渡っての一定の税収確保のため、「田畑永代売買(でんばたえいたいばいばい)の禁令」や、「分地制限令」などを発令して、農民たちが、自由に土地の売買をする事を禁止しました。
土地の売買が再び自由化されるのは、明治に入ってから・・・明治六年(1873年)の地租改正では、「田畑永代売買禁止」を廃止したのを皮切りに、その後7年間に渡る大事業で、様々な改正を行い、そして明治十三年(1880年)11月30日の「土地売買譲渡規則」です。
その後は、第二次世界大戦後に、地主が小作人土地を貸して高額な小作料を取る「寄生地主制度」を廃止する農地改革が行われ、多くの小作農が自作農となり、現在に至る・・・でございます。
もちろん、まだまだ細かく書かせていただかねばならないところですが、一応、今日のところは、日本の土地制度のおおまかな流れという事で、はしょった部分については、大目に見ていただきたいと存じます。
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