長州を守るため~福原越後の政治責任
元治元年(1864年)11月12日、長州藩・家老の福原越後が岩国の龍護寺にて自刃しました。
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福原越後(ふくはらえちご)は、周防(山口県)国・徳山藩主・毛利広鎮(ひろしげ)の六男として文化十二年(1815年)に生まれました。
実名を元僴(もとたけ)と言いますが、越後の呼び名が一般的なので、今日は越後さんで通させていただきます。
六男なので家督を継げない越後は、長州藩士・佐世親長(させちかなが)の養子となり、嘉永四年(1851年)には長州藩の家老に昇進します。
しかし、佐世家が家老を継ぐ家柄ではなかったため、その後、藩の命令で、家老職の家柄である福原家を継承する事となり福原姓を名乗るようになります。
寡黙で温厚でありながら、決断は鋭く采配は見事、主君に忠実な名家老・・・彼の評判に、悪いところはいっさい見当たりません。
しかし、そんな越後が、「不忠・不義」と罵られ、最終的には藩主の命令で切腹して果てる・・・そんな悲しい運命をたどります。
そもそもは、幕末の動乱の中、尊王攘夷(そんのうじょうい・天皇を中心に外国を排除する)の先頭を走っていた長州藩・・・
それが、文久三年(1863年)朝廷内での公武合体(こうぶがったい・天皇と幕府の協力)派であった中川宮(青蓮院宮)朝彦親王が、薩摩と会津の協力を得て、尊王攘夷派を朝廷から追い出すクーデターを決行したのです。
八月十八日の政変です(8月18日参照>>)。
薩摩と会津の兵士によって封鎖された門から御所の中に入れない状態となった長州藩は、朝廷内の尊王攘夷派だった三条実美(さねとみ)らをともなって郷里へと、一旦、引き下がります。
しかし、翌年の池田屋騒動(6月5日参照>>)で、会津藩預かりの新撰組によって、何名かの藩士殺害された事をきっかけに、長州藩の積極派が中央での地位を挽回すべく、大軍を率いて京都に押し寄せたのです。
この時、御所の蛤御門(はまぐりごもん・禁門)で最も激しい交戦があった事から、これを蛤御門(禁門)の変と言います(7月19日参照>>)。
この蛤御門の変の中心人物が、益田右衛門介兼施(うえもんのすけかねのぶ)、国司親相(くにしちかすけ・信濃)(2011年11月12日参照>>)、そして、今回の越後という3人の家老だったわけです。
とは言え、実際には、藩主・毛利敬親(たかちか・慶親)の命令であって、彼ら3人の家老は、それに従ったまで・・・交戦後の長州藩の陣地からは、藩主の刻印の押された軍令状が発見されているのですから、そこのところは疑う余地はないでしょう。
・・・で、ご存知のように、この蛤御門の変では、長州は手痛い敗北を喰らってしまうわけですが、今回主役の越後さんは、この時、伏見の陣にて指揮を取っていて、その伏見で銃弾を受け、結局、御所へは行く事なく、戦線を離脱しています(7月19日参照>>)。
しかし、最も激戦となった蛤御門で、長州の放った銃弾が御所に命中した事に激怒した時の天皇・孝明天皇の態度で、事は、長州が思い描いていた以上の大ごとへと展開してしまいます。
勝つか負けるか・・・そのへんの判断を長州側がどこまで見通していたかどうかはともかく、少なくとも、この大軍を率いて京都を奪回しようという行為は、尊王攘夷のトップとしての行動・・・つまり、天皇のためにやってるわけです。
ところが、その天皇が激怒して、幕府に長州討伐の勅命(ちょくめい・天皇の命令)を出してしまうのです。
天皇のためと思ってやった行動で朝敵となってしまった長州・・・。
一方、勅命を受けた幕府は、尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)を総督に、越前(福井県)や薩摩など15万の兵を広島に集結させます・・・これが、第一次長州征伐です。
この出来事で、長州藩内の勢力図も大きく変わります。
それまでも、下関戦争(5月10日参照>>)の関係で分裂気味だった藩内は、この一件で保守派が牛耳る事になり、とにかく長州征伐を回避するために、恭順な姿勢をとる事になったのです。
その謝罪のために行われたのが、3人の家老の首を差し出す事でした。
彼ら、3人の家老が藩主に背いて勝手な行動をとって事件を起したので、彼らを処分しました・・・「だから許してね」って事です。
だからって、
「藩主ズルイ!」
・・・とは、言わないであげて下さい。
これは、藩主個人の意向ではなく、長州藩全体での決定・・・彼らは、もし、これで事が治まらなかった、藩主はもちろん、その世継ぎまで犠牲にする覚悟で、朝廷と幕府への謝罪に徹したのです。
藩の存続のため、その犠牲となってしまった越後・・・切腹の直前には、無言のまま静かに一筋の涙を流したと言います。
元治元年(1864年)11月12日、福原越後、切腹・・・享年・50歳でした。
彼らの死を以って、第一次長州征伐が回避された事がせめてもの救いかもしれませんが、誇り高き血筋に生まれた越後にとって、不忠の汚名を着なけらばならなかった事は、何より屈辱であった事でしょう。
そんな保守派に牛耳られた長州藩を大転換させるのは、高杉晋作のクーデター・・・越後の死から、わずか1ヶ月後の事でした(12月16日:高杉晋作、功山寺で挙兵を参照>>)。
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コメント
こんにちは~
ご無沙汰しておりましたm(__)m
長州に限らず、家老の首で謝罪する例は多いですよね。会津も確かそうでした。名前忘れましたが、かなり前の年末時代劇「白虎隊」で西田敏行が演じていた方です、確か。会津に行った折、自刄の場所に行き感慨にふけってきました。藩主の責任だと藩の取りつぶしになりかねないため仕方がないとは言え、切ないものです。
また、同じ幕末の長州の家老では周布政之という人も自害していたと思いますが(これまた年末時代劇の話ですが、「奇兵隊」で長門裕之が演じ、庭先で首をかき切って鮮血を出しながら倒れるシーンを強烈に覚えています)…周布さんも禁門の変あたりで自害したので、てっきり禁門の変の責任を取ったものと勘違いしておりました。彼は晋作の擁護者で、彼の死に晋作が憤慨し、奇兵隊を使いクーデターを起こす、というような流れだったと思います(激しくウロ覚えですが…)。
そういえば、吉田松蔭も(井伊の手下となり京都で朝廷をいびってた)老中の間鍋に反発し、彼を殺害するため(勝算もなく)藩内の武器を掻き集めて京都に攻めようとしていたらしいですよね。禁門の変もとにかくやったれみたいな感じだったとは。首謀者の久坂元惴は、正しく松蔭の弟子なんですね。清々しいくらいに。
投稿: おみ | 2009年11月12日 (木) 14時19分
おみさん、こんばんは~
周布さんは、越後さんより1ヶ月ほど前に亡くなられているようです。
禁門の変の敗北によって、藩内での勢力図が書き換えられて保守派が牛耳るようになった時に、積極派が襲われたり、居場所がなくなって自刃されたようで、それも責任をとったという事なのかも知れませんが、越後さんのように、藩の命令だったかどうかは、また、調べてみます。
投稿: 茶々 | 2009年11月12日 (木) 18時25分
こんばんは。
こちらで福原越後の名前を見るとは…茶々さんの知識の深さに感心します。
三家老の切腹に付いては大名並みの扱い(切腹する際の支度)だったそうなので、藩主としてもやりきれないものがあったのでしょうね。
周布さんは藩の命令ではなく自主的にだったと思います。遺書も書いていますし。
あんなタイミングで死ななくても、もう少し頑張ってくれたらと個人的には思ってしまいます。
投稿: 花曜 | 2009年11月13日 (金) 21時21分
花曜さん、こんばんは~
そうですか・・・
周布さんは藩の命令ではなかったのですね。
だとしたら、やはり、高杉晋作の出番まで、もう少し待っていただきたかったですね。
あ・・でも、そうしたら、晋作は挙兵しなかった?
いや、やっぱりしたでしょうね、きっと
投稿: 茶々 | 2009年11月13日 (金) 23時16分
こんにちは~
花曜さん、ありがとうございます。疑問が晴れました
m(__)m
遺書があったんですね。今度探してみます。
投稿: おみ | 2009年11月16日 (月) 09時28分
おみさん、
気になる事が一つ解決してよかったです。
投稿: 茶々 | 2009年11月17日 (火) 01時10分