尊王攘夷を掲げて西行の天狗党~和田峠の戦い
元治元年(1864年)11月20日、西行する天狗党と、それを追討する高島・松本藩連合軍が和田峠で衝突しました。
・・・・・・・・・・・
この年の3月に、尊王攘夷を掲げて決起した天狗党・・・これまでの経緯は、
- 天狗党の誕生(3月27日参照>>)
- 日光東照宮にて声明発表(4月10日参照>>)
- 下妻夜襲(7月9日参照>>)
・・・と、関東各地で奮戦するも、幕府からは「天狗党・追討令」が出され、地元の水戸藩内は保守派に牛耳られ、やむなく、彼らは、自らの思いを、今は亡き先代藩主・徳川斉昭(なりあき)の息子・徳川慶喜(よしのぶ)に伝えるべく、慶喜のいる京都を目指して出発します(10月25日参照>>)。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
途中、その領地をすんなりと通してくれる藩もあれば、当然の事ながら、幕府の命に従って彼らの行く手を阻む藩もあります。
最初のぶつかり合いは、11月16日・・・下仁田戦争(11月1日参照>>)と呼ばれるその戦いで、2時間の激戦のうえ、高崎藩に勝利した天狗党は、着物には血しぶき飛びまくり、刀や槍も抜き身のまま、さらに西行を続けます。
翌日到着した信州(長野県)への玄関口・西牧(さいもく・藤井)の関所・・・すでに、前日の「天狗党・大勝」のニュースを聞いていた関所の番人は逃走し、もぬけのからの関所を悠々と通過します。
ほどなく、見えてくる内山峠を越えれば、もう、信州・・・通過する宿場町では、最初はそのいでたちを見て、身を隠していた人々も、彼らが一般市民には危害を加えない事を聞くと、こぞって沿道に出て、隊列を見物するようになっていました。
そして、佐久(さく)に入り、中山道の和田宿で一泊した翌日、和田峠を越えて樋橋(とよはし・諏訪郡下諏訪町)にさしかかった所で、高島・松本藩の連合軍の迎撃が待っていました。
元治元年(1864年)11月20日、和田峠の戦いの勃発です。
連合軍=2000、天狗党=1000・・・
はじめ、藤田小四郎率いる150人が、正面からの突破をしようと、猛攻撃をかけますが、2度3度と押し戻され、なかなか前進できません。
天狗党・危うしか?・・・と、思いきや、これが、軍師・山国兵部(やまくにひょうぶ)の作戦!
小四郎らが正面衝突してる間に、背後と側面の山に奇襲隊200人を潜ませたのです。
相手に悟られぬよう、激しく急な険しい山をよじ登るという、意表をついた作戦です。
そして、ころあいを見計らって、山上から一斉に砲撃を開始・・・まさかと思った方向からの攻撃に、連合軍が慌てふためいたところで、総大将・武田耕雲斎(たけだこううんさい)が太鼓を打ち鳴らします。
その太鼓を合図に、全軍が突入!・・・連合軍は総崩れとなりました。
この時、逃走を計る高島・松本藩によって樋橋の宿場町に火が放たれましたが、天狗党の隊士らが力を合わせて消火にあたり、町衆の心の拠り所となっていたお地蔵様が安置されている地蔵堂が焼かれずにすんだという事で、沿道での彼らの評判は、さらに高まります。
ここから、南に下った飯田では、尊王攘夷の気質も相まって、3000両もの軍資金を手配してくれるとのうれしい約束も交わされます。
ただ、やはり幕府の追討命令は執拗に発令され続け、困った藩の中には、彼らが通り過ぎたあとに、ポーズだけの大砲を打ち鳴らしてごまかしたりしたところもあったのだとか・・・。
やがて、11月24日、天狗党は駒場宿へと到着します。
ここは、伊那地方でその名を馳せた尊王攘夷の志士・松尾多勢子(たせこ)の地元・・・京都で活動中に幕府から追われ、長州(山口県)へと逃れた後、この頃は、密かに故郷に戻ってはいた多勢子でしたが、さすがに、追われる身の彼女との面会は叶いませんでした。
しかし、彼女の息子・誠と会う事ができた小四郎らは、多勢子からの伝言を受け取ります。
それによれば、
「このまま南に進めば尾張藩の領地・・・御三家でもあり大藩でもある尾張藩との交戦は避けたほうが良いので、この先は美濃(岐阜県)へと進むべし」
との事・・・
早速、軍儀を開いて方向転換を決定した天狗党は、翌・25日、美濃の玄関口・清内路(せいないじ・長野県下伊那郡)の関所を通過します。
「天狗党はこのまま南へ下るもの」と思い込んでいた関所の役人は、慌てて何もできず、天狗党をそのまま通過させてしまいます。
さらに進む天狗党は、やがて木曽路に入り、妻籠(つまご)・馬籠(まごめ)に泊まった後、29日には木曽川を渡りました。
沿道の諸藩は、衝突を避けて撤退する藩、軍資金を渡して「城下の通過を避けてくれ」と頼み込む藩・・・と、その動向も様々な中、あの太子(たいし)を旅たってちょうど1ヶ月の12月1日、彼らは、揖斐(いび・岐阜県揖斐郡)宿へと到着しました。
このまま西へと向かえば、もう数日で、いよいよ京都です。
・・・と、行きたいところではありますが、ここで、耕雲斎は一つの決断をし、彼らの西行は新たな展開に・・・
思わせぶりにひっぱるようで恐縮ですが、やはり、そのお話は、決断を迫られる12月2日のブログでどうぞ>>m(_ _)m
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コメント
茶々さんこんにちは
和田峠合戦(樋橋合戦)の連合軍兵力については、ネット上に 高島藩と天狗党 http://rarememory.justhpbs.jp/mito4/mi4.htm や 水戸天狗党と信州 ☆和田峠の戦いと、その後・・ http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/tokusyu4.htm という記事があって出典を明示して高島藩580人とありますね。 一方の松本藩は、松本市史に拠ると、松本藩は兵力を佐久(稲村隊)、扉峠(林隊)、武石(西郷隊)、塩尻峠(近藤隊)に分散し、和田峠に布陣した稲村隊は323人とあります。 そうなると両藩併せても900人強にしかなりません。 人口に膾炙する2000人とは何とも大きく吹いたもののようです(笑)。 (松本藩側の一次資料武者奉行西郷新兵衛が事の顛末を記した文書となります。)
投稿: 野良猫 | 2013年4月21日 (日) 22時00分
野良猫さん、こんばんは~
そうなんですか?
維新が成った後は、天狗党は先駆けとして名誉回復となりますから、そこらへんで数の水増しがあったという事でしょうか…
投稿: 茶々 | 2013年4月22日 (月) 03時23分