天狗党・起死回生の西上行軍~下仁田戦争
元治元年(1864年)11月1日、天狗党が、徳川慶喜のいる京都に向けての行軍を開始しました。
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総大将に武田耕雲斎(こううんさい)を迎えた新生・天狗党・・・初めてのかたは、まずは、これまでの経緯について、先に読んでいただくとありがたいです。
・・・て事で、もはや水戸を奪回する事は不可能と判断した天狗党・首脳陣は、亡き主君・徳川斉昭(なりあき)の息子で、現在、京都にて禁裏御守衛総督の任務にあたっている徳川慶喜(よしのぶ)に会い、水戸藩の現状を訴え、さらには、幕府の尊王攘夷への方向転換を希望すべく、京都へと向かう事にするのです。
この一行には、水戸藩士や郷士だけではなく、地元の僧侶や農民、また、これら天狗党に参加している者の家族である女子供も同行していましたから、なるべく、無用な争いは避けたい・・・
それには、まず天狗党自身がトラブルを招くような事をしない事!
以前、その軍資金集めでトラブルになり、地元住民を殺害したり、放火して村の大半を焼いた田中愿蔵(げんぞう)の例(攘夷の魁・天狗党の模索を参照>>)もありますから・・・
そこで、出発前には、再編成された部隊に対して、きびしい軍令を発します。
- 無罪の一般人を殺したり怪我させたりしてはいけない
- 民家に入り、盗みを働いてはいけない
- 婦女子をみだりに近づけてはいけない
- 田畑の作物を荒らしてじはいけない
- 隊長の命令を待たずに行動してはいけない
・・・と、まぁ、いまさら言われる事もない、当然っちゃー当然の項目なのですが、きびしいのは項目ではなく、罰則・・・上記の事に違反した場合は、即刻、斬首!
後の新撰組もそうですが、多種多様の人間を抱える集団は、これくらいのきびしい罰則を設けないと、その秩序は保てないのかも知れません。
かくして元治元年(1864年)11月1日、1000人余りの隊列が、常陸(茨城県)は大子(だいご)を出発し、一路、西へと進み始めたのです。
その行軍の様子が、いくつかの手記に記録されています。
- 先手:薄井督太郎
白綸子(りんず)の小袖に黒紋付黄麻の陣羽織
=随兵・五十余 - 第一備(ぞなえ):大将・三橋半六(はんろく)
黄羅紗(らしゃ)の陣羽織
=大砲・2門、随兵・百人余 - 第二備:大将・山国兵部(やまくにひょうぶ)
猩々緋(しょうしょうひ)の陣羽織
=大砲・2門、「魁」の旗・1流、随兵・百人余 - 第三備:大将・藤田小四郎
紺糸嚇(おどし)の鎧に金鍬形の兜、
黒ビロードの陣羽織
=大砲・2門、「赤心」の旗・1流、随兵・百五十余
これらの「大将=騎乗した武士」は、約200名ほどいて、それぞれ従う歩兵の総勢は500余りは、皆、武装して陣笠を着用、荷物を曳く馬が50ほど、大砲は合計で15挺・・・これらが、かの旗々をひるがえして行軍するさまは、まるで錦絵のようだったのだとか・・・カッコイイなぁ~~(*≧m≦*)
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
こうして、西行を開始した天狗党は、出立したその日に下野(しもつけ・栃木県)の黒羽(くろばね)藩領に入り、さらに西を目指しますが、すでに各藩は、幕府からの天狗党・討伐命令を受けていたはず・・・すんなりと通れたんでしょうか?
実は、耕雲斎は、軍内には規律を守らせる一方で、対外的には、通行する各地の藩に、前もって、行軍の目的を明確に記した通行願いを渡し、なくべく戦闘を避けるようにしていたのです。
すでに何度か書かせていただいているように江戸時代というのは、藩という独立国家の集合体・・・中央の幕府に、どこまで協力するかは、藩によって違うわけで、中には、天狗党の尊王攘夷の志に、理解を示す者も少なからずいまたし、この時点で、天狗党の勇名は各藩にも伝わっていますから、「無用な争いは避けたい」というのもあったでしょう。
最初に遭遇した黒羽藩も、始めのうちは大砲などを持ち出して戦う姿勢を見せていましたが、上記のように、いたずらに危害を加えようとしない規律が守られた軍団に、礼儀を踏まえた通行願いの提出・・・
「堂々と中心部を突っ切られるのは、ちと困るが、間道ならば・・・」
と、結局、通過を黙認する形となりました。
多くの小藩が、このように天狗党の通過を許し、中には、村の大地主が紋付袴で対応し、何も言わずとも軍資金を差し出したり酒代を出したり・・・と、けっこう、旅費には事欠かないほどの好感触だったようです。
もちろん、全部が全部そうではなく、恐ろしい天狗党が通過すると聞いて、家々を焼き払い、村民全員で退去した村もありました。
そして、当然ではありますが、幕府の要請に従い、天狗党の行軍を、何としてでも阻止しようという藩もあります。
おおむね平穏に行軍していた天狗党に、初めて「待った!」をかけたのは、下妻・那珂湊(なかみなと)と、すでに2度天狗党と対戦し、いずれも敗れている高崎藩・・・さすがに、このまま天狗党に勝ち逃げさせるわけにはいきませんから、何としてでも一矢を報いたい。
そして、11月16日、そんな高崎藩の約200名が下仁田(しもにた)で待ちうけます。
下仁田戦争と呼ばれるこの戦いでは、あらかじめ2隊を敵陣正面に置き、別働隊2隊が、敵の左右側面から襲いかかるという、大軍師・山国の発案よる作戦が決行され、約2時間の激戦の末、高崎藩兵の死者・36名、天狗党側の死者・4名と、またしても天狗党の勝利に終りました。
まぁ、いくら非戦闘員を含むとは言え、1000名を越す行軍に対しての200名は、やはり多勢に無勢といったところでしょうか・・・。
しかし、この先、バッチリとタッグを組んだ松本藩と高島藩の総勢・2000名の連合軍が、下諏訪(しもすわ)で待ちうけます。
・・・と、このお話は、和田峠を舞台に行われた戦いの11月20日のページでどうぞ>>。
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コメント
こんにちわ~、茶々様!
天狗党・・・なぜに名前が天狗・・・?納党(納豆で良かでしょうもん)なんてどうでも良いことは置いといて・・・(´ρ`)ポカーン
私は日本史の中でも幕末が好きなんですが、この後の戊辰戦争でも思う事が
>藩という独立国家の集合体・・・
それを考慮しても征夷大将軍(武士の棟梁)である徳川家の命令に従わないというのは・・・と思う事があるのですが・・・なぜですか?大義名分をかざしても改易などがあるから・・・従わないわけにもいかないのでは?天狗党をすんなり通した藩にはお咎めはなかったのですか?
投稿: DAI | 2009年11月 2日 (月) 14時02分
DAIさん、こんばんは~
おそらく、大塩平八郎のあたりで、「幕府にガタがきてるんじゃないの?」事は、皆感じていたんじゃないでしょうか?
その後、ペリーの黒船で、将軍の後継者もモメて・・・公武合体して安政の大獄やって、なんとかその権威を保とうとしますが、井伊直弼暗殺で「やっぱりダメか」っていう空気が、すでにあったと思います。
それに、またこの先、出て来ると思いますが、耕雲斎は、あくまで「京都の慶喜に会いにいく」というテイでの行軍という事を主張していて、進攻する目的ではない事を明白にしていました。
文中にもあるように、そのために兵士の規律を徹底的に守らせ、行く先には通行願いを提出して・・・というダンドリを踏んでますので、通過させる藩のほうも、イロイロ言い訳ができたのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2009年11月 2日 (月) 17時53分