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2009年11月13日 (金)

尼子経久~下克上の果てに…

 

天文十年(1541年)11月13日、北条早雲と並んで、戦国の下克上のお手本と言われる尼子経久が84歳で病死しました

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このブログで、すでに度々登場している毛利元就(もうりもとなり)のお話の中で、その元就が家督を継いだ頃の毛利氏は、中国地方に勢力を誇っていた二大大名・大内氏尼子氏に挟まれた小国人であったと書かせていただきました。

そして、そこに登場する尼子氏の事を、あの婆沙羅(バサラ)大名で有名な室町時代の武将・佐々木道誉(どうよ)を祖に持つ源氏の名門である事も、どこかのページで書かせていただいたと思います。

Amakotunehisa650as しかし、そんな尼子氏・・・この尼子経久(あまこつねひさ)の代で、守護代を務めていた出雲(島根県)を追われているのです。

つまり、この経久は、一度地獄に落ちた後、再び這い上がって、一代で、出雲石見(いわみ)隠岐(おき・以上島根県)伯耆(ほうき)因幡(いなば・以上鳥取県)安芸(あき・広島県)備後備中備前美作(みまさか・以上岡山県)播磨(はりま・兵庫県)11ヶ国を手中に治める大大名にのし上がったというわけなのです。

まさに、下克上のお手本とも言える身の起しぶりですが、ただ、経久さんに関してのお話は、リアルタイムな史料が少なく、いずれも、後世の軍記物・・・お芝居がかった部分もあり、どこまで真実に近いのかはわかりませんが、とりあえず、本日は、その尼子経久の下克上物語を・・・

・‥…━━━☆

長禄二年(1458年)に、父・尼子清定の居城・月山富田城(がっさんとだじょう)で生まれた尼子経久・・・当時の出雲の守護は京極氏(8月7日参照>>)一門の尼子氏は、その守護代でした。

その主従関係の証として、幼い頃、京極氏に人質として出された経久は、おかげで京都という中心の地で、高い教養を身に着けるチャンスに恵まれます

根っからの武勇と相まり、文武両道の優れた若者に育った息子に、父・清定は大いに期待を寄せて、早くから政務につかせて経験を積ませようと、彼が21歳の時に家督を譲ります。

・・・とは、言え、父の希望は、単に守護代としての職務を真っ当するという物ではなく、守護の京極氏から、この出雲の地を乗っ取る事にありました。

すでに、父の思いを重々承知の経久・・・父とともに、税金を徴収しながら都に送らず、寺社領を横領するという行為で、京極氏を挑発します。

当然、京極氏は激怒して、守護代・経久をクビにするわけですが、彼ら父子には勝算がありました。

京都に郷を構える京極氏に対して、おそらく、地元の国人衆は、自分たちの味方についてくれるだろうと・・・

しかし、蓋を開けてみると、そのもくろみは見事ハズレ、ほとんどの国人が京極氏の味方となり、父子は、あっさりと敗れて地元を追われてしまいます。

父・清定は浪人として諸国を放浪中に病死・・・経久は、一門の佐々木氏六角氏を頼りますが、いずれも門前払いで、しかたなく、母方の実家・真木上野介(まきこうずけのすけ)のもとに身を寄せながら、武者修行と称して出雲国内を巡り、昔なじみに声をかけて、「尼子再興を計りたい!」という自らの意思を示して協力を求めて回りました。

しかし、もはや、彼の味方になろうという人は、ほとんどいません。

わずかに、父・清定の弟・幸久の家系・山中氏の郎党が十数人、自らの元家臣が数十名・・・これでは、なんとも心もとない・・・

そんな中、経久は、月山を本拠地に活動する芸能集団・鉢屋党の頭目・弥三郎を味方に引き入れる事に成功します。

彼らの集団は、70名余り・・・
しかも、芸能集団という隠れ蓑・・・
経久は、秘策を考え出します。

浪人の身となってから約二年、文明十七年(1486年)が暮れようとする大晦日・・・まさに除夜の鐘が鳴り響く闇夜の中を、経久らの一団が、搦め手から富田城内へと侵入し、密かにその時を待ちます。

そして・・・ピ・ピ・ピーン・・・0時をお知らせします。
日の出は、まだ遠いものの、新年がやってきました。

かねてより、新年の祝賀行事をしきってきた鉢屋党は、
「万歳~!」
「おめでとうございま~す」
「いつもより、多めに回しておりま~す!」
と、笛や太鼓の音も賑やかに、新年を祝賀する歌舞を披露しながら、堂々と大手門から城内へと入ります。

新年の祝賀ムード真っ最中だった城内は、賑やかな踊りを一目見ようと、次々に人が飛び出してきて、本丸も館も、ほぼカラッポの状態に・・・

「今がチャンス!」とみてとった経久・配下の者が、一斉に火を放ち、城のあちこちから火の手があがります。

それを合図に、鉢屋党の面々が、きらびやかな衣装を脱ぎ捨て、衣装の下に隠し持っていた刀や槍で、周囲に群がる見物人に斬りかかります。

祝賀ムードで、多くの者が武器を持たずにいた城兵は、もう、こうなるとなす術もなく、次々と討たれていきます。

さすがに、城将の塩冶掃部介(えんやかもんのすけ)は、槍を手に持ち応戦しますが、もはや、煙で、一寸先が見えない状態・・・近寄る者を斬って捨てた中に多くの部下の姿を見た掃部介は、「もはや、これまで!」と、妻子を斬り、自らも自害しました。

こうして、わずかの手勢で富田城を落とした経久の評判は、周辺諸国に一気に広まります。

一方で、京極氏が、時の当主・京極政経(まさつね)のもとで家臣団が分裂し、その勢力が衰えるという、経久にとってはラッキーな事もあり、政経の死後は、事実上、経久が出雲を統治する事となります。

その後、着実に領地を広げ、中国地方の覇者となっていく経久でしたが、途中、嫡男・政久(まさひさ)の死という悲しい出来事もありました。

永正十五年(1518年)に尼子に叛旗をひるがえした桜井宗的(そうてき)の居城・砥石城(といしじょう)を、息子・政久が大将となって兵糧攻めの最中、敵の矢に当たって亡くなってしまったのです。

一報を聞いて冨田城から駆けつけた経久は、まもなく宗的を討ち取りますが、すでに61歳になっていた彼にとって、期待の嫡男死は、かなりのショックでした。

亡き政久の嫡男・晴久(詮久)は、未だ幼く、次男・国久(くにひさ)、三男・興久(おきひさ)は、武勇は優れているものの、その器量は、経久のメガネに叶うものではありませんでした。

そこで、経久は、この後、自らの弟の久幸(ひさゆき・義勝)に家督を譲ろうとしますが、久幸は「総領の晴久が継ぐべき・・・我らが、後見人として晴久を盛りたてていくので、晴久の成長を待っていただきたい」と進言します。

「それならば・・・」
と、久幸の意見に従う経久でしたが、その事に不満を持ったのか、亨禄三年(1530年)、塩冶を継いでいた三男・興久が叛旗をひるがえします。

この反乱は4年後の天文三年(1534年)に鎮圧され、興久も自刃しますが、この間に、尼子の配下となっていた安芸の武田氏友田氏大内氏に敗北し、あの毛利元就も尼子から大内に寝返り・・・と、中国地方の勢力図が徐々に変わりつつある中、経久は成長した晴久に家督を譲ります。

一方、これまでは、九州の大友氏との争いを重視し、東の尼子氏とは、まがりなりにも友好関係を築いていた大内氏が、ここに来て大友氏と和睦をし、逆に尼子氏を敵視しはじめます。

もはや両者の決裂が確実となった事で、早期に決着を着けたい晴久は、天文九年(1540年)、大内の参加となった毛利の郡山城を攻める事にします。

この時、27歳の晴久に、かの久幸は
「元就は智謀に長けた武将やから、血気にはやらず、じっくりと見据えてから事を起こすべきやで」
と進言しますが、そんな久幸を晴久は「尼子比丘尼(あまこびくに)とバカにしてその臆病ぶりを罵ったと言います。

すでに、その年齢から病気にふせっていた経久も、晴久を病床に呼び、
家が滅ぶのは、一族の不和から・・・この事を胸に刻んで、親類をいたわり尊敬して、わがままに驕ってはいかん!」
と、出陣をとりやめるよう説得しますが、もはや晴久は取り合いません。

出陣を前にして、兄・経久を見舞った久幸は、
「兄貴も、もうかなりのお歳ですから、僕も、潔く、かの地で討死する覚悟ですが、心残りは大将の器ではない晴久の事・・・僕ら二人が死んだら、この家が滅ぶのも、そう遠くないかも知れません」
と言い、二人は、涙を流しながら、別れの盃を交わしたのだとか・・・

3ヶ月以上に及んだ籠城戦で晴久は、案の定、元就に手痛い敗北を受け(1月13日参照>>)、久幸はその言葉どおり、晴久を最後まで守り抜いて討死しました。

その敗北と同じ年・・・天文十年(1541年)11月13日経久は静かに84歳の生涯を閉じました。

その昔、苦渋をなめた事で様々な経験を積み、飢えた者には食事を与え、凍えた者には衣服を与え、怪我をした者には薬を与え、討死した者の家族を保護するという、周囲への心配りが見事だったという経久・・・

病にふせるその目に、孫・晴久の敗北はどのように映ったのでしょうか・・・

また、彼の遺言ともいえる家が滅ぶのは、一族の不和からの言葉は、晴久の心に響いたのでしょうか?

・‥…━━━☆

・・・では、ありますが、軍記物は、あくまで経久が主役で、主役を引き立たせるためか、晴久をかなりの愚将呼ばわりしていますが、現実には、晴久の時代が最盛期だったとも言われ、個人的にはそこまでの愚将とは思えませんが、この郡山城の敗北が、尼子氏にひとつの影を落とした事は確かかも知れません。
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