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2009年11月 5日 (木)

熱血先生・吉田松陰~松下村塾の教育方針

 

安政四年(1857年)11月5日、吉田松陰が長州藩の許可を得て、萩に松下村塾を開講しました。

・・・・・・・・・

吉田松陰(よしだしょういん)は、文政十三年(1830年)に長州藩士・杉百合之助(すぎゆりのすけ)の次男として生まれ、5歳の時に、山鹿流兵学の師範である吉田大助の養子となりますが、翌年に大助が亡くなったため、叔父である玉木文之進が開いた松下村塾(しょうかそんじゅく)にて、引き続き山鹿流の兵学を学びます。

その後、青年期には、諸国を遍歴して見聞を広め、江戸では佐久間象山(さくましょうざん)(7月11日参照>>)の師事を受けました。

やがて、嘉永六年(1853年)、ペリーが浦賀に来航した時(6月3日参照>>)には、師の象山とともに黒船を視察し、西洋の最新文明に大いに興味を持ちますが、翌年、ペリーの再来航の時に、艦隊に乗って密航しようとして失敗・・・国元の野山獄に収容されました。

獄中では、囚人や看守相手に、互いに得意分野を教えあう勉強サークルを立ち上げ、後の熱血指導の片鱗を垣間見せています(12月26日参照>>)

安政二年(1855年)には許されて出所するも、しばらく幽閉状態が続いていましたが、安政四年(1857年)11月5日、杉家の敷地内にあった小屋を改造して、叔父・文之進の松下村塾の名を引き継ぐ、松陰による松下村塾を開講したのです。

幕府が、勅許(ちょっきょ・天皇の許し)を得ずに日米修好条約を締結し、開国に踏み切った事に反対していた松陰が、その後、老中の暗殺をくわだてたために安政の大獄(10月7日参照>>)の粛清にひっかかり、再び投獄されるのが安政五年(1858年)の12月ですから、松下村塾で松陰が教鞭をとった期間が、いかに、わずかであるのかがわかります。

しかし、その松下村塾から多くの優秀な人材が輩出されるのはご存知の通り・・・翌・安政六年(1859年)に処刑され、わずか30歳でこの世を去る松陰(10月27日参照>>)

考えてみれば、この松陰という人の30歳での死は、完全に志半ば・・・もし、この方の生涯に松下村塾で教鞭をとるという出来事がなかったら、これほどの有名人として歴史に名を残す事はなかったかも知れませんが、この後、松下村塾の出身者が維新の動乱で大活躍する事によって、幕末屈指の人となるわけです。

それにしても、そんなわずかな期間に、優秀な人材を輩出するに至った松下村塾とは、どんな教育方針だったのか?
とても、気になるところです。

まず、一番の特徴は、個性の重視・・・松下村塾には時間割もなく、決まった教科書もありません。

藩校の明倫館と違って、士族などの身分に関係なく、入塾希望者のすべてを受け入れていたので、塾生の中には、働きながら通う者や、週何回も来られない者もいますから、昼夜を問わず塾舎は開放され、塾生自身が都合の良い時に出入りできるようになっていました。

また、塾生は受身ではなく、それぞれが異なる書物を読み、自ら選んだ学問を自らの力で学んでいくのです。

・・・と聞くと、結局は、もともと優秀な人たちが、個々に勉学に励んだだけで、松陰先生はあんまり関係ないんじゃないの?
と思ってしまいますが、松陰先生の教育は、そのサポート・・・誘導の仕方が見事なのです。

たとえば、塾にある本の中から、自らが選んだ本を手に取って、個人々々が読んでる・・・身近なところでは、公共の図書館みたいな風景ですが、松下村塾の彼らは、ただひたすら本を読んでいるわけではなく、わからない事、疑問に思う事があれは、その場にいる松陰先生に質問します。

すると、松陰先生が、その質問に答える形の講義のような物が始まり、横にいた塾生も、松陰先生の話に聞き入る・・・やがて、ころあいを見計らって、「・・・で、これをどう思う?」なんて、塾生に質問を投げかけると、それぞれが、いろんな意見を述べはじめ、議論が白熱した時などは、もともとの講義を中断しての討論会が始まるといった感じです。

松陰は、日頃から塾生との関係を師弟ではなく友人ととらえ、「自らが生徒に教えている」というのではなく、「ともに学んでいく」という姿勢を貫いていました。
なので、松下村塾には教壇はありません。

Yosidasyouin700a はじめて松下村塾に訪れた者には、誰が教師=松陰かがわからなかったくらい塾生の輪の中にどっぷり・・・時には塾舎を出て、田畑で草取りをしながら、友人同士の会話のように講義を進める姿が、近所の人の目に止まっていたと言います。

さらに、松陰は、塾生一人一人の個性を見抜く力&伸ばす力がすばらしい・・

たとえば、塾生の中でも双璧と並び証される久坂玄瑞(くさかげんずい)高杉晋作・・・入塾当時からしばらく、学問においては久坂がトップで、高杉は、どうしても久坂を追い越す事ができない。

すると、高杉の負けず嫌いの性格を見抜いた松陰が、わざと高杉の前で久坂を褒め、高杉の心情を刺激・・・すると、高杉は更なる勉学に励み、見事に進歩したのだとか・・・

また、先日、萩の乱の首謀者としてご紹介いた前原一誠(いっせい)(10月28日参照>>)・・・そのページでも、彼の事を「松下村塾で学んだ」と書かせていただきましたが、彼の家はかなり貧困で、結局のところ、わずか10日間くらいしか塾に通う事ができませんでした。

しかし、そんな前原の事を、松陰は・・・
「その才能は久坂に及ばない、その学識は高杉に及ばない、しかし、その人物の完全なるところは、この両名も八十(やそ・前原の事)には及ばない」
と語っていて、出入りの激しい塾内で、わずか10日間しかいなかった前原の事を、しっかりと見ているのがわかります。

それこそが松陰の真髄・・・。

松陰は、入塾してきた生徒に、まず「何をしたいのか?」を聞き、そのために学ぶべき事へと誘導する・・・知識を身につけるだけでなく、身につけた知識をどう生かすかを考えさせる。

「実行するために学ぶ」という事を塾生にも、そして自らにも求めていたのです。

この「自らにも求めた」・・・ここが、最も松陰らしいところではないでしょうか?

先に書かせていただいたように、師弟ではなく、友人として塾生に接した松陰・・・これは、やはり「教壇は廃止して友人のように兄弟のように…」を目指した現代の教育方針に似ている気がしますが、結果、現在の学校では、先生を先生とも思わず、悪気はないにしろ、タメ口でケリを入れてくる生徒もいると聞きます。

同じように、友人として接した松陰と、生徒にタメ口をきかれる現代の先生・・・どこが違うのか?

おそらく、松陰は、松下村塾の中で、最も熱心な塾生だったのではないでしょうか?

教えるのではなく、ともに学ぶ・・・最も熱心で、最も優秀な先輩に対しては、後輩たちは、同等の友人のようでも、決して尊敬の念を忘れる事はない。

自分の個性を理解してくれて、ともに学ぼうとしてくれる先生には、たとえ普段はタメ口でふざけていても、いざという時は、師として仰ぐ・・・そんな関係っていいなぁ~と、つくづく・・・
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コメント

タメ口・・・身分の垣根を越えて、共に学び合う、ということでしょうか、
尊敬出来る 高い教養を持った先輩から フレンドリーに接して貰えるなんて、魂が震えるような感激があったでしょうね。

投稿: 重用の節句を祝う | 2009年11月 5日 (木) 09時55分

重用の節句を祝うさん、こんにちは~

きっと、いい関係だったんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2009年11月 5日 (木) 15時54分

今は周りに迷惑をかける子を注意すると「人権侵害!!!」と訴えられちゃいます。そしてそれがまかり通ることが多い。世の中のルールをまだ未熟な子供が分からないのは仕方がない。それを教えてあげようとすると、「うちの子が傷ついた!」と親がエキサイトする。 ある意味、今時の子供は松下村塾の時代に比べてかわいそうかも・・・「昔は良かった」とはいつの時代でも言われることですが、戻ることは不可能でしょうかね?でもいい所は強引にでも見習わせるべき・・・ムリかな。

投稿: Hiromin | 2009年11月 5日 (木) 20時44分

Hirominさん、こんばんは~

「学びたい!」という欲求が、今の生徒さんたちとは違うでしょうから、そっくりとのまんま現代に取り入れる事は無いかもしれませんが、良いところは、やっぱ、今も見習うべきですよね。

投稿: 茶々 | 2009年11月 5日 (木) 23時29分

来年の大河ドラマ・花燃ゆの2回目の配役発表が昨日ありました。来年はどんな展開になるでしょう?
現時点での配役を見ると西日本出身の俳優が多くなりそうな気がします。高良くんが熊本、瀬戸くんが福岡、要さんが香川。
今後は主人公陣営である薩摩・土佐藩関係者や、対峙する徳川幕府関係者などを演じる俳優陣も発表されるので、独自性を出せる配役になれるかどうかが見ものです。

投稿: えびすこ | 2014年7月12日 (土) 10時23分

えびすこさん、こんにちは~

ほとんど逸話の無い方が主人公で、どんな風なドラマになるんでしょうね。
主人公が活躍…というよりは、周囲との人間関係で話を進めていく感じなんでしょうか?
気になります。

投稿: 茶々 | 2014年7月12日 (土) 15時41分

吉田松陰の凄いところは、好奇心が旺盛である上に、頭が良いことだと思います。だからこそ、伊藤博文・高杉晋作・久坂玄瑞らが集まって、共に学び、共に喜びをわかち合うようになっていったのかもしれません。その一方で、松陰が、過激な思想の持ち主だった点も見逃すことはできませんね。

投稿: トト | 2015年11月18日 (水) 18時40分

トトさん、こんばんは~

学園ドラマなんかで、対立校の不良がやって来たら、生徒より先に飛び出して行くような熱血先生だったかも…

投稿: 茶々 | 2015年11月19日 (木) 03時51分

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