頑固一徹で天寿を全うした稲葉一鉄
天正十六年(1588年)11月19日、美濃三人衆の1人として知られる稲葉一鉄が、74歳でこの世を去りました。
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もともとは、美濃国(岐阜県)の守護・土岐頼芸(よりなり)に仕えていた稲葉一鉄(いなばいってつ)・・・っと、本当のお名前は稲葉良通(よしみち)で、途中で剃髪して一鉄と号するようになるのですが、一鉄のお名前のほうが断然有名なので、本日は一鉄さんで通させていただきます。
やがて、あの斉藤道三が国盗りで美濃を制するようになってからは、その斉藤家に仕えるようになりますが、道三の孫・斉藤龍興(たつおき)の代になって、主君との間に亀裂が生じるようになります。
そこで、ともに土岐氏の時代からの仲間であった氏家卜全(うじいえぼくぜん)・安藤守就(もりなり)らとともに、当時、斉藤家の居城・稲葉山城を攻めあぐねていた織田信長の傘下へと鞍替えしたのです。
彼ら美濃三人衆の協力を得た信長は、永禄十年(1567年)8月、見事、稲葉山城を攻略し、龍興を美濃から追放したのでした(8月15日参照>>)。
その後、約20年間に渡って信長に仕えた一鉄は、その間に80回以上もの合戦に出陣し、一度の負けも経験しなかったという武勇伝の持ち主です。
元亀元年(1570年)6月の姉川の合戦では、窮地に陥った織田軍を、さらに攻める浅井軍に対して、側面からの猛攻撃で加勢し、見事、勝利に導きました(6月28日参照>>)。
この時、一鉄の臨機応変な素早い動きを喜んだ信長から、「長」の一字を与えられ、「長通(ながみち)」を名乗るように勧められましたが、一鉄は・・・
「今回の勝利は、三河はん(徳川家康の事)の力が大きかったんですわ。
僕の働きなんて大した事ないです・・・こんなんで、武勇やなんて言われたら恥ずかしいですわ」
と言って、信長の提言を断り続けて、譲らなかったのだとか・・・
この一件から、周囲の説得に応じず、自論を曲げない頑固者の事を「一鉄(徹)者」=「頑固一徹」なんて呼ぶようになったとされています。(あくまで伝説ですが・・・)
また、一鉄は、武功の誉れのみならず、学識の豊かさも兼ね備えていました。
特に、漢詩は得意中の得意だったようで・・・
天正二年(1574年)のある日、信長は、岐阜城の茶室に一鉄を招きます。
実は、信長は、ある者から「一鉄に謀反の疑いあり」との密告を受けていて、その報告が本当であるかどうかを確かめるために、一鉄を呼んだわけだったのですが、もし、本当に謀反の兆しがあったなら、その場で殺害するつもりで、茶室の壁の向こうで身を潜めて待っていたのです。
すでに不穏な空気を察していた一鉄は、何喰わぬ顔で、茶室へと入り、接待役の武将を対面しながら、何とか弁明の糸口を探ります。
ふと、床の間を見ると、そこに一服の掛け軸が・・・そこには、禅僧の筆による漢詩が書かれていました。
「送茂侍者」
「木葉辞阿霜気清
虎頭載角出禅扃
東西南北無人処
急急帰来話此情」
↓(読み下し)
「もじしゃをおくる」
「ほくえふがらをじしてそうきよし
ことうつのをいただいてぜんけいをいず
とうざいなんぼくひとなきところ
きゅうきゅうにかえりきたってこのじょうをかたれ」
この漢詩は虚堂智愚(こどうちぐ)という中国の南宋(なんそう=1127年~1279年)時代に活躍した禅僧の語録の中に収められている詩なのですが、
残念ながらネット検索しても意味は出て来ませんでした。
あくまで、茶々が大昔にちょっとだけカジッた中国語の知識で読むと
「木葉はくねる山川を経て厳しい冷気に清まる
虎は頭に角をつけて禅の道から出る
どこにも人がいない場所
急いで戻って来て、この話をしよう」
みたいな感じ???
(意味ワカランので、たぶん間違ってると思うけど…(ToT)
とにもかくにも、一鉄は、この漢詩をすらすらと読んでみせ、その意味を聞かれて、くわしい解説をする(すごいな~汗)とともに、自分には、まったく謀反の気持ちなどなく、今後も、信長にひたすら尽くすつもりである事を切々と話しました。
壁のむこうで、一鉄の言葉を聞いていた信長は、武勇だけでなく、その学識の深さにも感銘を覚え、自ら、一鉄の前に進み出て、つまらない密告を信じてしまった事を詫びるとともに、今後とも自分を支えてくれるよう申し出たのです。
結局、一鉄があまりにも信長に重用される事を妬んだ者によるウソの密告だったようですが、これを境に、信長は、ますます一鉄を信頼するようになり、一鉄も、信長が亡くなるまで、その思いに答えるべく尽くしました。(5月6日参照>>)
本能寺で信長が横死した直後は美濃を固め(6月8日参照>>)、
その後に、天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の合戦(3月11日参照>>)で羽柴(豊臣)秀吉の味方をしてからは、秀吉に仕えるようになりますが、
翌・天正十二年の小牧・長久手の戦い(3月28日参照>>)で、対・小牧山の岩崎山砦の守備を任されたのを最後に、戦場へのお出ましは、どうやら引退されたようで、それから四年後の天正十六年(1588年)11月19日、美濃清水城にて静かに息をひきとりました。
享年74歳・・・乱世の真っ只中に生きた武将としては、数少ない天寿を全うできた人・・・その生き抜く事ににおいても頑固一徹を貫いたと言ったところでしょうか。
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コメント
現代人は、漢詩を…レ点や一二点などの返り符合+送り仮名なんか無しでは読めまへんでぇ〜。一鉄さん…返り点も送り仮名も付いてない、原文のままの漢詩をスラスラ読むとは、ただ者ではありまへんなぁ〜!!!。
投稿: マー君 | 2009年11月19日 (木) 11時58分
マー君さん、こんばんは~
私も意味わかりません。
ホント、難しいですね(#^o^#)
投稿: 茶々 | 2009年11月19日 (木) 18時48分
厭離穢土欣求浄土
はじめまして、太閤殿下と申します。
たまたま、携帯で見つけて以来、毎日アクセスしています。
大久保忠隣と十手についての記事をお願いします。
葵徳川で改易になりますが、その後が知りたいです。
時代劇の中で房の色や長さ、形が違うのは“なぜ”か知りたいのでお願いします
鬼平は鉤なしで、与力は紺房で同心は赤房で同心でも懐に十手を入れているのもあれば脇に差すシーンも見ます。
是非とも宜しくお願いします。
投稿: 太閤殿下 | 2009年11月20日 (金) 11時48分
太閤殿下さん、ご提案ありがとうございました。
今後の参考にさせていただき、色々検討してみます。
投稿: 茶々 | 2009年11月20日 (金) 15時40分