剣豪将軍・足利義輝~京都奪回作戦の日々
永禄元年(1558年)11月27日、三好長慶と和睦した第13代室町幕府将軍・足利義輝が、5年ぶりの入京を果たしました。
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室町幕府を開いた初代・足利尊氏に始まり、第3代将軍・足利義満を頂点に、その栄華を誇った足利将軍家でしたが、第8代・足利義政の時代に勃発した、ご存知、応仁の乱(5月20日参照>>)のあたりから、実力が物を言う戦国乱世へと突入していきます。
さらに、第10代・足利義稙(よしたね)の頃からは、もはやお飾り状態・・・直属の武力さえ満足に持たない将軍は、その時々に将軍を担ぐ有力武将の動向に左右され、京で争乱が起こるたびに越中(富山県)に逃げたり、阿波(徳島県)に逃げたり、近江(滋賀県)に逃げたり・・・
そんな中、第12代・足利義晴(よしはる)の嫡男として生まれた足利義輝(よしてる)は、生まれながらにして、その将軍を継ぐ運命にあった人ですが、彼が元服し、父から将軍職を譲られた11歳の時には(12月20日参照>>)、やはり、めまぐるしく変わる敵味方に翻弄され、近江の坂本に滞在中の時でした。
当時、将軍に代わって実権を握っていた管領・細川晴元と、その家臣・三好長慶(みよしながよし)が対立し、抗争に敗れた晴元とともに、京を追われてしまっていたのです。
当然の事ながら、父・義晴は、長慶に奪われた京都奪回をめざして、銀閣寺の背後にある東山に、中尾城(京都市左京区)なる城を築き、その足がかりにしようとハリキリますが、残念ながら、その城の完成を見ないまま、天文十九年(1550年)5月、40歳で病死してしまいます。
未だ15歳の若き将軍・義輝の行く末を案じての無念の死でした。
その後、父の遺志を継いで、完成した中尾城に入った義輝は、父の家臣を前に・・・
「昔から「父の仇とは共に月日の光を戴かず」と言う・・・我ら、志を一つにして大きな敵に打ち勝とう!万が一この願いが叶わず、屍(しかばね)を軍門にさらすとも、一歩たりとも退かず、公方らしく戦死したい」
と、堂々を語ったと言います。
この大演説に、その場にいた者は、皆、感激し、「この主君のために死のう」と思ったのだとか・・・
なんせ、この頃の義輝には、堺に人を差し向けて、火薬の原料となる硝石を買い求めた記録があり、直後の7月に起こった三好軍との京都市中の小競り合いでは、敵方の与力を鉄砲にて撃ち取った記録(歴史上、鉄砲での戦死は初記録)もあり・・・いち早く最新兵器の鉄砲に目をつけていたという大器を思わせるその行動には、周囲も大いに期待した事でしょう。
しかし、やっぱり長慶は強い・・・その後も、度々、三好軍の近江への進攻を許し、結局は、かの中尾城に自ら火を放ち、再び、坂本へ、継いで堅田、さらに朽木谷(くつきだに・滋賀県高島市)へと撤退するハメになってしまいました。
でも、さすがの義輝・・・まだ、諦めません。
正面からぶつかっては勝ち目がないと判断した義輝は、テロ活動にて対抗します(6月9日参照>>)。
長慶が、伊勢貞孝の宿所で宴会をしていると聞けば、そこに美少年を送り込んで討とうとしたり、またまたイケメン武士を送り込んで、乱舞のドサクサで殺そうとしたり・・・
しかし、美少年は仲間を手引きする前に捕まり、乱舞の武士は、長慶に軽傷を負わせるも、命を取る事はできませんでした。
ただし、本人こそ大事に至らなかったものの、長慶の義父・遊佐長教(ゆさながのり)は、義輝の放った僧によって殺害されています。
ここで、力ワザでは不可能と考えた義輝は、ちょっくら父の無念を棚の上に置いといて、近江守護の六角義賢(ろっかくよしかた)を通じて、長慶に和睦を申し入れます。
長慶は、晴元を廃して、細川氏綱を管領職につかせる(9月14日参照>>)事などの条件とともに和睦に応じ、義輝は久々に京都に戻ります。
京都では、長慶を御供衆(おともしゅう)に抜擢して、管領・細川家の家臣から、将軍直属の幕臣に出世させる大盤振る舞い・・・オイオイ、あの中尾城での大演説は?
・・・と、ツッコミを入れる間もない、わずか1年後、反長慶派をかき集めて態勢を整え、京都に迫った晴元に、ちゃっかり同調して、霊山城(りょうざんじょう・京都市東山区)へと移動し、晴元に協力する事を表明します。
長慶への優遇は、敵を安心させるための、義輝なりのポーズだったのか?、はたまた、本当にコロコロと体制を変える人だったのか?
ところが、これに対抗すべく、長慶が集めた兵は、なんと2万5000の大軍・・・もはや、その実力は比べ物にならないくらい大差がついてしまっていたのです。
長慶の兵の多さに驚いた晴元は、あっさりと逃走・・・すでに同調してしまった義輝も、京都を追われ、再び朽木谷へと舞い戻ります。
ここで、過ごした5年間・・・この間の義輝は、ただ、ひたすら武芸に励みます。
剣豪の塚原卜伝(ぼくでん・卜傳)(2月11日参照>>)の直伝により、めきめき上達した義輝は、武芸者として200人余りを斬り伏せたとも言われ、これほど腕のたつ将軍というのは他に類を見ず、「剣豪将軍」なるニックネームもあるほどです。
それと同時に、義輝は、やはり、この間にも、再び父の遺志を棚の上に置いて、長慶との融和政策に転進・・・これまた、ラッキーな事に、この長慶という人が、将軍との上下関係を重んじる古風なイイ人だったため、なんと!かの日の裏切りを許し、義輝からの和議要請をOKしたのです。
かくして、永禄元年(1558年)11月27日、義輝は、第13代室町幕府将軍として、5年ぶりに京都に戻ったのでした。
京都に戻った義輝は、積極的に各地の戦国大名と接触・・・今や都一の実力者=長慶の支援を受けているとあって、将軍としての権威もやや復活したのか、あの上杉謙信も上洛して義輝に謁見し、その名の一字を貰い上杉輝虎と名乗っていますし(4月27日参照>>)、未だ名も無き地方侍だった織田信長も「帰京祝い」と称して上洛し、謁見しています(3月2日の前半部分参照>>)。
この状況に危機感を抱いたのは、三好家の家臣の中でナンバーツーの座を獲得し、大和(奈良県)を攻略しつつあった松永久秀(10月10日参照>>)・・・
しかし、それでも、将軍を重んじる長慶が健在の数年間は、何とか平成を保っていましたが、やがて永禄七年(1564年)、長慶の死を以って、その均衡が破られる事になるのです。
・・・が、やはり、この続きのお話は、5月19日の【剣豪将軍・足利義輝の壮絶最期】へどうぞ>>。
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コメント
小説でも「剣豪将軍」とありますが、本当の様ですね。
毛利輝元もこの義輝から1字をもらった武将ですね。
投稿: えびすこ | 2009年11月27日 (金) 14時19分
えびすこさん、こんにちは~
筋がイイという事で、なかなかの腕前だったようです。
投稿: 茶々 | 2009年11月27日 (金) 14時44分
茶々さんこんにちは!
出ました剣聖将軍!国のトップにして剣の達人・義輝さんはマイナーだけど根強い剣豪ファンの多い人物ですよね リアル戦国無双かました人とか言われて(笑) 顔も精悍だし、何より松永さんの名を世に轟かせた張本人ですし(笑)
「その日」楽しみにしてます!
投稿: ryou | 2009年11月27日 (金) 18時32分
ryouさん、こんばんは~
さすが!
その日がいつかをご存知のご様子・・・
まだ、半年も先ですが、一応、その心積もりでいますので、また、よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2009年11月27日 (金) 23時04分
茶茶さんこんにちは~
剣豪将軍、健気に再興に頑張る方かと思っていたら意外にしたたかな方だったんですね。さすがはあの義昭のお兄さん。
「あの日」と言うと…義輝さんが、○○に於いてはNO.1将軍と言われてる基になった日ですね。
輝をもらったと言えば、政宗の父の輝宗なんかも居ますね。ま、あそこんちは代々その時の将軍からの名前1字+宗が慣例の家ではあるので珍しくもないですが。
池田恒興の別名(改名後の名前?)が「信輝」だったと思いますが、この人ももらった口なんでしょうかね?普通に考えたら、信長の単なる家臣に将軍があげるかなあ?とは思いますが。
なんか特別なエピソードがあったら面白いですよね。
投稿: おみ | 2009年12月 3日 (木) 04時18分
おみさん、お早うございます。
>なんか特別なエピソードがあったら・・・
ホントですね。
今度、また調べてみます(゚ー゚)
投稿: 茶々 | 2009年12月 3日 (木) 08時29分