信長VS石山本願寺~第二次木津川口海戦
天正六年(1578年)11月6日、織田信長VS石山本願寺の戦いの勝敗を決する事になる戦い・第二次木津川口海戦がありました。
・・・・・・・・・
天下をめざす織田信長によって、名ばかりの将軍となった室町幕府第15代将軍・足利義昭(よしあき)の呼びかけに、朝倉義景(よしかげ)・浅井長政(あざいながまさ)・武田信玄・上杉謙信らが応じる一方で、本願寺の顕如(けんにょ)も全国の本願寺門徒に蜂起を呼びかけ(9月12日参照>>)、まさに、絶体絶命の信長包囲網が形勢されます。
しかし、上洛間近と思われた信玄の死という信長にとってはラッキーとも言える出来事も相まって、浅井・朝倉を倒し(8月27日参照>>)、長島一向一揆を根絶やしにし(9月29日参照>>)、長篠で武田勝頼を破り(5月21日参照>>)・・・と、信長は一つ一つ片付けていきます。
(【高屋・新堀城の戦い】も参照>>)
やがて、天正四年(1576年)5月、一向一揆の本拠地である大坂は石山本願寺を取り囲んだ信長と、顕如との直接対決=天王寺合戦が火蓋を切ります(5月3日参照>>)。
この戦いのあと、信長が、より包囲を強化した事で、籠城する側の石山本願寺の兵糧が尽きるのも時間の問題と思われましたが、ここに来て、顕如の呼びかけに応じた毛利輝元が参戦・・・その年の7月には、毛利配下の水軍と村上水軍の強力タッグで、信長配下の水軍を翻弄し、海上からの兵糧の運びこみに成功します(第一次木津川口海戦:7月13日参照>>)。
瀬戸内を牛耳る水軍のゲリラ的戦法に見事にしてやられた信長は、屈辱を晴らすべく準備にとりかかり、2年後の天正六年(1578年)9月、前代未聞の鉄甲船を完成させます。
(【丹和沖の海戦】参照7>>)
(【鉄甲船の完成披露】参照>>)
この間に、越後(新潟県)では、あの謙信が亡くなったために後継者争いが勃発し(3月13日参照>>)、もはや信長どころではなくなり、信長は石山本願寺と、それを支援する毛利にターゲットを絞る事が可能になりました。
「もう、これ以上、兵糧を搬入させるものか!」
・・・と、いよいよの雰囲気になりますが・・・
その10月、突然、有岡城の荒木村重(むらしげ)が叛旗をひるがえし、本願寺&毛利側に寝返ってしまったのです(12月16日参照>>)。
有岡城は、現在の兵庫県伊丹市にあった城・・・こんな本願寺に近いところが、その配下となってしまっては、いくら海上を封鎖しても、陸路で支援をされかねませんから、信長は急遽、時の天皇・第106代正親町(おおぎまち)天皇を動かし、本願寺に講和を持ちかけます。
時間稼ぎをして、その間に有岡城を陥落させるつもりでした。
天皇からの勅使(ちょくし・天皇の使い)が、本願寺に使わされたのは11月4日・・・和睦の話を聞いた顕如は、「もはや、本願寺だけの戦ではない」と、毛利へも勅使を送る事を要求・・・毛利側からもOKがない限り、和睦には応じない構えをみせました。
しかし、そのわずか2日後、未だ、勅使の訪問を受けていない毛利は、600艘の船団を引き連れて、大坂湾へと到着・・・本願寺に兵糧を搬入すべく、木津川河口へと侵入しますが、当然、信長の軍勢は、これを阻止しなければなりません。
こうして天正六年(1578年)11月6日、第二次木津川口海戦が勃発するのです。
午前8時、河口に、織田の水軍の指揮を任された九鬼嘉高(よしたか)が乗船する旗艦をはじめ、6艘の鉄甲船、1艘の安宅船と無数の軍船が待ち構える中、小回りのきく毛利水軍は、右へ左へと素早く動き、むしろ圧し気味に攻勢をかけます。
しかし、考えて見れば、鉄甲船は動き回る必要はありません・・・ただ、動かざること山の如く、そこにいて、毛利水軍の侵入を防げば良いのです。
当然の事ながら、毛利水軍の小舟のほうは、そこを突破するためにも近づいていくしかないわけですが、鉄甲船には、それぞれ3門の大砲=合計18門が・・・敵船を射程距離に収めるなり、大砲は一斉に火を吹き、小さな軍船は、戦う前から木っ端微塵に砕かれます。
何とか、大砲の攻撃をくぐり抜けて鉄甲船に近づいた船も、もはや、相手が鉄の壁では、焙烙(ほうろく・手投げ弾のような武器)も、矢も、役に立ちません。
「六艘の大船・・・敵船を間近く寄せつけ、大将軍の船と覚(おぼ)しきを、大鉄砲を以って打ち崩し候(そうら)えば、是(これ)に恐れて中々寄せ付かず」(信長公記)・・・と、織田側の一歩的な勝利で、お昼頃には、船団は壊滅状態となったという事です。
・・・と、これは、勝利者である織田側の言い分なので、気持ちとしては、毛利の言い分も聞いてみたいところですが、残念ながら、毛利側の記録はほとんどありません。
第一次の海戦で大活躍した村上水軍もの話もまったく登場せず、ひょっとしたら村上水軍は、この第二次には参戦していなかったのではないか?と言われています・・・まぁ、毛利自身も水軍持ってますし、隆景の小早川水軍もいますからね~。
ただ、この時、軍船が苦戦する合間を縫って、兵糧船は木津川口に達し、無事、兵糧を運び込んだとも言われていて、そうならば、石山本願寺と毛利にとって、敗北ではあったものの、目的は達成されていた事になります。
ただ、この合戦によって大坂湾の制海権を信長が握った事は確か・・・補給路を断たれた石山本願寺は、しだいに苦境に立たされる事になります。
やがて、翌・天正七年(1579年)には、かの有岡城も開城され(10月16日参照>>)、村重は逃亡・・・その家族と家臣がことごとく処刑される中、石山本願寺への総攻撃もまもなく開始されるのでは?とおもわれましたが、意外にも信長は、正親町天皇を間に置いての講和を再び持ちかけ、本願寺の明け渡しを要求しました。
これには、やはり、長島一向一揆と違って、こちらは、まさに本拠地で、本願寺門徒の信仰の中心である顕如がいますから、未だ、一向一揆発祥の地である加賀が微妙な時に、ムリヤリな武力行使を避けたのでは?とも考えられます・・・(加賀一向一揆が完全に終結するのは天正八年の11月:11月17日参照>>)。
また、正親町天皇の勅命(ちょくめい・天皇の命令)にこだわったのも、もともと将軍・義昭の呼びかけで始まった石山合戦を、完全に終結に持っていくためには、「将軍よりも上の天皇の力を借りるしかない」との思いからであったろうと言われています。
なんだかんだで、信長さん・・・けっこう上下の力関係を考えてます。
かくして顕如が講和に応じ、石山本願寺を出たのは天正八年(1580年)の3月、その後、顕如の息子・教如(きょうにょ)が出て、本願寺が明け渡されるのは8月の事・・・以後、石山本願寺の跡地は、信長の物となり、ここで、十一年に渡る石山合戦が終りを告げました。
その後の本願寺については、10年に及ぶ合戦が終結する8月2日【石山合戦・終結~石山本願寺炎上】でどうぞ>>。
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コメント
本願寺側には、反信長の武士もいたでしょうが、一般人(農民)の方々が、多かったような~
信長の治世で、一般人が、虐げられたと云う事はなかったのですよね?(伊賀攻めは?)
本願寺は結果的に、罪なき一般人を巻き込んだ(信心を利用した)と思えます。
正教分離の先駆けとなった事が、現代日本に寄与している1コマだと認識してます。
投稿: 山は緑 | 2009年11月 6日 (金) 12時23分
山は緑さん、こんばんは~
時代が時代ですし、結局は武力で天下統一しようとしているわけですから、信長のやった事が100%正しいとは思っていませんが、一般的に言われているように、信長だけが、鬼のように殺戮を繰り返したとも思っていません。
伊賀も、独立を主張してゲリラ戦を展開しながら抵抗する武装集団ですから、信長から見れば、完全な一般市民ではなかったと思います。
もちろん、戦いになった以上は一般市民も巻き添えになる事もあったと思いますが、それを言ったら戦国武将全員が、一般市民を巻き込んで戦いを繰り返していたわけですから・・・
信長を「ヒドイ」と言うなら、敵地の一般人を大量に捕まえて、奴隷として売りさばいていた上杉を、なんで誰も責めないのかが不思議なくらいです。
それがまかり通っていた戦国時代なのですから、そんな時代を統一するためには、犠牲も払ったでしょうが、それに対して信長個人を責めるのは酷な気がします。
投稿: 茶々 | 2009年11月 6日 (金) 18時39分
私は、信長さんはすごいと思ってますよ^
むしろ、本願寺が、信仰心を利用して、一般人をたらし込んだって思います。
政教分離は、この時代の世界史でも稀にみる偉業だとの認識です。
投稿: 山は緑 | 2009年11月 6日 (金) 20時02分
茶々さん、こんばんは!
私も、信長はかなり歪曲されていると思うのですが。
秀吉家康は信長の功績を正しく伝えていないと思います。
なるべく信長は残虐な事をして天下統一をしようとしたと。自分達はそんな残虐な事はしてないと伝えたいのではないかと思うのですが。
特に家康は信康の件もありますから。
茶々さんのブログに書いていた通り、延暦寺の焼き討ちはその規模は小さかった事やねねに対する手紙など、信長は評価されているほど冷酷非道とは思わないのです。
人を見いだす能力、楽市楽座による経済の活性化など、一流の経営者だと思います。
つい贔屓目ですが。
再来年の大河は誰が演じるのですかね。
ちなみにお江は松たか子に演じて欲しいと思ってます。
(余計な事でした)
それにしても、義の上杉も他国では非道な事をしたのですね。
知りませんでした。
投稿: シンリュウ | 2009年11月 6日 (金) 20時21分
山は緑さん、こんばんは~
>政教分離は、この時代の世界史でも稀にみる偉業だとの認識です
おっしゃる通りです。
お返しコメントは反論という意味でなく、補足みたいなつもりで書かせていただきました。
言葉足らずで申し訳ないですo(_ _)oペコッ
投稿: 茶々 | 2009年11月 6日 (金) 23時06分
シンリュウさん、こんばんは~
私も、信長が特別好きなわけではないですが、あまりに悪の権化のように言われると、ついつい贔屓めに見て味方してしまいます。
逆に、あまりに世間が褒めちぎると、ついついイケズな事を書いてしまします(A;´・ω・)アセアセ
投稿: 茶々 | 2009年11月 6日 (金) 23時12分
実際に兵糧の搬入に成功していたのだとしたら、海上護衛戦の要諦を外さず着実に実行してみせた毛利水軍の戦略的勝利ということになるのでしょうね。
この時の織田水軍、さしずめ第一次ソロモン沖海戦で敵の物資揚陸を阻止すべく出撃しながら、護衛の艦隊を撃破しただけで「勝利」と称して(味方の軍艦の多くが傷つかないうちに)さっさと引き揚げ、肝心の輸送船団を無傷のまま見逃した日本海軍のような感じだったのでしょうか。
かたや毛利水軍には、商船隊の護衛に空母4隻を投入、うち1隻を犠牲にしてまでマルタ島への補給を敢行した英海軍の心意気に近いものがあったのでしょうか。
このあたりが、錬度と伝統と、目的達成の為には時に犠牲を省みない精神を培った組織と、最新装備に驕りつつ、その実俄か作りで寄せ集めの組織の違いなのかもしれませんね。
ソロモン沖で見逃された船団が上陸した島がガダルカナルですが、時のわが国には(のちにラオスで消息を絶つ)変な軍師気取りが跋扈するくらいで、戦況改善の望みも和睦の斡旋を頼めるあても何一つありませんでしたっけ。
投稿: 黒燕 | 2009年11月 7日 (土) 00時40分
黒燕さん、こんばんは~
近代史は苦手なのでよくわかりませんが、これを境に石山本願寺の籠城が時間の問題となった事は確かですので、結果的には信長の勝利という事になるのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2009年11月 7日 (土) 01時24分
何時も疑問に思うんですが、何故、親鸞の一派だけ、妻帯が許されていたんでしょうか?始祖自体がそうだったということでしょうが、それ以外の裏というか、徳川幕府の本音や当時の状況が知りたいものです。明治の初め妻帯が許可されて、坊主は大喜び、質も変わってきて、花坊主が増えて云々という人もいますが・・
投稿: ! | 2009年11月 7日 (土) 09時13分
!さん、お早うございます
経典を奥まで読んだわけではないので、よくわかりませんが、「非僧非俗」=「出家僧でもなく俗人でもない」を看板にしていたので妻帯もOKって事なんでしょうが、結局のところは、親鸞本人が女性をそばに置いていた以外の理由は、私もわかりません。
家康のホンネとしては、【二つの本願寺】で書かせていただいたように、「敵に回すより味方に取り込んで、徐々に力を弱めていこう」ってトコではないですか?
投稿: 茶々 | 2009年11月 7日 (土) 11時52分
茶々さん、
御先祖は村上水軍と聞きましたので、私の先祖と大阪で激突したでしょうね。
でも織田の治世もそんなに悪政ではないです。結構庶民を保護しましたし、兵農分離をしたので戦が専門化しました。まあ私が織田の子孫なのでそう言う立場だからですけど・・・
でも両方ともお金を使ったでしょうね。借金は残らなかったのでしょうか?私は整体の関係の借金がありますが、信長も本能寺もどう養ったのかなと思いました。司馬遼太郎だと信仰からと言うでしょうが、お金も無いと行かないのではと思いますし、本願寺でも信長と仲良くした人もいるのではと思いました。
ところで村上水軍、本願寺の子孫の方は信長関係者が来るのは今でも嫌なのかなと考えたりもします。でも体を治さないとそういう所も行けないですね。2週間家で過ごしています。今はラビリンスの録画を見ています。どうも日本映画の刀のシーンは苦手です。西欧のサーベルは平気ですが、西欧かぶれかなと思いました。きっと顕如は織田の子孫はどいつこいつも南蛮かぶれと思うでしょう。
投稿: non | 2016年2月17日 (水) 15時41分
nonさん、こんにちは~
個人と個人の間ではどうかわかりませんが、軍とか団体のレベルでの借金なんて考えは、当時は無かったんじゃないですか?
何でも、タダで分捕ってくれば良いわけですから…
合戦の作戦の一つとして青田刈りなんてのもあったくらいですから…
投稿: 茶々 | 2016年2月17日 (水) 16時34分