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2009年11月21日 (土)

平将門の乱~坂東のヒーロー・決意!

 

天慶二年(939年)11月21日、平将門常陸国府を襲撃・・・藤原維畿を捕らえて国印を奪い取りました。

・・・・・・・・・・・・・

そもそもは、天皇の子供たちは「王」「親王」を名乗り、朝廷からのお手当てで暮らしていたわけですが、当然の事ながら1人の天皇から生まれる皇子は何人もいるわけで、第50代・桓武天皇の孫(もしくはひ孫)高望王(たかもちおう)(5月13日参照>>)の頃になると、その数が増えまくり、朝廷は財政難に苦しめられます。

そこで、朝廷内で出世コースに乗れなかった多くの皇族の末裔たちが、天皇から姓を賜り、役人として地方へ送りこまれたのです。

この桓武天皇の血筋から枝分かれして「平」を賜ったのが桓武平氏清和天皇から枝分かれして「源」の姓を賜ったのが清和源氏、他にも宇多天皇からは宇多源氏村上天皇から村上源氏と色々あります。

そんな中央の出世レースからは、はじかれた彼らであっても、地方へ来れば、天皇の子孫というだけで尊敬され、役人の立場を利用して税をごまかしながら私腹を肥やす事も可能・・・ましてや、関東は、未だ未開拓な土地が豊富にありますから、それらを開拓して税収そのものを増やす事もできますから、ある意味、出世の望めない都にいるよりは、よっぽどオイシイ思いができたわけです(11月8日参照>>)

Kouyakuzusicc・・・で、平の姓を賜って地方に赴任した高望王の三男で、下総国(しもうさ・千葉県北部)佐倉を領地としていたらしい鎮守府将軍・平良将(よしまさ・良持)の息子として生まれたのが平将門(たいらのまさかど)です。
参考:桓武平氏の系図>>

・・・とは言え、その出生年はよくわかりません。

とにかく、幼くして父を亡くした将門は、立身出世を求めて京の都へと向かい、ラッキーにも、時の権力者・藤原忠平への仕官に成功し、ここで様々な事を学ぶとともに、朝廷とのつながりも確保します。

しかし、延長八年(930年)頃、伯父である平国香(くにか・國香)が、亡き父の領地侵略しているとのニュースを聞いた将門は、いてもたってもいられず、京での出世をあきらめて故郷へと急ぎます。

しかし、すでに多くの領地は国香に奪われたあと・・・しかも、朝廷の支配下にありながら、その支配が行き届かない関東では、農民に法外な重税を課し、国司は私腹を肥やし放題です。

そんなタイミングで京から戻って来た将門に、多くの人が期待を寄せたのも無理はありません・・・まして、彼は、困った人を放ってはおけない親分肌。

いつしか、農民たちを統率しながら荒野を開墾し、砂鉄から鉄も造り、それとともに、その戦力も領地も徐々に大きくなっていきます。

そんな将門を脅威に思った国香が、婚姻関係にある源護(みなもとのまもる)を使って攻めて来ますが、あっさりと返り討ち・・・

さらに、伯父・平良兼(たいらのよしかね)との抗争にも打ち勝つ将門でしたが、これは、あくまで同族同士の領地争い・・・この時点で朝廷から咎められる事はありませんでした。

ところが、そんな中で勃発したのが隣国・武蔵(むさし・埼玉県&東京都)のいざこざです。

都から赴任した興世王(おきよおう)源経基(みなもとのつねもと)という二人の役人が、その権力をかさに着て乱暴狼藉を働いていた事に怒った郡司(ぐんじ・国司の部下の地方官)武蔵武柴(むさしたけしば)が立ち上がり、両者の対立が激しくなっていったのです。

それを聞いた将門は、かの親分肌をフルに発揮・・・頼まれてもいないのに、仲裁役をかって出て、両者の仲を収めようとします。

これによって興世王と武柴はなんとか和解しますが、経基が、何を勘違いしたのか、「将門が興世王と武柴を取り込んで、自分を攻める」と思い込み、あわてて都へ行って、朝廷に「将門に謀反の疑いあり!」と通報してしまったから、都は大騒ぎとなります。

そんなこんなの天慶二年(939年)夏頃、将門のところに1人の男が助けを求めてやってきました。

常陸国(茨城県)の豪族・藤原玄明(はるあき)という男で、秩序を乱す無法者として手配されていた、あまり評判の良くない男でした。

この時も、収穫物を横領したり、税金の取立てに来た役人に暴行を働いたりして、国司の藤原維畿(これちか)に逮捕されそうになったため、仲間とともに逃走をはかり、将門を頼ってきたのです。

確かに悪人のレッテルを貼られている男ではありますが、相手は、横暴を極めている国司の1人です。

維畿という人物はともかく、国司による支配体制を許せない将門は、玄明をかくまい、維畿と戦う道を選んだのです。

かくして天慶二年(939年)11月21日、1000の兵を率いて常陸へと出陣・・・まずは、維畿に対して「玄明を逮捕しない」という約束を取りつけようとしますが、維畿が、そんな約束を簡単にOKするはずもなく、当然、交渉は決裂します。

すると、将門は即座に国府(地方の役所)を取り囲み、中にいる3000の兵の逃走経路を遮断して孤立させ、交戦する者はことごとく討ち取り、食糧倉庫の鍵も奪取・・・そうなれば、もはや、先は見えたも同然となり、維畿は、やむなく降伏します。

将門は維畿を捕らえ、国印をも奪い取ります。

国印とは、当時の公文書に押される銅製のハンコで、朝廷権力の象徴でもありましたから、この行為・・・つまりは、朝廷から常陸という国を奪い取ったという事になります。

この時から、将門は朝敵=国を相手の謀反人という事になったのです。

もう、後へは退けません。

「こうなったら、関東一円の国の国印を奪い、すべての国司を京都に追い返してしまおう」・・・そうすれば、重税を課し、私腹を肥やす国司の支配から、万民を開放する事ができる。

将門、86日間の戦いの始まりでした。

世に言う平将門の乱です。
(続きは【平将門怨霊伝説】で>>)
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コメント

本日は何も無いのですか?

出来れば何か書いて下さい。(その日にちなんでなくても)


それと、浜口雄幸首相について知りたいので書いて頂ければ有り難いです。

自分が知っているのは、男子の本懐と東京駅で襲われただけです。

投稿: 太閤殿下 | 2009年11月22日 (日) 16時56分

太閤殿下、そんなごむたいな(。>0<。)

なんせ、読むのは1~2分でも、書くのは2~3時間(。>0<。)図や絵を入れると、もう少し長く、時には悩みに悩んで数時間に及ぶ事もございますれば・・・

平日は、何とかPCの前に居座る事もできましょうが、土日ともなれば、夫・子供のある主婦の身の上の茶々でござりますので、いつものようには参らぬのでございます。

このブログも、すでに1300ページを越え、四年目に突入いたしておりますれば、多ければ、一つの日づけに対して4つの記事を書いております。

その日に関連する過去記事へのリンクを右サイドバーの上部に設置しておりますし、日づけから、年表から、人物名から記事を探せるように索引も儲けておりますので、できますれば、本日のように更新のない日は、過去記事へ飛んでいただければ幸いにございます。

また、史跡めぐりのHPも運営しておりますれば、そちらもよろしくお願いいたしまする。

投稿: 茶々 | 2009年11月22日 (日) 23時06分

「新皇」でしたか?

のちの三つの幕府にせよ、戦国大名の領国支配にせよ、全て天皇家を戴く統一国家、というルールと枠組みの下で存立した政権でしたね。
誰が天下を取ろうが日本国という器は決して変わらず、誰が君臨する地方であろうとあくまでそこは日本国の一部でした。天下を巡る幾多の争いも、所詮同じ国の内での主導権争いに過ぎなかったのでしょうね。

その枠組みを離れて本気で別の国家の樹立を試みたのは、後にも先にも平将門ただ一人だったのではないか?と思います。

彼の戦いと新国家の顛末?については、今から関連エントリを読ませていただきます。(まだ読んでません)

しかし「将門の乱が成功していたら?」は、「もし本能寺の変がなかったら?」と並ぶクラスの歴史ifテーマですね。
首塚がないのはもちろん、TDLに行くのに本物のパスポートが要る世の中になっていたかもしれません。

投稿: 黒燕 | 2009年11月22日 (日) 23時09分

黒燕さん、こんばんは~

将門に関しては、かなり謎に満ちていますので、推理のしがいもあり、それだけ話題も尽きませんね。

投稿: 茶々 | 2009年11月22日 (日) 23時20分

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