柳沢吉保の汚名を晴らしたい!
正徳四年(1714年)11月2日、江戸幕府・第5代将軍・徳川綱吉の御用人として知られる柳沢吉保が57歳の生涯を閉じました。
・・・・・・・・・
娯楽時代劇に登場する悪役と言えば、田沼意次(たぬまおきつぐ)(10月2日参照>>)か、この柳沢吉保(やなぎさわよしやす)か・・・
しかも、本日の吉保さん・・・水戸黄門(12月6日参照>>)と忠臣蔵(12月14日参照>>)という人気のお題での敵役ですから、これまで何度も描かれていますが、まぁ、イイ人だった事がほとんどありません。
演じられた俳優さんも、古くは山形勲や木村功さん、近くは石橋蓮司さんに北村一輝さんなどなど・・・と、どなたも1クセありそな演技派の方々ばかり・・・
それにしても、そんなに吉保さんは、悪の限りをつくしたんでしょうか?
答えを先に言っちゃうと、「NO!」です。
その一番の根拠は・・・
後ろ盾となってくれた第5代将軍・徳川綱吉が亡くなった時、江戸時代の常として、将軍が変わると同時に側近も入れ替わるという政権交代が起きますが、その時、隠居した吉保も、後を継いだ息子の吉里(よしさと)も、新政権からの処罰をまったく受けていません。
確かに、領地は甲府(山梨県)から郡山(奈良県)へと移転させられてしまいますが、石高は減らされる事なく、そっくりそのままの15万石・・・他の側近たちが、ことごとく免職・減封の憂き目に遭っている事を考えれば、おそらくは、吉保を罰する理由がなかった=彼はイイ人だったという事になります。
では、どこから、どうやって、悪役のイメージがついちゃったのか?
彼の生涯を振り返りながら、そこのところを探っていきましょう。
ちなみに、吉保さんは、その生涯で数度名前を変えていますが、本日はややこしいので、吉保で通させていただきます。
・‥…━━━☆
柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は万治元年(1658年)12月に、3代将軍・徳川家光の弟・忠長に仕えていた柳沢安忠の長男として、江戸は市ヶ谷で生まれました。
・・・で、以前書かせていただいたように、父の主君である忠長は非業の死を遂げます(12月6日参照>>)ので、その後の父は家光に仕え、さらに、当時は館林藩(群馬県)の藩主だった綱吉の家臣となります。
やがて、吉保18歳の時に家督を継ぐと同時に、綱吉の小姓として出仕します。
ちょうど一回り離れた同じ戌年生まれの二人・・・吉保の才覚を見ぬいた綱吉は、彼に、お得意の文学を教え、彼も綱吉を学問上の師と仰ぎ、主君としても仕えるという密接な関係になっていきます。
そして、その5年後、家光から4代将軍を継いだ家綱が、後継ぎがいないまま亡くなった事から、綱吉に将軍の座が回ってきますが、この時、吉保も、将軍の側にいて様々な雑用をこなす小納戸役に任ぜられ、ともに江戸城へと入ります。
・・・と、ここからの吉保は、出世街道まっしぐら!
綱吉は、自らが率先して政治を行うために側用人(そばようにん)という新たな役職を儲けますが、吉保は31歳で、格上の人たちに混じって大抜擢され、石高も1万2千石となります。
その2年後には2万石に、さらにその3年後には従四位下という官位も賜り、元禄七年(1694年)には、37歳にして川越7万2千石を賜り、城持ち大名となります。
この時には、大規模な新田開発に成功し、藩政を見事にこなしています。
その3年後には、出羽守から美濃守に出世し、松平の姓を名乗る事も許されるようになります。
やがて、綱吉の後継者に甲府藩主の徳川綱豊(後の家宣)が決まると、その後任として甲府15万石の藩主となります。
後に第6代となるこの家宣は綱吉の甥っ子・・・つまり、この甲府という地は、江戸の重要な防御の地点として、代々徳川家が治める、御三家に次ぐ徳川一門の場所で甲斐家と呼ばれていました。
そこに、吉保を・・・
いかに、綱吉の信頼が篤いかがわかります。
その後、将軍家と天皇家の架け橋となった功績もあって、いよいよ宝永三年(1706年)、大老格にまで昇進して頂点へと達しますが、そのわずか3年後の宝永六年(1709年)1月、可愛がってくれた綱吉が亡くなってしまいます(1月10日参照>>)。
新将軍・家宣には、政治顧問として学者の新井白石がピッタリとくっついていて、幕府内の力関係は一気に変わります。
ここで、吉保は、その地位にしがみつく事なくあっさり引退・・・息子の吉里に家督を譲って、駒込の別荘に隠居します。
・・・で、この時に冒頭に書いたように甲府から郡山への移転となりますが、吉保自身は、駒込の別荘にいて、その後、7年がかりで広大な庭園=六義園を完成させ、その風雅な庭を愛でながら、四季折々の風情を楽しむ老後を5年間過ごした後、正徳四年(1714年)11月2日、静かにこの世をさ去ったのです。
ちなみに、余談ではありますが、息子の吉里が、飼っていたペットの金魚とともに、郡山へとお引越しをした事から、大和郡山は金魚の町となったんですよ。
・・・と、ここまでの生涯を見る限り、何も悪い事やってないようなんですが・・・
そうなんです。
『徳川実記』など、いわゆる記録のような文献には、彼の悪行はいっさい出て来ないのです。
しいて言えば、新井白石が放つ悪口くらい・・・白石は、その著書の中で、学者とな思えないほど感情的に前将軍・綱吉の政治を批判し、それを正そうとせず、たたひたすら従った吉保を無能呼ばわりしてます。
しかし、いくらエライ学者さんのお話でも、コレだけは、そのまま鵜呑みにするわけにはいきません。
なんせ白石は、家宣の政治顧問ですから・・・現在の与党と野党のやりとりを思い浮かべていただいたら、その雰囲気も一目瞭然!
相手方の政治家を褒めるわけがありませんからね。
そんな中、現在のような「綱吉=暗愚」「吉保=悪人」のイメージが最初に登場するのは、『三王外記(さんのうげき)』という文献ですが、これは、今で言うところの、フライデーなどの写真週刊誌の写真ないバージョンみたいな本だそうで、おおもとは、事実であるものの、おもしろおかしく・・・いわゆるウケ狙いで、話を大きくしている可能性アリ。
生類憐みの令を天下の悪法として、「こんな変な事があった」「あんなバカバカしい事がまかり通った」なんてネタも、この本が出どころなのですよ。
もちろん、そこには、一代でのしあがった成功者への嫉妬も多分に含まれていて、そんな内容に、江戸市民が大いに喜んだ様子も、わからんではありません。
今だって、時代の寵児ともてはやされた後、ズドーンと地の底に落とされた人もいましたよね。
他にも、綱吉の側室・染子を娶った吉保が、その後も、妻となったその女性を綱吉に提供して、そして生まれたのが吉里・・・つまり、吉里は綱吉の子供で、それをネタに甲府を貰ったって話がありますが、これは『護国女太平記』という文献が出どころなのですが、実は、この本、今なら、実録モノ=ノンフィクション小説のジャンルに入るもので、いわゆる「事実をもとにしたフィクションです」ってヤツです。
実際には、その染子さんが大奥にいた、あるいは逆に、大奥に上がったという正式な記録なんてないわけなのですが、この後も、この話を元にした「柳沢騒動」というお芝居が大ヒットした事で、ダメ押しとなり、吉保=悪人のイメージが定着してしまう事となったようです。
第一、綱吉が亡くなって、速やかに引退する時点で、言われているような人ではない事がわかります。
本当の悪人なら、それこそ、もうちょっと悪あがきしていただかねばオモシロくありませんからねぇ。
・・・って事で、今回、ちょっとは、柳沢吉保さんの汚名を晴らす事ができたでしょうか・・・
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コメント
茶々さん、2日遅れですが、150万アクセスおめでとうございます!
私も、このブログを見るのが日課になりました。
私も柳沢吉保には良い印象がなかったですね。これはテレビの印象が影響されているかも知れません。
ただ、綱吉の時代に不可解な刀傷事件が2件あって、そのうちの1件が赤穂浪士の討ち入りに発展しました。その時の内匠頭の裁きがどうも納得出来ないですよ。
まあ、討ち入り自体後世の脚色が入っていると思いますが。
でも、吉保の奥さんの件まで脚色とは思いませんでした。
私たちが信じている歴史、特に小説テレビになっているものはどこまで信じて良いのですかね。
投稿: シンリュウ | 2009年11月 2日 (月) 10時08分
こんにちわ~、茶々様!
以前、NHKの大河ドラマ、石橋蓮司さんの柳沢吉保・・・あれはハマり役だったと思います。武張ったところがなくいかにも文治派っぽい雰囲気が・・・。
毎回、「汚名を晴らしたい」は楽しみに拝見していますが、今日も面白かったです。(*^ー゚)bグッジョブ!!
投稿: DAI | 2009年11月 2日 (月) 14時17分
シンリュウさん、ありがとうございます
堀田正俊・刺殺事件に関しては、逆に「綱吉が怪しい」なんて事を、以前書かせていただきましたが、本当にそうだとすると、その件に関しては、綱吉&吉保側が黒いイメージがありますね。
なんだかんだ言って、イロイロ想像するのが楽しいんですけどね。
投稿: 茶々 | 2009年11月 2日 (月) 17時27分
DAIさん、こんばんは~
ドラマの場合は、悪役が憎たらしいほど盛り上がるので、やはり、クセのある演技派のかたに演じてもらいたい役どころですよね~。
考えたら、田沼意次の時とまったく一緒・・・アレも、松平定信のクリーン政治を際立たせるために、前政権を悪にしたような感じですもんね~
投稿: 茶々 | 2009年11月 2日 (月) 17時32分
柳沢吉保や田沼意次は、石田三成みたいな印象(後世で風評被害を受けている)を受けます。ただ、柳沢と田沼はある意味で引き際が良く、息子の代で家が衰えてしまいますが、当人は主君の死まで重用されました。江戸時代は旗本から大名に「昇進」する事が少なかったので、譜代の旗本に嫌味や偏見をもたれたんでしょうね。大岡忠相(越前)は比較的遅咲き(「出世コース」を歩んだが、40代以降で世に出た)だったから、前述の2人と違い、さほど嫌味を持たれなかったのでしょう。大岡も晩年に1万石になっています。
徳川綱吉の1人息子・徳松が長生きしていたら江戸時代中期の歴史は大きく変わっていたでしょうね。
ただ、息子が死んだ時に男子がいないと困ると言う事で、「生類憐みの令」(当初は「男子が生まれる様に」という願いで出した)を出したと俗に言われますが、これは現在の「動物愛護法」のルーツとも言えます。
先日、犬を虐待した飼い主が逮捕されましたが、元禄時代なら極刑でしょうね。
投稿: えびすこ | 2009年11月 4日 (水) 09時30分
えびすこさん、お早うございます。
最近の与党と野党の罵りあい&責任のなすりあいを見てたら、「生類憐みの令で○○人が死刑になった」って話も、新井白石の走りすぎのような気がしてきました。
投稿: 茶々 | 2009年11月 4日 (水) 11時04分
柳沢に関してのお話いいですね。
自分は石坂浩二がすきでしたが権力者の側に居すぎたために悪人のレッテルを貼られた面がありますよね。また綱吉が偏執的な性格からくることにその責めをおっていることもかわいそうなことですよね。
投稿: 石頭堅朗 | 2010年2月21日 (日) 20時15分
石頭堅朗さん、こんばんは~
これまで、ダメ扱いされていた徳川綱吉さんが、ここ最近は、意外に名君だったという意見になりつつありますから、柳沢さんの悪人のイメージが払拭される日も、そう遠くないような気がしますね。
投稿: 茶々 | 2010年2月21日 (日) 22時02分
∑( ̄口 ̄)こんなところでご先祖の名が!
投稿: 化け猫 | 2010年7月21日 (水) 21時23分
化け猫さん、こんばんは~
ご先祖とは、どなたなんでしょうかね??
投稿: 茶々 | 2010年7月21日 (水) 21時46分
初めまして
興味深い内容のブログありがとうございます
柳沢家について卒論で調べてるのですが
私も柳沢吉保を調べるなかでこの人が悪人と思えませんね
調べていく中で甲斐国統治の間家臣一同で
「大体さへ、能(よく)候へは」という
「完璧を求め過ぎず、大体のことが出来てればそれを良しとする」スローガンを掲げて見事甲斐国に繁栄をもたらした有能な方なのだと思いました。
投稿: 247 | 2015年2月26日 (木) 12時16分
247さん、こんにちは~
そうですよね。
おそらくは、その後に政権を握った人たちによる前政権批判に尾ひれがついて、どんどん大きくなって行った感じなんでしょうね。
卒論ですか…頑張ってくださいませね。
投稿: 茶々 | 2015年2月26日 (木) 16時30分
柳沢家は皇族系氏です。創作者の悪意に 柳沢氏は 未だに沈黙しています。私は 一人で抗議 仕様と考えた事もあります。身内的の氏も
大変に心配しています。
投稿: k,a, | 2017年4月16日 (日) 17時15分
k,a,さん、こんにちは~
それこそ清和源氏の流れを汲む今川義元や忠臣蔵の吉良さん(←コチラも今川家です)は、もっとヒドイ扱いだと思いますよ。
でも、いちいち対処していると逆に器の小さいご先祖様のようなイメージがついてしまって損するような気がします。
こういう時はスルーするのがベストな対応だと思いますよ。
私のような「悪役好き」も、世の中にはたくさんいますしね。
それでもご心配なら、あなた自身が名誉回復の創作物を世に出す事が1番良い方法だと思います。
これまであまり注目されていなかった真田幸村が、あのゲームのヒットで戦国一の兵として人気になったように、イメージなんて1発で変わります。
創作物には創作物で対抗するのが良いのではないでしょうか?
投稿: 茶々 | 2017年4月18日 (火) 11時04分
茶々さん 今日は、余分な心配だった様ですね。
其の通りです。
有難う御座いました。歴史上多くの人に知られて
居ます、人物の記録、や話は、都合上、色々に変
革、変化、して行く所も有るのでしょうね。
投稿: k,a | 2017年5月31日 (水) 19時56分
k,aさん、こんばんは~
現在は、情報を得るツールも多種多様になっていますので、受け取る側の方々も、皆さま、創作物だとご承知のうえで、ドラマなどご覧になっていると思いますので、ご先祖様のイメージも、そんなに悪くないように感じます。
コメントありがとうございましたm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2017年6月 1日 (木) 03時29分
自分の御先祖様の汚名を晴らそうと
この様なページを作ってくれていた事をとても嬉しく思います。
一気に出世したりしたので
良いイメージを持たれることはあまり無い御先祖様ですが
偏見とかではなくしっかりと考えてくれている人がいる事が本当にとても嬉しいです。
余談ではありますが、
柳沢吉保の直系の子孫は明治時代が始まる前か始まってすぐに名前を変えており、
情報があやふやになっています。
一番言いたいのは
インターネットで調べて出てくる子孫は血が全く繋がっていません。
名前を譲られた養子です。
何故なら柳沢の名前は基本的に女性しか継ぐことが出来ず、
柳沢吉保の父も実は養子だったからです。
ですが、時代の流れに合わせるために名前は養子に譲り本家は名前を変えました。
投稿: てるつき | 2017年6月28日 (水) 21時26分
てるつきさん、こんばんは~
そうですか…色々あるのですね。
情報ありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2017年6月29日 (木) 01時52分