歴史からみる平時の武装放棄は是か非か?
昭和二十年(1945年)12月31日、GHQが「修身・日本史および地理の授業停止と教科書回収に関する覚書」を提示しました。
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ご存知のように、昭和十六年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃(12月8日参照>>)に始まり、昭和二十年(1945年)8月15日の日本の降伏を以って終結となった太平洋戦争・・・
上記の覚書は、戦勝国・アメリカによる敗戦国・日本への処置の一つですが、ここで、一度、停止された日本史の授業は、おそらく、現在の私たちが受ける日本史の授業とは、似て非なる物であった事でしょう。
私は、右でも左でもない(と本人は思っている)ので、どちらが良くでどちらが・・・てな事は言えませんし、以前から時々お話させていただいているように、近代史には、とにかくウトイです。
また、この太平洋戦争のあたりは、現在の政治にも影響する出来事であり、政治経済という分野の知識も皆無に等しい私には、意見をのべるなどという事はおこがましい限りで、このブログでも、このあたりの出来事を書く時は、ほぼ実況中継のような内容になっており、私見を挟むという事をしないようにしております。
ただ、以前から、歴史という観点から、少し、気になる事がありまして、本日は、身の程知らずとは知りつつ、その事について書かせていただきたいと思います。
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「平和ボケ」という言葉があります。
世界史にもウトイ私は、この現象が日本独特の物なのか?
それとも、世界のみなさんも、こうなのか?は知らないのですが、とかく、日本人は、平和になると、「軍事=悪(ケガレ)」という考えが大きくなって来るようです。
確かに、戦争はないほうが良いのは決まっていますし、平和な日々が、できれば永遠に続いてほしいというのは、皆が同一に願う事なのですが、なにやら、平和な日々が長く続くと、軍隊そのものを悪とみなす傾向があるようなのです。
そこに、日本古来から育まれている「言霊(ことだま)思想」が相まって、あたかも、「平和」「平和」と皆で叫んでいれば、平和が実現するかのように思ってしまう・・・
言葉に魂が宿る=言霊という考えについては、私は、むしろ肯定的です。
篤いエールによって人が勇気を奮い立たせる事も、やさしい言葉によって慰められるのも確か・・・でも、平和を実現するには、やはり、それなりのワザと努力が必要なのではないでしょうか?
そのワザを掴むための一指針として、歴史を紐解いてみましょう。
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歴史上、日本は、2度ほど大いなる平和を感じた時期がありました。
一度目は、平安時代に征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷を倒した時(11月5日参照>>)・・・神代の昔から敵対していた東の大国が滅亡した事で、大いなる平和がもたらされたのです。
時の天皇・第50代桓武天皇は、ここで、なんと軍隊を廃止します。
それには、平安京の造営に多大な費用が発生し、財政的に苦しいからという面もありましたが、何と言っても先ほどのケガレ・・・平和な時に、殺戮を行う軍隊を持つ事は悪であるとみなしていたからでしょう。
さらに、桓武天皇の息子の第52代嵯峨天皇は死刑も廃止します。
(実際にはヤッちゃってますが…→9月11日「薬子の乱」参照>>)
そのため軍隊に代わる組織として、警察の役目をする検非違使(けびいし)を設置しますが、この検非違使に守られた朝廷周辺こそ平穏であったものの、検非違使のいない地方ではとんでもない事になってしまいます。
この頃の地方行政官として置かれた国司は、甘い汁を吸って私腹を肥やす事ばかりに熱中し、警察としての能力は、まったく無いに等しいものでした。
こうなると、権力のある者がない者を押さえつけ、力のある者がない者に襲いかかる・・・まして、どんなに悪い事をしても死刑にならないのですから、役人は不正を働き、巷には強盗・略奪が横行するのです。
さらに、先日の土地問題で書かせていただいたように(11月30日参照>>)、この少し前に始まった荘園が急速に増えていったため、国家の財政はますます傾き、何か事件があっても解決する術を持ちませんから、荘園の開発領主や農民は、自らの土地を自らの手で守る事になり、農民は武装して国人や地侍(半士半農)となります。
そして、つい先日書かせていただいた【僧兵=僧侶の武装】(12月28日参照>>)のように、大きな荘園を持つ寺院も自らの手で寺を守るようになったのです。
つまり、ものすご~く単純に言ってしまうと・・・
平和になって軍隊を廃止した事で、地方では、自らの財産を自らで守るという武装集団=武士が誕生したのです。
やがて、その武士の時代となり、さらに群雄割拠する戦国時代を過ぎ、今度は、その武士の頂点となった人の手によって、2度目の大いなる平和が訪れます。
ご存知、徳川家康が開いた江戸幕府・・・約300年続く江戸時代です。
「さすがに、この江戸時代は、武士がいるのだから軍隊を廃止なんて事はないだろう」と思いきや、これが意外にも、幕府が求めたのは政治に精通した官僚的な武士であって、合戦で武功を挙げるような戦国時代の武士ではなかったために、幕府の基礎が固まるにつれ、そのような武士は見事にいなくなっていくのです。
厳しい武家諸法度で、各地の大名には、武器を購入するのにも、建物を増築するのにも幕府のチェックが入りますし、少しでも不穏な動きをすれば、謀反の疑いをかけられてお取り潰しとなってしまいます。
すでに、このブログでもいくつか書かせていただいていますが、あの宇都宮・日光釣天井事件では本多正純(ほんだまさずみ)が失脚し(3月18日参照>>)、加賀百万石の前田利常(としつね)は、謀反の疑いをかけられないためにアホのふりまでしています(10月12日参照>>)。
こうして、幕府をはじめ、各大名が蔵の中に保管した武器・弾薬は、眠ったまま約300年間保管される事になります。
当然、その間に兵器が発達する事もありませんでした。
またしても、大いなる平和で武装解除してしまったのです。
やがて、太平の眠りをさますペリーの蒸気船・・・ここで、はじめて、幕府にはまともな軍隊が無い事、持っている兵器が300年遅れている事を目の当たりにするのです。
それが見事にわかるのが、3代将軍・家光以来229年ぶりの将軍の上洛と、あの長州征伐=四境戦争です。
この時、上洛が決まった第14代江戸幕府将軍・徳川家茂(いえもち)の警護をする武士を一般募集するのですが、これが、後に新撰組となる浪士隊(9月18日参照>>)・・・なんとも不思議です。
本来なら、将軍の上洛を警護するのは、旗本だけで充分間に合うはず・・・なんせ、旗本八万騎なんて言われてたはずですから・・・(実際には、御家人その他も含みますが・・・)
ところが、一般募集をしたという事は、旗本だけでは足らなかった・・・つまりは、当時の旗本の多くが軍人としてではなく、政治家として存在していたからなのでしょう。
続く長州征伐では、すでに下関戦争(8月8日参照>>)を経験し、薩摩(鹿児島)を通じて最新鋭の武器を装備していた長州(山口県)相手に、幕府軍は、戦国時代の甲冑にほら貝を吹いて火縄銃を持ち出す者までいたというのですから(6月14日参照>>)、時代錯誤もはなはだしい・・・まさに、平和がもたらした武装放棄でした。
こうしてみると、軍隊のなかった平安時代に元寇のような外敵の侵略がなかった事、幕末の混乱で欧米列強に占領されなかった事のほうが、むしろ奇跡のように思えます。
太平洋戦争が終結してから、六十余年・・・大いなる平和に包まれた日本人は、またしても、軍隊を悪(ケガレ)とし、平和を声高に叫びます。
「憲法九条があれば平和は保たれ、自衛隊は憲法違反である」と・・・
果たして、本当に、武装放棄をして憲法九条を声高に主張すれば平和は保たれるのでしょうか?・・・もちろん、未来のことは誰にもわかりませんが、「歴史はくりかえされる」「歴史から学ぶ」という言葉がある以上、一度、歴史の観点から考えてみる事も必要かも知れません。
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