将軍権力の確立に生涯をかけた足利義満
応安元年(正平二十三年・1368年)12月30日、足利義満が第3代室町幕府将軍に就任しました。
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足利義満(あしかがよしみつ)は、延文三年(正平十三年・1358年)8月22日、第2代室町幕府将軍・足利義詮(よしあきら)と、その側室・石清水八幡別当善法寺通清(ぜんぽうじみちきよ)の娘との間に次男として生まれます。
同じ年の4月30日に、幕府を開いた初代将軍のジッチャン=足利尊氏が亡くなっていますので、義満自身は、尊氏の事をまったく知らなかった事になります。
・・・で、上記の通り、彼は次男・・・義満の上には、父・義詮と、その正室である渋川義孝の娘・幸子との間にできた千寿丸という男子がいて、この子が長男であり嫡男であったので、本来なら、義満に将軍の座が回ってくる事はなかったわけです。
ところが、人生わからないもの・・・その千寿丸が若くして亡くなってしまい、義満が後継ぎという事に・・・
そして、応安元年(正平二十三年・1368年)12月30日、前年の父・義詮の死を受けて、わずか11歳で征夷大将軍となったのです。
しかし、この頃の幕府は、まだまだ安心できるものではなく、若き将軍には、細川頼之(よりゆき)が執事として仕え、将軍権力を揺るぎないものにするために奔走する事になります。
特に、将軍を脅かしたのは、各地の有力守護・・・すでに敵対している勢力、あるいは将来敵対しそうな者を、ある時は攻め、ある時は内部分裂で切り崩し、将軍権力の絶対化に向けて力を注ぐのです。
明徳元年(元中七年・1390年)には、山名氏清に同族の山名時熙(ときひろ)を攻めさせ(12月23日参照>>)、自らは、美濃(岐阜県)の土岐康行(ときやすゆき)を討ち破り、翌年には、その氏清を明徳の乱(12月30日参照>>)で倒し、応永六年(1399年)には大内義弘を応永の乱(12月21日参照>>)で討ち果たします。
その間の明徳三年(元中九年・1392年)には、南朝の第99代・後亀山天皇から北朝の第100代(北朝・第6代)後小松天皇に三種の神器を譲与させ、南北朝の合一にも成功しています(10月5日参照>>)。
また、これまでの執事(将軍の補佐・後見)と引付頭人(ひきつけとうにん・政治上の事務を合議し決裁する)を統合して管領(かんれい)を創設した事も、将軍権力の確立に一役買いました。
こうして、義満は、その人生のほとんどを将軍権力の確立に費やしたのです。
その最たる物が、明(みん・中国)との外交です。
普通、「対外政策に乗り出す」と聞くと、日本という国を統一=いわゆる、天下を掌握したから、次は海外へ・・・と思いがちですが、義満の場合は、未だ抑えきれていない国内の勢力を、きっちりと抑えるがために明との外交に乗り出したような感じがします。
・・・というのも、義満は、この明との外交で、「日本准三后(じゅさんごう)」という肩書きで国書を送り、「日本国王」宛てで明からの返書を受け取っています。
この准三后というのは、読んで字のごとく「三后に准ずる位」という事ですが、この三后というのは、皇后・皇太后・太皇太后の3つで、これに准ずるという事は・・・つまり、天皇の臣下ではなく、一族という事になるわけです。
もちろん、これは義満が勝手に名乗ったのではなく、永徳三年(弘和三年・1383年)の6月に、正式に准三后の宣下を受けていたわけですが、ここで将軍(すでに将軍職は息子・義持に譲っていますが・・・)、あるいは太政大臣の肩書きを使わずに、あえて准三后=天皇の一族の肩書きで明へ国書を送り、その返書で「日本国王」と認めさせたのは、自らが日本のトップである事を外国に認めさせる事によって、反対勢力を抑えるためであったとも言われます。
もちろん、金儲けも…(5月13日参照>>)
ただし、以前、義満さんのお誕生日にも書かせていただいたように、単に反対勢力を抑えるためだけではなく、うまく行けば、天皇に取って代わろうと考えていた可能性もあるにはあります(8月22日【足利義満の「王権争奪計画」】参照>>)。
・・・というのも、このタイミングが、実に見事なグッドタイミングなのです。
鎌倉時代初期の天台宗の僧・慈円(じえん)が記した『愚管抄(ぐかんしょう)』には、「人皇(じんこう)百代中、すでに八十四代・・・」という記述が見られますが、これは、古くからある百王思想とか百王説などと呼ばれる思想で、「皇統は百代続けば、そこで断絶し、新しい王が生まれる」という考え方です。
西暦2000年前後に、何となく感じた世紀末思想みたいな感じの、大した根拠のない物ですが、人間、何となく、キリの良いところで何かが起こるという心理があるのも確か・・・。
そうです。
先ほどの南北朝合一で天皇となった後小松天皇が、ちょうど100代・・・すでに、都では、「天皇は百代で終る」とか、「天皇家のあとには足利がそれに代わる」などの噂が飛び交っていたのです。
もちろん、この巷の噂自体は、幕府が流した物かも知れませんが、このタイミングでの「日本国王」の称号に、義満はさぞかし、ほくそえんだ事でしょう。
しかし、幕切れは、あっさりとやってきます。
義満が過ごした山荘・北山殿=鹿苑寺・金閣
北山文化については、いずれまた・・・
応永十五年(1408年)5月6日、義満は病死してしまうのです。
あまりの急死に、今では暗殺説も囁かれる義満の死ですが、果たして、この先も彼が生きていたら、足利家が天皇家に代わっていたかどうかは・・・残念ながら、想像するしかありません。
もちろん、義満の心の内・・・本当に天皇家に取って代わる気があったのか、単に、国内の敵対勢力を抑えるがための一連の行動であったのかどうかも、今となっては藪の中ですが、少なくとも、将軍となったあの若き日の第一の目標であった将軍権力の確立だけは、その生涯をかけて見事に成功したと言えるでしょう。
ただし、ここを頂点に、見事な下り坂となってしまいますが・・・そう考えると、権力の維持というのは、なかなか難しいものですね。
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コメント
去年がちょうど「足利義満生誕650年&没後600年」でしたね。これを機に京都府では「室町文化美術展」とかはありましたか?室町初期は「北山文化時代」なので。
「執事」と言う言葉は今でもありますね。役職名とは初めて知りました。
年末の諸事情で、ここ数日は忙しい日々でした。2009年もあと1日と15時間ほど。それではよいお年を。o(_ _)o ペコッ
投稿: えびすこ | 2009年12月30日 (水) 08時52分
えびすこさん、こんにちは~
>去年がちょうど「足利義満生誕650年&没後600年」・・・京都府では「室町文化美術展」とかはありましたか?
そんな記念の年なら、きっと何かやっていたのでしょうが、恥ずかしながら、私は知りませんでした(/ー\*)
今「執事」というワードで検索すると、ほとんど「イケメン執事」とか「執事喫茶」とかしか出てきませんねぇ(爆)
えびすこさんも、良いお年をお迎えくださいませo(_ _)oペコッ
投稿: 茶々 | 2009年12月30日 (水) 12時39分
こんにちわ~、茶々様。
足利義満と言えば『一休さん』でおなじみですね!なんかいつも一休さんに負けてばかりで『お茶目な将軍』のイメージがありますが中々、やり手ですよね!
南北朝の統一、北山文化の創設、明貿易、はたまた百王説・・・などなど。
そこで質問ですが本当なのでしょうか、一休さんと義満将軍のトンチ話は?
よろしくお願いします
投稿: DAI | 2009年12月30日 (水) 12時48分
DAIさん、こんにちは~
残念ながら、アニメの一休さんのようなトンチ話は、後世の創作・・・というか昔話として語られた類の物だと思われます。
ただし、大人になった一休さんは、将軍権力や堕落する僧に対して、しっかりと意見する人で、破戒僧なんて呼ばれてます。
ずいぶん前に書いたページですが、コチラの一休さんのページ>>を参照していただければありがたいですm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2009年12月30日 (水) 13時18分
一休宗純が足利義満の落胤ではないのか?との慎ましやかに噂を聞いたが真相は如何なのでしょうか?
日本国王の国書を明に送るもお前はまだ畿内を治めたばかりの若造と国書を跳ね返されてしまう。これ以降九州の懐良親王の討伐戦が活発に。懐刀の今川了俊が九州の南朝勢力駆逐に赴任。菊池武光と懐良親王のタッグチームとの激闘はまた後日に(笑)
投稿: しばさきとしひろ | 2019年12月30日 (月) 08時40分
しばさきとしひろさん、こんばんは~
>一休宗純が足利義満の落胤では?
そうなんですか?
後小松天皇の落胤では?という話は聞いたことあります。
中国の大使が懐良親王を王として国交を結ぼうとしましたからね>>~慌てたでしょうね義満も
投稿: 茶々 | 2019年12月31日 (火) 23時13分